「ミュンヘン会談って何?」
「誰が何について話し合って、どうなったの?」
「宥和政策って言われるけどその理由は??」
このような疑問をお持ちの方もいると思います。ミュンヘン会談/ミュンヘン協定とは、チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツが要求したことで発生した問題を解決するため、1938年ドイツのミュンヘンで開かれた会談とそこで合意した協定のことです。
そこで今回は、ミュンヘン会談/ミュンヘン協定について開催された経緯や参加国、ミュンヘン会談の結果とその後どのような影響を与えたのか、また宥和政策と言われる理由についてわかりやすく解説します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
ミュンヘン会談/ミュンヘン協定とは
会談名 | ミュンヘン会談 |
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開催年月日 | 1938年9月29日から30日 |
開催場所 | ドイツのミュンヘン |
参加国 | イギリス フランス ドイツ イタリア |
会談内容 | チェコスロバキアの ズデーテン地方の 領土問題について |
結果 | ズデーテン地方はドイツに 割譲されることが決定 |
ミュンヘン会談/ミュンヘン協定とは、ドイツがチェコスロバキアのズデーテン地方をドイツ系住民が多く住んでいることを理由に、割譲を求めたことがきっかけとなり、開催された会談とそこで決まった協定のことです。ヒトラー率いるナチス・ドイツは第一次世界大戦で失った領土を取り戻すことと、ドイツ民族を養うため、領土を広げる必要があると考えていました。
当時、チェコスロバキアはフランスとソ連と同盟を結んでいたため、ドイツとチェコスロバキアが戦争になった場合、第二次世界大戦が始まるきっかけとなりかねませんでした。そのため、イギリスとフランスは事態を収集するため奔走し、ミュンヘン会談が開催されることになります。
イギリスとフランスが戦争回避を優先した結果、ドイツの要求はほぼすべて通り、ズデーテン地方はドイツに割譲されることになりました。これにより、ヒトラーを勢いづかせ、後に第二次世界大戦の引き金を引くことになります。
ミュンヘン会談が開催された背景・経緯
ドイツの領土要求がきっかけ
先述の通り、ヒトラーは第一次世界大戦で失った領土やドイツ民族を養えるように領土の拡張を目標としていました。そこで白羽の矢が立ったのが、オーストリアとチェコスロバキアのズデーテン地方です。
オーストリアは1938年3月にドイツに併合されたため、ヒトラーは次の目標としてズデーテン地方をドイツに渡すようにチェコスロバキア政府に要求します。ズデーテン地方を要求した理由は、ズデーテン地方にドイツ系住民が多いことと、チェコスロバキアでも有数の工業地帯で軍需工場が多く立ち並んでいたためでした。
また、ズデーテン地方にはドイツからの侵攻を阻む要塞も構築されていたため、チェコスロバキアを攻める際に障害となる要塞を無力化させるためにズデーテン地方を要求します。当然のことですが、このような要求をチェコスロバキア政府が受け入れるわけがなく、二国間に緊張が走ります。
そして、チェコスロバキアへの侵攻をヒトラーが決断し、戦争準備をドイツが始めたことで世界中が警戒し始めます。
一向に進まない交渉
この状態を危険視したフランスの首相エドゥアール・ダラディエはイギリスの首相ネヴィル・チェンバレンにヒトラーとの首脳会談を提案します。チェンバレンは戦争を回避するため、ドイツのベルヒテスガーデンに赴き、英独首脳会談を実施しました。
この会談で、次回の首脳会談まで一連の問題について武力行使をしないという約束を取り付けたチェンバレンは一時帰国し、関係者と協議することになりました。そしてチェンバレンはチェコスロバキアに譲歩させ、戦争を避ける意志を固めます。
これにフランス首相のダラディエも同意し、チェコスロバキア政府に「譲歩しなければ、今後チェコスロバキアに関心を持たない」という猛烈な圧力をかけ、ズデーテン地方の割譲を認めさせます。
この成果を手にヒトラーとの会談が行われましたが、上手くいきませんでした。ヒトラーはズデーテン地方の即時占領を訴えるとともに、ポーランドやハンガリー王国など他の国もチェコスロバキアと領土問題を抱えていることを理由にチェンバレンの仲裁を拒否します。
そのため、交渉は暗礁に乗り上げ、ミュンヘン会談に至ります。
ミュンヘン会談の参加国と参加者
ミュンヘン会談の参加者は以下の通りです。
- ネヴィル・チェンバレン(イギリス)
- エドゥアール・ダラディエ(フランス)
- アドルフ・ヒトラー(ドイツ)
- ベニート・ムッソリーニ(イタリア)
イタリアの首相ムッソリーニは仲介役として、ミュンヘン会談に参加しました。これら4か国により会談は開催されましたが、驚くことに当事者であるチェコスロバキアの代表者が会談に参加できませんでした。
チェコスロバキア代表者は会談の際、隣室で待機させられ、その際、ダラディエに「すべては英国人しだいだ。我々は彼らに従う他ない」という言葉を残したといわれています。このことから、当時列強と呼ばれた国々とそれ以外の国との力関係が明確に現れているのではないかと思います。
また、チェコスロバキアの同盟国であるソ連もミュンヘン会談に呼ばれず、このことが後に新たな火種を作る要因となりました。
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