「一ノ谷の戦いってなに?」
「いつ、どこで行われた戦いなの?」
「鵯越の逆落としって本当にあったの?」
このように思われる方も多いのではないでしょうか。一ノ谷の戦いは平安末期の1184年に摂津国(現在の兵庫県神戸市)で行われた平家と源氏による戦いです。
この戦いで平家は大敗し、その後屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと敗北を重ね、滅亡への道をたどることになりました。またこの戦いは鵯越の逆落としや平敦盛のエピソードなどでも知られています。
この記事では一ノ谷の戦いについて、なぜこの戦いが起きたのか、結果はどうなったのかなどについていろいろなエピソードを交えながらわかりやすく解説していきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
一ノ谷の戦いとは
年月 | 1184年(寿永3年/治承8年) 2月7日 |
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場所 | 摂津国福原・一ノ谷 (兵庫県神戸市) |
対戦勢力 | 源氏 対 平氏 |
結果 | 源氏の勝利 |
一ノ谷の戦いは平安末期に摂津国で行われた源氏と平家による戦いです。この戦いは前年に都落ちして京都へ復活を目指す平家とそうはさせまいとする源氏との間で行われました。
戦いは当初両者の間で一進一退の攻防が続きましたが、一ノ谷の平家軍を源氏軍の別働隊が奇襲したことで平家側は一気に崩れて敗走しました。
一ノ谷の戦い以前は平家が京都に舞い戻ってくる勢いでしたが、この戦いに源氏が勝利したことで戦況は源氏方に大きく傾き、以後平家は敗走を重ねることになります。
一ノ谷の戦いはいつどこで行われた?
一ノ谷の戦いは1184年(寿永3年/治承8年)2月7日に摂津国福原及び一ノ谷周辺で行われました。福原は現在の兵庫県神戸市兵庫区及び中央区、一ノ谷は同市須磨区にあたります。
この戦いは一ノ谷だけではなく福原も戦場でした。それどころかむしろ主戦場は福原のほうだったのですが、「一ノ谷の戦い」と呼ばれています。これは
- 一ノ谷での源義経の戦いぶりが有名になりすぎてしまったため
- 福原がかつて一ノ谷と呼ばれていたため
など諸説があるようです。
一ノ谷の戦いはなぜ行われたのか?
一ノ谷の戦いは、京都に迫ろうとしている平家を撃退し、平家と共に行動している安徳天皇と三種の神器を取り戻すための戦いでした。
木曽義仲が京都へ攻めてきたことにより都落ちした平家ですが、勢力を盛り返して京都へ戻る日を虎視眈々とねらっていました。そして平家が福原まで戻ってきたところで、そうはさせまいとする源氏軍と戦闘になったのです。
一ノ谷の戦いの結末は?
一ノ谷の戦いの結末は、平家軍が大敗しました。
平家は上洛の足がかりを失ってしまったばかりか、有力な一門衆を数多く失い、以降は屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと敗北を重ねていくことになります。
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鵯越の逆落としは本当にあったのか?
一ノ谷の戦いといえば、鵯越の逆落としがよく知られています。これは断崖絶壁を騎馬のまま駆け下りて平家軍の背後を突き、平家を大混乱に陥らせたというものです。
この逸話が書かれているのは「平家物語」などの軍記物が主で、本当にあったかどうかは確定していません。当時の歴史書の「吾妻鏡」には鵯越の逆落としのことが書かれていますが、「玉葉」には書かれていないからです。
しかし「玉葉」にも源義経が搦手(背後)から一ノ谷を攻略したと書かれていますから、断崖絶壁を騎馬で下りたかどうかまでは不明ですが、平家軍を背後から襲ったことは間違いないようです。