関羽とはどんな人?生涯・年表まとめ【武器やその最期も紹介】

関羽(かんう)は、中国の後漢時代(建安15年前後)に生きた将軍です。

蜀(しょく)の祖である劉備(りゅうび)に仕え、後世多くの賞賛と尊敬を集めたその圧倒的な武勇と人徳は、敵の曹操でさえ惚れ込むほどだったと言われています。

関羽
出典:Wikipedia

また、孔子の思想をまとめた歴史書「春秋」の注釈書『 春秋左氏伝 (しゅんじゅうさしでん)』を暗唱するなど学問にも秀でていました。最期には悲劇的な死を遂げますが、関羽は後世で「関帝」と呼ばるほどに神格化され、今でも多くの人をひきつけています。

とはいえ、小説やドラマ・ゲームなどで名前を聞いたことはあっても、関羽がどんな功績を残した人物なのかあいまいな方も多いのではないでしょうか。また、彼の悲劇的な最期や生き様を詳しく知りたい方もいるはず。

そこで今回は、三国志の中でもトップクラスの人気を誇る英雄・関羽の生涯をご紹介。人柄や功績はもちろん、死因や逸話を年表にまとめつつ解説します。

ドラマ「三国志 Three Kingdoms」で関羽を知り、彼に魅力に心酔した筆者と共に、英雄の生涯に迫っていきましょう。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

関羽とはどんな人?

名前関羽(字:雲長)
誕生日不明
生地司隷 河東郡 解県出身(現在の山西省 運城市 塩湖区 解州鎮常平村)
没日建安24年12月( 220年 1月)
没地荊州臨沮県(現在の湖北省襄陽市南漳県 )
埋葬場所関林廟(中国 河南省洛陽市 洛竜区)

関羽はどんな人物か?

関羽の生涯をハイライト

関羽は、司隷河東郡解県(現在の山西省)に生まれました。後漢末期、政情が不安定化したためか、関羽は生まれ故郷から離れた幽州涿郡(現在の北京周辺)に移り住みます。この地で出会ったのが後漢皇族の子孫を称する劉備や後に義弟となる張飛でした。

桃園の誓い
出典:Wikipedia

劉備と関羽、張飛が義兄弟となった桃園の誓いはフィクションといわれていますが、劉備が関羽や張飛をことのほか信頼したのは間違いありません。劉備や関羽、張飛は184年におきた黄巾の乱で義勇軍を率い、反乱鎮圧に貢献しました。それを皮切りに、彼らは乱世の群雄の一角に成長します。

200年、徐州を拠点としていた劉備は曹操と戦いになり敗北しました。関羽は劉備の留守を守っていましたが、曹操軍に包囲されやむなく投降します。その後、曹操軍の武将として活躍しますが、劉備の生存を知り曹操のもとを去りました。

曹操が敗北した赤壁
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袁紹を撃破し勢力を拡大した曹操はその矛先を南方に向けます。そして、劉備や江南を支配する孫権と戦いになりました。これが赤壁の戦いです。戦いは劉備・孫権連合軍の勝利に終わり、劉備は曹操が放棄した荊州を制圧します。

劉備が勢力を西の蜀に拡大すると、関羽は荊州の守備を任されました。しかし、関羽は孫権の子と自分の子の縁談を拒否するなどして孫権との関係を悪化させてしまいます。そのため、孫権は密かに曹操と手を組み関羽打倒のチャンスをうかがいました。

樊城を守備していた曹操軍の武将曹仁
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218年、関羽は荊州の北方にある曹操軍の拠点の樊城を攻撃します。樊城周辺の戦いで関羽は曹操軍に勝利し、勢いに乗って樊城そのものの攻略を目指しました。しかし、手薄になっていた背後を孫権軍に突かれ一気に形勢不利となり敗北。孫権軍の捕虜となって首を斬られました。

忠誠心に厚い気性の持ち主

関羽の宿敵・張遼
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彼の人格といえば、忠誠心・義侠心に厚いイメージでしょう。その義理堅さは、「関羽千里行」などのエピソードにもよく表れていると思います。

また、実力を認めた者に対しては、敵であっても親交を結んでいます。宿敵であった曹操の将軍・張遼はその一人です。

しかし、彼には傲慢な一面もあったといわれています。部下には優しいですが、同僚を見下すことも多く、敵を作りやすい性格だったといわれています。自分より下だとみなした人間には容赦しないタイプですね。

例えば、正史「蜀史」費詩伝(ひしでん)には、こんなエピソードが…。

関羽は前将軍という官職に任ぜられますが、後将軍には老将・黄忠が任命されます。すると、関羽は「あんな老いぼれと同列なのか」と不満を漏らし、前将軍になるのを断ろうとします。結局、費詩(ひし)に説かれ、ようやく前将軍になったのでした。

老将・黄忠
出典:Wikipedia

さらに三国志演義では、こんな話も…。荊州を守っていた関羽に対して、呉の君主・孫権は縁談を持ちかけます。

一国の君主である孫権と劉備の臣下に過ぎない関羽が縁談を結ぶなど、ふつうはあり得ない話です。断るのが本来の筋ですし、関羽もこの縁談を拒否します。ただ、その断り方がマズかった。

彼は、「虎の子を犬の子にはやれない」とかなり馬鹿にした言い方で孫権の申し出を拒否してしまいます。彼の高すぎるプライドが見えるエピソードですね。
当然孫権は気分を害してしまいます。これが魏と呉の内通へとつながり、関羽自身の死へと結びついてしまうのです。

曹操とは敵ながらも不思議な関係だった

曹操
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関羽と曹操は、敵ながら不思議な縁で結ばれていました。

200年、曹操暗殺計画が露見し、計画に関与した劉備に曹操は激怒。曹操の追討軍に劉備は大敗し、袁紹の下に身を寄せました。この時、関羽は曹操に降伏しますが、曹操からは大変な厚遇を受けます。

関羽の武勇と義理堅さを、曹操は高く評価していたのです。関羽は偏将軍に任命されると、白馬の戦いに出撃、敵将・顔良を討ち取る大活躍を見せました。

ただ、曹操の軍門に下ったのは、一時的なものでした。劉備の消息が分かると、関羽は別れの手紙をしたため、曹操のもとを離れてしまいます。曹操は、関羽を引き留めておきたい気持ちをおさえて、追っ手を差し向けずに彼を見送りました。関羽の忠義心を重んじた曹操の計らいでした。

冷徹な曹操にここまでさせてしまう関羽は、やはりタダ者ではありませんね。それと同時に、彼の忠義心を尊重した曹操の器量も凄いと思ってしまいます。

後に、2人は赤壁の戦いで再会します。大敗を喫し、命からがら逃げる曹操は、孫権・劉備軍の追撃を受けます。そして、華容道で関羽と鉢合わせしてしまうのです。敵将を発見したのですから、関羽は曹操を斬らねばなりません。

しかし、関羽は命乞いをする曹操を見逃しました。かつて自分を厚遇してくれた曹操の恩義に報いたのです。

関羽の武器「青龍偃月刀」

青龍偃月刀を携える関羽
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関羽の愛用した武器は「青龍偃月刀」と呼ばれるものです。「大刀」と呼ばれる武器の一種で、刃の部分には青龍の装飾が施されていました。

関羽が使っていたのは、その中でも「冷艶鋸」れいえんきょ)と呼ばれるもので、重さはなんと50KG!赤兎馬に乗りながら、こんな巨大な武器をふるわれたらもはや無敵ですね。

荊州をめぐる戦いで関羽が処刑された後、彼の青龍偃月刀は、呉の武将で関羽を斬った 潘璋 ### に与えられます。しかし、潘璋は関羽の子である関興に追われ、斬り殺されてしまいます。こうして、父・関羽の青龍偃月刀は子の関興に受け継がれたのです。

ただ、実際の青龍刀はかなりの重さがあるため、主に踊りや訓練のために使われることが多かったそうです。

死因は「処刑」

関羽の死因は処刑です。樊城の戦いに勝利した関羽でしたが、その背後を孫権軍に突かれ敗走します。本拠地としていた荊州はすでに孫権軍の手に落ちたため、関羽は蜀に向かって落ち延びようとしました。

これを知った孫権は関羽の再起を恐れ、徹底した追撃を命じます。関羽を荊州西方の麦城に追い詰めた孫権は関羽に降伏を勧告しました。関羽は偽って降伏を受け入れ、その隙に脱出を図ります。しかし、脱出は失敗。退路を断たれた関羽は孫権軍につかまり、首をはねられました。

死後は「関帝聖君」として神格化される

神となった関羽の像
出典:Wikipedia

関羽は死後、関帝聖君という神として人々からあがめられました。関羽があがめられた理由は、彼が武勇の誉れ高く、信義を大切にする人物だったからです。最初、彼は武神としてあがめられました。後、彼の信義を大切にする側面が強く意識され財神や商業の神としても信仰されます。

関羽が正式に王朝から神として認められたのは北宋時代のこと。北宋皇帝の哲宗が関羽に称号を贈ったのが始まりで、以後、歴代王朝が関羽に神としての諡号を贈りました。関羽を祭る社は「関帝廟」とよばれます。

関羽の一騎打ち列伝

一騎打ちが強かった関羽

圧倒的な武力を誇った関羽。義兄弟の張飛と並んで、一騎打ちでは無類の強さを見せました。その中でも、特に有名な名勝負をご紹介しましょう。

1.汜水関の戦い / vs 華雄

汜水関の戦いで反董卓軍に参加していた関羽。董卓軍の猛将・華雄との一騎打ちに名乗りをあげました。当時官職が低かった関羽の言動に、反董卓軍の盟主だった袁紹・袁術は不快感をあらわにします。しかし、曹操のとりなしで関羽は出撃を許されます。すると、関羽はたった一撃で華雄を仕留め、首をあげたのでした。この一戦で董卓軍は敗走に追い込まれます。

史実では、華雄を討ち取ったのは、孫堅(孫権の父)でした。汜水関・虎牢関の戦いは、正史では「陽人の戦い」といいます。この戦いでの一番の功労者が、孫堅でした。彼の活躍は凄まじく、追撃に耐え切れず、董卓は都・洛陽を焼いて、長安へ逃亡してしまいました。

関羽の華雄討伐は、三国志演義の創作だったのです。

2.白馬・延津の戦い / vs 顔良・文醜

顔良
出典:Wikipedia

曹操の軍門に下っていた関羽は、曹操のライバルだった袁紹軍の顔良・文醜と戦うことになりました。この2人は、袁紹が「顔良と文醜がいれば、華雄など恐れるに足らん」といわしめるほどの猛将でした。

まずは白馬の戦いで、関羽は顔良と激突。袁紹軍に突入した関羽は、そのまま一撃で顔良を仕留めてしまいます。

次に延津の戦いで、文醜と対決します。関羽と戦う前に、曹操軍を代表する武将 徐晃・張遼と互角の勝負を演じていた文醜。関羽が現れると、3回ほど戦った所で、退散しようとします。しかし、関羽はこれを見逃さず、文醜を斬り殺してしまいました。

あまりの関羽の強さに、袁紹は激怒。袁紹軍に身を寄せていた劉備を殺そうとしたほどでした。

「蜀志」関羽伝には、関羽が顔良を討ち取ったことが記されています。一方の文醜を討ち取った者の記述はなく、関羽が討ったのは三国志演義の創作とされています。

3.長沙の戦い / vs 黄忠

関羽と黄忠
出典:VISION TIMES

劉備の荊州攻略にあたり、長沙郡に攻め入った関羽。そこで、老将・黄忠と激しい一騎打ちを繰り広げました。全く互角の戦いでしたが、戦いのさなか黄忠が落馬してしまいます。しかし、関羽は「老人と童は斬らぬ」と言ってこれを見逃します。

翌日、両者は再び戦いますが、黄忠は弓矢をわざと外しました。本来の黄忠は「100歩離れた場所から柳の葉を射抜く」といわれるほどの弓の名手でしたが、関羽の義に応えるためにあえて弓矢を当てなかったのです。両者の素晴らしい心意気が伝わる名勝負でした。

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