中国国家主席とは中国を代表する国家元首のことです。中国の国家主席は毛沢東から始まり現在の習近平に至るまで、歴代7人の国家主席がいました。
この記事では、歴代の国家主席を紹介するとともに、それぞれどのような功績を残し、どのように評価されているのか解説します。また、そもそも国家主席とは何なのか、選出方法や任期、国家主席の持つ権限についてもまとめました。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
中国における国家主席とは
中国の国家主席という役職は中国における国家元首を意味し、他国における大統領と同じような役割を持っています。ちなみに国家主席という名称は正式なものではなく、「中華人民共和国主席」が正式名称となっています。
国家主席は1954年に中華人民共和国憲法が制定され、その中で、国家元首として設置されました。初代国家主席には毛沢東が就任しますが、彼の後に国家主席についた劉少奇が文化大革命と呼ばれる政治闘争に敗れ、国家主席を解任されると、その後国家主席の地位に空白が続きます。
そして、1975年の憲法改正で一度、国家主席は廃止されることになりました。廃止後は全人代常務委員会という組織が集団で国家元首の役割を果たすことが決まります。
現在の国家主席という役職が再度作られたのは1982年で、比較的最近のことになります。
任期と選出方法
国家主席の任期は5年で、選出方法は日本の国会にあたる全国人民代表大会(全人代)で選出されます。ただし、候補者の前提条件として中国国民であり選挙権、被選挙権を持つ満45歳以上の有権者であることが求められます。
国家主席の候補者は全人代において選挙が行われ、全議員のうち過半数の票を獲得したものが、国家主席に就任します。しかし、全人代の議員のうち70%は中国共産党が占めているため、中国共産党以外に所属する人が国家主席になったケースはありません。
基本的には中国共産党のトップである総書記の地位にいる人が、国家主席となることが多いです。また、これまでは憲法の規定により、国家主席の任期は2期10年を上限とする制限がありましたが、2018年に憲法が改正されたことで、この任期の制限は撤廃されました。
国家主席が持つ権限
現在の国家主席の持つ権限はそれほど強力なものではなく、どちらかというと儀礼的、象徴的なものとして印象が強いです。以下に国家主席の持つ権限についてまとめました。
- 法律公布権ー法律を公布する
- 人事権ー総理や大臣を任命する、勲章を授与する
- 命令権ー特赦令の発布、戦争状態の宣言をする
- 外交権ー国家元首として外交使節の応対、条約の批准・破棄を行う
これらの権限は全人代とそこに設置されている常設機関である常務委員会の決定に基づいて行われるため、国家主席という役職そのものに強い権限は付与されていません。
しかし、中国は憲法で中国共産党が国を主導すると定められている一党独裁の状態であるため、中国共産党のトップである総書記が最高指導者となり、国を主導することになります。また、中国の軍隊である人民解放軍を指揮監督する統帥権は中央軍事委員会主席が持つことになっていますが、現在ではこの地位も国家主席が兼任することが通例です。
そのため、国家主席が総書記、中央軍事委員会主席を兼任することで権力が集中し、間接的に国家主席が非常に強い権限を持つことになりました。
歴代国家主席とその評価・功績
毛沢東(もうたくとう)
名前 | 毛沢東 |
---|---|
代 | 初代 |
期 | 第1期 |
在任期間 | 1954年9月27日~ 1959年4月27日 |
所属政党 | 中国共産党 |
副主席 | 朱徳 |
毛沢東は中国共産党の創立メンバーの一人で中華人民共和国を建国した人物でもあります。彼は日中戦争後、中華民国との戦いである国共内戦で勝利し、蔣介石率いる中華民国を台湾に追放することに成功します。そして、1949年10月に中華人民共和国の建国を宣言しました。
そんな建国の父とも呼べる毛沢東ですが、その後徐々に暴君と化していきます。彼は急激に社会主義を推し進め、自身に反対する勢力を次々に粛清します。さらに、そのような中国共産党の独裁を批判する人々を少なくとも50万人以上を失脚・投獄しました。
そして、自身に反対する勢力がいなくなると、1958年「大躍進政策」と呼ばれる農業と工業の大規模な増産計画を実施しようとします。しかし、あまりにも現実的ではない手法と粛清が続いたため、この政策失敗に終わり、それどころか1959年から1961年の3年間に渡って大飢饉を招き、1500~5000万人以上が餓死しました。
この大躍進政策の失敗の責任を取る形で、毛沢東は国家主席の地位を劉少奇に譲ります。彼は建国の父であるとともに、大きな政策の失敗もあるため評価が難しいですが、現在中国では毛沢東の尊厳を貶めることは許されないというのが中国国内の一般認識となっています。
劉少奇(りゅうしょうき)
名前 | 劉少奇 |
---|---|
代 | 2代目 |
期 | 第2期・第3期 |
在任期間 | 1959年4月27日~ 1968年10月31日 |
所属政党 | 中国共産党 |
副主席 | 宋慶齢・董必武 |
劉少奇は大躍進政策でボロボロになった国内の状況を回復するべく奔走しましたが、非業の死を遂げた人物です。1962年に彼は今回の大飢饉は天災が三分、人災が七分と中国共産党の責任を認め、彼は政府が市場に干渉しない市場原理主義を取り入れた経済対策を採り、経済の立て直しを図りました。
そんな社会主義と逆の道を行く劉少奇の政策を見た毛沢東は「何を焦っているのか。足下が崩れかかっておるんだぞ。どうして支えようとしないのかね。わたしが死んだらどうするつもりだ!」と批判したのに対して、劉が「飢えた人間同士がお互いに食らい合っているんです。歴史に記録されますぞ」と言い返したという逸話が残されています。
毛沢東はこの状況に危機感を覚え、文化大革命と言われる政治闘争を繰り広げました。劉少奇はその標的となり、資本主義に組するものとして劉少奇は徹底的に批判されます。
最終的に中国共産党を裏切った人間として党から永久に除名され、失脚、さらに劉は自宅に劣悪な環境で監禁され、死に至り、国家主席という役職も廃止されます。彼の名誉が回復するのは毛沢東の死後のことで、除名処分も取り消されることになりました。