インカ帝国は、13世紀から16世紀にかけて栄えた南米一の巨大な帝国です。太陽神の化身と言われる皇帝がインカ帝国を治め、高度な農耕や金属文化がありながらも、16世紀にスペイン人の侵略によりあっという間に滅んでしまいました。
インカ帝国は、精巧なつくりの用水路、地震でも壊れない石造りの建物、天文観測所など高度な技術をもった文明でしたが、文字を持たなかったためインカ帝国の詳細な記録が残っておらず、どのような国であったのかは多くの謎に包まれたままとなっています。
この記事では、以下のようにインカ帝国の成立から滅びるまでの過程、そして現在の様子を紹介いたします。
- インカ帝国は誰がつくりどのようにして成立させたのか
- 経済や政治、宗教などどのような国だったのか
- 人々の暮らしや、現在の末裔の様子
- 秘められた謎や日本人との関係性
インカの魅力にはまり、インカ帝国に関するあらゆる本を読み漁った私がご紹介します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
インカ帝国とはどのような国だった?
インカ帝国とは?どんな国?
正式な国名 | タワチン・ユウス |
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成立年 | 1200年ころ |
滅びた年 | 1533年 |
位置 | ペルー、ボリビア、エクアドル、チリ北部 |
面積 | 100平方㎞ |
人口 | 1600万人 |
インカ帝国の国名は「4つの地方からなる国土」という意味を持ち、インカとはクスコに住んでいた部族の名称で、公用語はケチュア語です。
13世紀にインカ帝国の前身となるクスコ王国が成立し、第9代皇帝パチャクティの時代に国としての形が成立しました。第11代皇帝ワイナ=カパックはさらに領土を拡張し、インカ帝国は南米一の巨大国家となりましたが、16世紀、スペイン人の侵略によって滅びまました。
インカ帝国の遺跡マチュピチュや太陽神殿、緻密に積まれた石垣など高度な技術を持ち、繁栄していたことが分かります。
しかし文字を持たなかったためインカの人々が残した記録がなく、どのような国でどのような生活をしていたのか、大部分が謎に包まれたままとなっています。インカ帝国の首都クスコとマチュピチュは世界遺産に登録されています。
インカ帝国の勢力は、最盛期にはペルー・ボリビア・エクアドルを中心に、チリやアルゼンチン・コロンビアまで及んでいました。そして約80の部族を支配し、人口は約2000万人いたといいます。地域は主に4つに分かれており、それぞれの属州が中央政府に従う連邦国家制でした。
そしてそれぞれの州に「インカ道」と呼ばれる道路網を整備し、行政・軍事・宗教などを伝達するために使用していました。インカに従属した部族も比較的自由に自治が認められていたといい、インカ帝国の勢力は拡大していったのです。
インカ帝国はどうやって成立した?日本人が作った?
インカ帝国は、クスコ周辺に住むケチュア族の中のインカ族が作った国と言われ、インカの神話では、初代皇帝マンコ・カパックは太陽神インティの息子と考えられています。
金の杖を与えられたカパックが「杖が沈む土地に国を築くように」と導きを受けた後、クスコ周辺に杖が沈んだため、インカ帝国の前身となるクスコ王国を作ったと言われてます。
ところが、「インカ帝国を作ったのは実は日本人だった」という説があるのです。インカの暮らしを守り続けるマティンガ村には「太平洋の彼方からやってきた神が王国を築いた後、『いつか私は必ず戻ってくる』と言い残し再び海へ旅立った。」という話が伝わっています。
さらに、元駐日ペルー大使フランシスコ・ロワイサ氏の著書には、「インカ帝国を作ったのは日本人で、チチカカ湖は「父」「母」の意味である。」という記述があります。
科学的には、日本などに多い遺伝子型ハプログループと同じ遺伝子を持つ人が南米の沿岸部にだけ存在するという論文が2013年に発表されました。
当時日本人が太平洋を航海し、南米に渡ることが可能だったのかというと、「黒潮の大暖流が南米へ向かっているため、船を漕がなくても黒潮に乗れば南米に到着することは可能」という意見があることから、当時の日本人が海を渡り南米に到達することは可能だったようです。
インカ帝国をつくったのは日本人だったという話は嘘みたいな話ではありますが、実際にペルーでも古くから言い伝えられている地域もあり、信じている人々もいるようです。
インカ帝国の政治や経済は?
インカ帝国は君主制で、一族による世襲制の形をとっていました。皇帝のことを「サパ・インカ」と言い、皇帝は太陽の化身で、インカ帝国は「太陽の子が統治する太陽の国」と考えられていました。皇帝を支える官僚たちは神官でもあり、インカ帝国では、政治と宗教が一体となっていました。
大部分の国民は農民ですが、同時に賦役や兵役を担っていました。農民は「アイユウ」という母系の氏族集団を形成してトウモロコシやジャガイモの栽培をし、リャマやアルパカなどの牧畜、道路の建設、灌漑、鉱山などの事業は公営となっていました。全ての土地はインカ帝国と太陽神の土地とみさなれ、土地の所有は認められていませんでした。
国民は、農作物や毛織物などの生産物を治める形で税をおさめ、集められた生産物は寡婦、老人、孤児などに分配されたり、飢饉や災害などの非常時に再分配されました。
文字を持たないインカ帝国では、人口や産業、税額や取引額はキープ(結縄)によって記録されました。キープには様々な種類の紐が使われていて、結び目は数を表し、十進法が使われていました。
インカ帝国のミイラと宗教
1999年、ミイラが発見される
1999年、アルゼンチン北部のジュジャイジャコ火山の山頂でインカ帝国時代の3体のミイラが発見されました。そのうち1体は13歳~15歳くらいの少女のミイラで、凍った状態で発見されたため保存状態が良く、安らかに眠っているかのような表情が特徴です。
外傷はほとんど無く、肌もふっくらしていて、500年もの間放置されていたにもかかわらず心臓や肺には血液が残っていました。
発見されたいずれのミイラも子どものミイラで、古代インカの生贄の儀式「カパコチャ」で生き埋めにされと考えられています。
インカ帝国では「人間の子どもがもっとも純粋である」と考えられていたため、子供が生贄にされることが多かったようです。生贄となることは名誉であり、村を守る「神」のような存在になると信じられていました。
宗教は太陽信仰
インカ帝国の宗教では、神は太陽、水、雷など自然の力を有する存在で、これらの神々からの加護を得るための宗教儀式を頻繁におこない、食物、動物、コカの葉などを捧げており、特に自然災害や飢饉などの際には、生贄の儀式がおこなわれていました。
生贄となる子供は、装飾品や上等な衣服を身に着け、豪華な埋葬品とともに「神への供物」として大切に扱われていました。
発見されたミイラの毛髪からコカやアルコールの成分が検出されたことから、選ばれた子供達は生贄となる約1年前からコカの葉やチチャ酒を与えられていたと考えられます。
コカの葉とともにチチャ酒を飲みながら山を登り、死の恐怖を和らげるため、死の直前には意識を失うような配慮がされていたようです。
皇帝はミイラになっても支配していた?
インカ帝国の皇帝は死後ミイラとなり、皇帝に仕えていた人たちも生前と同じように仕えていたといいます。そのため新しい皇帝は先代皇帝の財産を引き継げず、領土拡大する必要があったのです。
代を重ねるにつれ死者皇帝が現皇帝よりも権威を持つようになったといわれ、それぞれのミイラに仕える人で溢れることとなります。そのため12代目の皇帝がそれまでの皇帝のミイラを埋葬し、ミイラに仕えていた人たちの土地や財産を没収しようとします。そのことがきっかけで内乱に発展、その上スペインの侵攻と重なってしまったのです。