今日まで日本では多くの残虐な事件が起きています。私たちの記憶に新しい平成や令和に入っての凶悪事件も恐ろしいものがありますが、昭和初期から戦後間もない頃にも恐ろしい事件が数多く起こっています。
そこでこの記事では、主に戦前から戦後にかけて起きた昔の恐ろしい事件を10選紹介します。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
10位:阿部定事件 – 1936年
1936年に仲居だった阿部定が東京都荒川区の待合旅館で、性交中に愛人を殺害し、局部を切り取って逃走した事件です。阿部定は働いていた鰻屋の主人と恋仲になり、他人に気づかれないように待合旅館で性交を重ねていました。
そして事件の時は性交しながら首を絞めるという行為をしており、その延長で石田を絞殺してしまいます。そして定は石田の性器を切断し、雑誌の表紙に睾丸と陰茎を包み、逮捕されるまで持ち歩いていました。シーツには傷口の血で「定吉二人キリ」、太ももに「定吉二人」と書き、左腕に包丁で「定」と書いています。
阿部定は3日後に偽名で宿泊していた宿で逮捕されました。逮捕後に石田の局部を切り取った理由は、「いつも彼とそばにいるためにそれを持っていきたかった」と供述したといいます。定は懲役6年の刑が確定しましたが、1940年に恩赦により半分に減軽し、1941年に出所しました。その後は実名を変え生活したといい、1971年に失踪し以後行方不明となったそうです。
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9位:吉展ちゃん誘拐殺人事件 – 1963年
1963年に東京都台東区で起きた、身代金目的の誘拐殺人事件です。犯人は小原保で、身代金目的で村越吉展ちゃんを誘拐。事件後吉展ちゃんは殺害し、被害者家族からの身代金を奪い、借金返済に当てたといいます。
事件は公園で遊んでいた村越吉展ちゃんが、行方不明となりました。当初は行方不明として捜査されていましたが、犯人から身代金要求の電話があり誘拐事件と断定。そして犯人が指定した方法で身代金50万円を渡すも、犯人と連絡がつかなくなってしまいました。
警察は公開捜査に踏み切り、犯人の電話を録音したものを流し情報提供を呼びかけています。そして電話の声のアクセントから犯人は奥羽南部出身(宮城・福島など)であり、年齢は30代前後くらいであることが判明。被疑者の1人であった小原保が逮捕されました。当初小原は黙秘していたものの、様々な状況証拠から犯行を自供し、被害者の遺体は寺の墓地で発見されています。小原は1967年に死刑が確定、1971年に刑が執行されました。
8位:狭山事件 – 1963年
1963年に埼玉県狭山市で、農家の4女で当時16歳だった中田善枝さんが誘拐・殺害された事件です。被害者女性は帰宅途中に行方不明となり、被害者の姉が犯人のいうとおりに指定場所に向かいましたが、無残にも被害者は遺体で発見されます。犯人として逮捕されたのは、同じ狭山市内に住む石川一雄でした。
事件の経緯は、犠牲者である善枝が誘拐された後に、兄が自宅のガラス戸に白い封筒が挟んであるのを発見。それが身代金を要求する脅迫状だったのです。捜査で市内の養豚場に勤める人物の筆跡鑑定を行ったところ、石川一雄の筆跡が脅迫状と一致しました。
そして石川の自供で被害者のカバンを発見。石川は逮捕され死刑判決が下されますが、無罪を主張。結局前科が無かったために無期懲役が確定し31年間服役し、1994年に仮出獄しました。出獄後も一貫して無罪を主張し、裁判のやり直しを請求し、現在も弁護団が捜査しているそうです。
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7位:アナタハンの女王事件 – 1945~1950年
1945〜1950年にかけて、太平洋マリアナ諸島にあるアナタハン島で32人の男性と1人の女性が共同生活することになり、1人の女性を取り合って殺し合いとなった事件です。1950年に助け出された時には、少なくとも女性がらみの殺害が4名、過酷な生活による過労死が9名と13名が犠牲となっていました。
島にいたのは島に在住する会社員だった男女2名と、そして島に流れ着いた陸軍と海軍の兵士たち31名が合流し、それぞれ置き去りにされた島で原始人のような生活を送っていたといいます。しかし島にあったB29の残骸から拳銃が見つかったために男たちに力関係が生じ、女性をめぐって公然と殺し合いが行われるようになりました。
そして和子は4度夫が代わり、4名とも続けて変死してしまいます。そして元凶は「和子」ということに男性たちの間でなり、生命の危機を感じた和子が1人でアメリカ軍に投降。救出時32名いた男性は20名に減っていました。帰国した男性が出版した本によると、和子をめぐって殺人が7〜9件行われたと書かれています。
しかし事件の真相は、戦後の混乱と日本委任統治からアメリカ信託統治への移行時期の空白期に起こったために、現在でも不明な点が多い事件です。
6位:小笠原事件(父島人肉食事件) – 1945年
小笠原父島で陸海軍の高級幹部が、アメリカ兵の捕虜8名を処刑し、うち5名の人肉を食べた事件です。
首謀者は立花芳夫陸軍中将・森国造海軍中将・的場少佐・吉井静雄海軍大佐の4名であり、戦後の軍事裁判で大筋を認めたために、関与したという25名の軍人が逮捕されました。
終戦後にアメリカが捕虜の行方を追跡している時に発覚し、調査し通訳するアメリカ人は、食人の内容を聞き嘔吐したといわれています。裁判の結果B、C級戦犯として、立花・森・的場・伊東・中島昇大尉らが絞首刑、森は終身刑となっていましたが、別途オランダの裁判で絞首刑となっています。
事件はアメリカ軍の捕虜8名を見せしめとして処刑し、5名を宴会で食人したといいます。残りの3名は処刑されたのみに留まりました。捕虜を殺害した後に、軍医に解剖させ肉を取らせました。裁判の証言によると、立花中将は宴会の時に米兵の足手や内臓の肉を食べ「これは美味しい、お代わりだ」と喜んだそうです。
吉井は裁判で「無差別爆撃する米空軍が悪い。パイロットは処刑されて当然。人肉は戦意高揚のために食した」と主張しています。太平洋戦争末期で精神的に追い詰められており起こったと分析されていますが、それでも捕虜虐待の正当性にはならないことを考えさせられます。