「白洲正子ってどんな人?」
「白洲正子の著書って何がある?」
「白洲正子の性格や名言を知りたい!」
随筆家として有名な白洲正子は、日本の美しさを伝える作品を多く残しています。明治の終わりに生まれた正子は小学校を卒業後、アメリカに留学、進歩的な女性に育ちました。
白洲次郎と結婚したことで、その考えと美意識はさらに高まり、後の活躍につながります。骨董や工芸、古寺、古典文学などへ正子の興味は広がり、すべてが作品に反映されました。
正子に関するエピソードは数多く残っていますが、それを知ることで彼女がどんな人物だったのかがわかります。今回は、学生時代から白洲正子の潔い生き方に憧れを抱いている私がご紹介します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
白洲正子とはどんな人?
名前 | 白洲正子 |
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あだ名 | 韋駄天お正 |
誕生日 | 1910年1月7日 |
没日 | 1998年12月26日 |
生地 | 東京市麹町区(現在の千代田区)永田町 |
没地 | 日比谷病院 |
配偶者 | 白洲次郎 |
子供 | 春正(1931年生) 兼正(1938年生) 桂子(1940年生) |
埋葬場所 | 清涼山心月院 (兵庫県三田市西山2-4-31) |
白洲正子の生涯をハイライト
白洲正子は1910年、現在の東京都千代田区で生まれました。学習院女子部初等科を修了後、14歳で渡米してハートリッジ・スクールに入学、4年間滞在しました。
ハートリッジ・スクールを卒業後に白洲次郎と結婚、1943年には東京都町田市の古農家に移り住みます。この頃から正子は文筆家としての道を進み始め、同時に古美術への造詣を深めることとなります。
戦後は、銀座の染織工芸店「こうげい」の経営に参加して、普段着としての和服の魅力を多くの人に伝えました。また、文筆家としての活動は亡くなるまで続けました。その活動を通して、日本の中からは見えにくい、日本文化の魅力を示してくれました。
1998年、東京都千代田区の日比谷病院で肺炎のために死去、享年88歳でした。
男女の壁がなかった白洲正子
正子は自ら、幼い頃は一人でいることが好きであったと述べています。好みがはっきりしていて、率直に話す性格から、女性同士で群れることは苦手であったようです。そのせいもあり生涯を通して男友達が多く、結婚後も男性と飲みに行くことがしばしばありました。
しかし正子としては、異性と出かけているというより、気の合う人間と付き合っていて、たまたまそれが男性であったという認識だったようです。
壁がないから、性別・年齢・家柄に関係なく友達に
正子が愛用した住所録が残っていますが、青山二郎や小林秀雄、大岡昇平といった文士以外にも、政治家吉田茂に洋画家の梅原龍三郎、直木賞作家となった車谷小吉、詩人室生犀星など、年齢問わずあらゆるジャンルの人々の名前があいうえお順で並んでいます。
生涯の友となった秩父宮勢津子妃殿下も会津松平家の出身であり、両親が薩摩藩の流れをくむ正子はある意味 “仇の孫” ですが、互いに出自は気にせず、ウマが合うために親しくしていました。
正子にとって「本気で付き合いたいと思った人」かどうかという一点だけが、交友関係のポイントでした。分け隔てない、さっぱりしたこの性格こそ、白洲正子の真骨頂であったと言えるでしょう。
好きなものはとことん突き詰めた正子
幼少期に出会って衝撃を受けた能も、青山二郎との縁で始めた骨董も、店を開くことで知り得た工芸の世界も、正子はとにかく徹底的に学ぼうとします。叱咤激励も力に変えて、その世界を極めようとするそのバイタリティーは、まさに “韋駄天お正” です。
正子のルーツは東京ではない?
正子自身は東京生まれですが、両親は共に薩摩出身でした。父愛輔は初代台湾総督である樺山資紀の長男であり、母常子は西郷隆盛が実弟のように可愛がっていたと言われる川村純義の娘です。祖父が二人とも海軍軍人であったことから、正子は海軍びいきでした。
また、時には眠っていた鹿児島の血が騒ぐようで、正子の祖父たちの悪口を口走った次郎をひっぱたいたことがありました。「薩摩示現流の申し子だから」と自伝では書いていますが、薩摩の血を引いているという自覚は強くあったようです。
正子が選んだ男性は?
白洲次郎は、終戦後に日本の矜持を守ろうと活躍した人です。イギリス留学で、英国紳士らしくスーツを着こなすだけでなくジェントルマンとしての精神も我が物とし、常に筋を通す男として知られています。日本語より英語が得意で、手帳のメモや正子との手紙、秘密の会話は英語だったそうです。
夫となった次郎の存在がなければ、白洲正子は存在し得なかったと言って過言ではないでしょう。正子が青山二郎をはじめ多くの男性たちと交流を深められたのも、訳も分からず骨董の世界に飛び込めたのも、店の経営を行えたのも、巡礼の旅に出かけられたのも、全て次郎の理解あってこそでした。
夫婦円満の秘訣は「一緒にいないこと」というほど、常には側にいなかった二人で、相手の仕事の世界へは入らないという不文律があったようです。だからこそ喧嘩はほとんどしたことがないほど仲が良く、お互いに尊重し合っているパートナーだったことがうかがえます。
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いつでも真剣、人生に手を抜かなかった正子
年をとっても正子は常に自分の人生に真剣に向き合い、妥協しませんでした。
若き日に「韋駄天お正」とあだ名をつけられたことからもわかりますが、年をとってからも正子の健脚は有名で、同行する若い人を驚かす程でした。その健脚を活かして正子は多くの社寺仏閣を訪れ、作品に昇華させました。
西行に巡り合ったのは70代、それから西行の足跡を自分でたどったのですから、脚だけでなく好奇心も衰えなかったのでしょう。
80代になるころには能楽師・友枝喜久夫の芸を愛し、追っかけと称して九州まで出向くこともありました。また、古美術を愛する心も衰えず、最晩年まで買い付けを続けたそうです。
たとえ自分の子どもであっても、譲らないほど真剣な態度だったと伝わっていることからも、正子は最期まで自分の人生に真剣に向き合っていたのだとわかります。
白洲正子の名言
失敗しないよう、間違いのないよう、安全第一を目指すのも怪我の元です。たのしみがないから、直ぐあきる。物を覚えるのに、痛いおもいや恥ずかしい目をおそれたのでは成功しない。きものを見る眼も同じことです。
正子は何事も失敗して、間違えて初めて身につくのだと教えてくれています。
戦後、和服を着るのは特別なことになりました。私たちはどうしても失敗や間違いを恐れてしまうようになりました。正子はそれでは和服を着ることが、身につかないと言っているわけです。
これは和服を着るときだけでなく、すべてのことに通じるような気がします。
何でも良いから一つ、好きなことに集中して井戸を掘りなさいよ。そうすればそのうち、地下水脈に辿り着くの。そうするといろんなことが見えてくるのよ。
この言葉は正子の生き方を集約していると言えます。
この言葉を著書に記したのは、正子の娘婿・牧山圭男だそうです。彼は地下水脈にたどり着いたのでしょうか。誰にでもたどり着けるものではないでしょうが、もし、たどり着けたなら、幸せなことです。しかし、そもそも井戸を掘ろうという人が少ないのかもしれません。
本当に国際的というのは、自分の国を、或いは自分自身を知ることであり、外国語が巧くなることでも、外人の真似をすることでもないのである。
正子は日本という国を外から見つめて、初めて数々の魅力を見つけたのではないでしょうか。
これは正子の留学経験から出てきた言葉だと思われます。自分の国を正しく知らなければ、別の国を認められません。そしてこの言葉は、物事の本質を見極めるために、まず外側から見ることの大切さも教えてくれています。
今は命を大切にすることより、酒でも遊びでも恋愛でもよい、命がけで何かを実行してみることだ。そのときはじめて命の尊さと、この世のはかなさを実感するだろう。
命よりも大切なものがある幸せを正子は知っていたのではないでしょうか。
戦後、小林秀雄たちと交流を始めた正子でしたが、飲み慣れない酒のせいもあって3度も胃潰瘍になりました。しかし、正子は彼らに食らいつき、文筆家として羽ばたきます。その姿勢は後年も変わりませんでした。