「阿部定の生い立ちは?」
「阿部定の事件や動機は?」
「阿部定の晩年はどんなものだったのか知りたい!」
阿部定は、昭和初期に世間を騒げた「阿部定事件」の犯人として、現在でも広く知られる女性です。「伝説の毒婦」として注目を浴びた彼女は、被害者の局部を切り取って持ち去るという猟奇性に加え、美しい容姿を兼ね備えていたために多くの男性を虜にしました。
彼女の事件をきっかけとして、陰茎を「下腹部」と表現するようになり、サディズムやフェチズムといった言葉も広く知られるようになりました。また、彼女の犯行は長く話題となり、数々の本も出版されています。
当記事では、女性史に興味を持ち昭和の美しい殺人者について深堀りした著者が、阿部定の生涯や事件の詳細、晩年の姿をわかりやすく解説します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
阿部定とは?生涯をダイジェスト
名前 | 阿部定(サダ) |
---|---|
誕生日 | 1905年5月28日 |
没日 | 詳細不明 |
生地 | 東京都神田区 |
没地 | 不明 |
配偶者 | 正式な配偶者はなし |
埋葬場所 | 不明 |
事件現場 | 東京都荒川区の待合 |
阿部定は、1905年に畳店を経営する比較的裕福な家庭に誕生しています。兄弟は皆年が離れており、母は子煩悩かつ自身が年老いて生んだ娘なだけに、彼女を溺愛して育てました。
大人に囲まれた環境で育った阿部定は、早熟で勝ち気な性格。美しいと評判の少女でしたが、15歳になるとレイプや実家の雰囲気悪化という災難に見舞われ、不良少女へと変貌を遂げたのです。
17歳で芸妓、22歳で遊女へ転身すると、彼女の人生は転落の一途を辿ります。その後、更生を目指した彼女は1人の男性と出会い、「本当の愛」を知ることに。しかし、不倫であったために「阿部定事件」を起こし、晩年は罪を背負って生きることとなったのです。
阿部定が起こした事件とは
阿部定事件は、1936年5月に発生した殺人事件です。男性の下腹部を持ち去るというセンセーショナルな内容で、多くの人々の注目を浴びました。
人生のうちで、本当に愛するのは一人だけ
不倫関係にあった相手をなぜ殺害したのか?純愛ゆえと証言した阿部定の足取りも踏まえて、ご紹介します。
被害者は不倫関係にあった男性
阿部定事件の被害者は、東京都中野区で料亭を経営していた石田吉蔵という男性でした。彼には妻がおり、阿部定とは不倫関係にありました。石田の料亭で働いていた阿部定は、次第に彼と関係を持つようになりますが、妻や職場に関係がバレたことで駆け落ちしていたのです。
1936年5月18日、東京都荒川区の待合で彼の遺体は発見されます。待合とは、現在で例えるとホテルのようなもので、異性が食事を摂ったり、性交を行う場所として知られていました。彼女は夜間に、石田の首を浴衣の帯で絞殺したのです。
阿部定は犯行後、翌日の朝に待合を後にしており、従業員には「具合が悪いので午後まで起こさないで」と言付けをしています。彼女は愛したはずの相手を、無残な姿で殺害してしまったのです。
犯行後に局部を切り取った
駆け落ちをしていた2人は、待合で二夜を過ごしています。性交の最中、阿部定は何度か石田の首を帯で締めました。彼は止めないように言い、繰り返し行ったとされています。石田は殺害される直前、彼女にこのように伝えました。
お前が俺を絞め殺し始めるんなら、痛いから今度は止めてはいけない
石田が居眠りを始めると、阿部定は彼を絞殺。その後局部を切り取り、紙に包んで持ち去りました。その後、彼女は紙に包んだ局部を逃亡中、肌見放さず持ち歩いています。
「定吉二人きり」の血文字
阿部定は犯行後に石田の血を使い、シーツには「定吉二人きり」、左太ももには「定吉二人」、そして左腕には牛刀で「定」と刻んでいます。石田の遺体が発見されると、待合店主の証言や「定」という血文字から、警察はすぐに「阿部定」という人物を特定したのです。
そして行方を追うと同時に、新聞では事件が大々的に取り上げられました。5月20日、阿部定は潜伏していた品川区で逮捕され、法廷で石田の殺害理由について供述しています。
非常に愛していた、全てが欲しかった
彼女の殺意は「純愛」と評され、多くの男性を虜にしました。また、局部を持ち去った理由については、下記のように話しています。
一番かわいい大事なものだから、誰にも触れさせたくない。石田の下腹部があれば一緒にいるような気がして淋しくないと思った
彼女は石田を殺害後、最愛の人と結ばれることを願って血文字を残したのです。