南方熊楠(みなかた くまぐす)は明治・大正時代に活躍した博物学者です。「博物学」とは自然のものを集め、分類する学問のことで、熊楠は「粘菌」という生き物を数多く発見したことで知られています。特に「ミナカテラ・ロンギフィラ」という粘菌の発見は大きな業績で、世界中の生物学者たちに熊楠の名が知れ渡った出来事でした。
とはいえ、今でも新聞などでニュースを見れば「新種発見!」という記事はよく見かけますよね。では、なぜ南方熊楠は生まれて150年以上経った今でも多くの人に知られ、尊敬を集めているのでしょうか?
この記事では、民俗学者としての南方熊楠の功績に惹かれ、人物について調べるにつれどんどん彼にはまっていった筆者が、その魅力をあますことなくご紹介します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
南方熊楠とはどんな人か
名前 | 南方熊楠 |
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誕生日 | 1867年5月18日 |
没日 | 1941年12月29日 |
生地 | 和歌山県和歌山市 |
没地 | 和歌山県和歌山市 |
配偶者 | マツエ・ミナカタ (1906年から) |
埋葬場所 | 高山寺 (和歌山県田辺市) |
南方熊楠の生涯をハイライト
南方熊楠は幕末から戦前を生きた生物学者です。和歌山県に生まれ、東京大学予備門に進学したのち、中退してアメリカ、そしてイギリスへ渡ります。大英博物館に勤務し、「ネイチャー」誌へ寄稿もしていました。
帰国後は粘菌を集めて熱心に研究を行い、70種類の粘菌を新しく発見しています。明治政府の行った神社合祀政策に対し、生態系保護と民間信仰の側面から強く反対しました。この活動は現在のエコロジストの始まりと言われています。
また、民俗への関心も深く、柳田國男とともに日本の民俗学創始者とも呼ばれます。晩年には昭和天皇に粘菌について進講を行なうなど、在野の学者として生涯を過ごしました。
柳田國男は熊楠を「日本人の可能性の極限」と評しましたが、幅広い分野に関心を持ち、深い理解と知識を併せ持ったアカデミズムの枠に収まらない熊楠の功績は、そう簡単に伝えられるものではありませんでした。戦後になって著作集などが徐々に刊行されるようになり、熊楠研究が進むようになるのは平成の時代に入ってからのことです。
南方熊楠の性格は?
南方熊楠は相当なかんしゃくもちだったようで、怒り始めると手をつけられなくなるタイプだったといわれています。自分でもそういった性質をどうにかしようと思っていたのか、民俗学者・柳田国男宛の手紙に「自分は学問に打ち込むのは、熱中することで気性の荒さを落ち着かせるためだ」と残していました。
多汗症だったため、いつも薄着か裸で過ごしていました。採集のため野山をふんどしだけで駆け回ることもあり、農村の娘たちから「てんぎゃん(紀州の方言で「天狗」のこと)」と呼ばれたというのは有名なエピソードです。また、「自由自在に吐ける」という特技をもっていて、小学生時代に喧嘩になったときなどは突然吐いて勝っていたといわれています。
南方熊楠の生物学者としての業績は?
南方熊楠は粘菌の研究でよく知られています。特に「ミナカテラ・ロンギフィラ」は、分類学上の新しい「属」を発見したとして菌類を研究する世界中の学者たちに大きな衝撃を与えました。発見当時、熊楠はどこの研究機関にも所属していなかったのだからなおさらです。
植物全般の研究も多く、たくさんの標本を作製しました。また、キノコについては専門的な説明のついた3500枚もの彩色図を作っています。標本や彩色図の数を見ても、熊楠の研究に対するエネルギーの強さが分かります。
南方熊楠の民俗学者としての業績は?
南方熊楠は生物学だけではなく、民俗学の分野にも著書を残しています。英語に達者で、フランス語やラテン語の書物も読めたことから、著書の『十二支考』では干支の動物について世界各国のあらゆる伝説や説話などを紹介しています。
『南方随筆』『南方閑話』でも博覧強記ぶりは発揮されています。自由な語り口で書かれたこれらの著作は、現在の私たちが読んでも面白いです。
南方熊楠が影響を受けた人は?
南方熊楠は1892年、25歳のときにアメリカからイギリスに渡っています。そこで出会ったのが土宜法龍と孫文です。
土宜法龍は仏教学者で真言宗の僧侶だった人物です。熊楠は法龍と仏教論や哲学について語り合い、出会ってから30年にわたってたくさんの手紙をやりとりしています。
熊楠が31歳のときに、孫文はロンドンに亡命してきていました。ロンドンで出会った2人は、熊楠が和歌山に帰った後も孫文が訪ねてくるなど親交を深めています。
南方熊楠の女性関係は?
1906年の7月に、南方熊楠は40歳で結婚しています。妻の松枝は、熊楠はこの後に移り住むことになる和歌山県田辺市の闘鶏神社の宮司の四女です。結婚したとき、松枝は28歳でした。
熊楠は猫好きとしても知られているのですが、まだ結婚する前に松枝に会いに行く口実として汚れた野良猫を松枝のもとに連れて行き、洗ってもらっていたというエピソードが残っています。なんとも可愛らしいエピソードです。
南方熊楠の子孫
南方熊楠には息子と娘がいましたが、子どもがいなかったため、直系の子孫は途絶えています。娘の文枝は熊楠の最期を看取り、死後も父熊楠について語り継いでいましたが、2000年に亡くなっています。息子の熊弥は17歳の年に統合失調症を発症しました。病は癒えることなく1960年に息を引き取っています。
愛する息子の発病は熊楠を変えました。学者としての父を尊敬していた熊弥が、発作を起こすと癇癪を起こし、父の標本を引き裂いてしまうのです。発病の原因はわからないものの、「熊楠の息子」というストレスも一因と言われました。熊楠は好きだった飲酒をぴたりと止め、最期まで熊弥を気にかけ続けたのです。
なお、熊楠には兄弟が3人、妹が2人いました。南方家は1884年に金物屋から「世界一統」という清酒醸造所となり、弟の1人・常楠が後を継いでいます。現在は6代目の南方康治が社長を務めています。
南方熊楠の功績
功績1.「ネイチャー誌に史上最多51本もの論文を発表」
「ネイチャー」は1869年にイギリスで創刊された総合学術雑誌です。南方熊楠はこの雑誌に51本もの論文を発表しています。この記録はいまだに誰にも破られていません。
現在は自然科学の分野が強い「ネイチャー」ですが、熊楠が寄稿していた当時は民俗学や文化人類学など幅広い分野の論文が掲載されていました。熊楠の論文が最初に掲載されたのは1893年、「東洋の星座」という論文です。熊楠初めての論文で、この論文で熊楠はロンドンの学術界で一躍有名になりました。
功績2「時代を先取りして『エコロジー』の視点をもっていた」
1906年ごろから、政府は神社合祀の政策を進めるようになりました。小さな集落ごとにあった神社を統廃合し、特に和歌山県と三重県では多くの神社の合祀が進められています。この政策に猛反対したのが南方熊楠です。
熊楠は庶民の生活と結びついていた神社が消えることで民俗文化が途絶え、神社林によって保たれていた生態系が崩れることを危惧しました。熊楠は神社合祀政策に反対する2通の手紙を書き、柳田国男を通じて東京帝国大学の教授に送っています。この手紙は柳田によって「南方二通」と名付けられ、有識者に配布されました。
神社合祀反対運動を進めるなかで、熊楠は「エコロジー(エコロギー)」という言葉を使っています。2000年代になって進められてきた印象の強いエコロジーですが、南方熊楠は明治時代から提唱していたのです。
功績3.「1つの分野に関連のあるすべての学問について知ろうとした」
南方熊楠が「知の巨人」と呼ばれるのは、その興味の幅広さにあります。植物学から民俗学、考古学や文化人類学、さらには男色についても論考しています。1つの分野を極めようとするとたくさんの分野について知らなければならなくなるのはよくあることですが、熊楠はそれを実行しました。
土宜法龍との手紙にはさまざまな分野に対する論考が書かれています。そのなかで登場したのが「南方マンダラ」です。熊楠の仏教的世界観を示しているとされるこの図は、熊楠の見ていた世界を知る手がかりとして多くの研究がなされています。
功績4「環境保護活動により世界遺産を生んだ」
現在は「紀伊山地の霊場と参詣道」という名称で世界遺産として国内外の多くの人を魅了している熊野古道。実はここには南方熊楠のエコロジー活動のおかげで守られた自然があります。
1906年、明治政府は神社合祀政策として、一町村に一社を標準と定め、神社は整理・統合されました。熊野は自然崇拝に加えて修験道や仏教が混在していることもあり、数多くが廃社され、神社の林も伐採されてしまいます。熊楠はその森林伐採が生態系を崩すと考え、反対したのです。
反対運動にもかかわらず、合祀され伐採された森林もあったものの、一部は現在でも残されました。現代では一般的な環境保護活動も、当時は珍しいものでした。そのため熊楠は、エコロジーの先駆けとも呼ばれるのです。そして熊楠が守った自然は、今は外国にも知られる熊野古道として、世界遺産に認定されたのです。
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