田中義一は昭和初期に総理大臣を務めた人物です。長州藩出身の軍人でしたが、政治家への転身を図ります。総理大臣就任時に発生した金融恐慌で高橋是清を起用し、見事収束させました。
一方で田中内閣は中国大陸への積極的な派兵を図っています。一連の派兵は満州事変を引き起こす遠因になりました。
田中は政治家としては厳しい評価も多いのですが、軍人としては優秀で日露戦争を勝利に導いた功労者でした。気さくな性格から周囲の人望は高く、魅力に溢れた人物でもあったのです。
田中は陸軍の派閥争いや昭和天皇にも影響も与えており、昭和初期におけるキーマンです。彼を知る事は、日本が満州事変や太平洋戦争に突き進んだ理由を知る事にも繋がります。
今回は歴代総理大臣を丸暗記した程に近代史を学んだ筆者が、田中義一の生涯について生涯します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
田中義一とはどんな人物か
名前 | 田中義一 |
---|---|
誕生日 | 1864年7月25日 |
没日 | 1929年9月29日 |
生地 | 長州藩萩城下町 |
没地 | 東京都にある田中義一別邸 |
配偶者 | 田中ステ |
埋葬場所 | 蓮正寺(山口県萩市) 多磨霊園(東京都府中市) |
田中義一の生涯をダイジェスト
田中義一の人生をダイジェストすると、以下になります。
- 1864年 長門国萩(山口県萩市)で誕生
- 1886年 陸軍士官学校を卒業後、日清戦争に従軍
- 1898年 ロシア留学を命じられ、日露戦争では満州軍参謀として活躍
- 1918年 原内閣で陸軍大臣を務め、多忙な日々を送る
- 1925年 政治家に転身を図り、政友会総裁に就任
- 1927年 田中義一内閣発足
- 1929年 総理大臣を辞した3ヶ月後に死去
田中義一の性格は?ニックネームは何?
田中は性格は気さくで庶民的な性格でした。結婚する30歳手前まで部下達と同じ寮に住み、多くの同僚や部下に慕われました。その人柄を活用し陸軍をまとめ上げています。
政友会総裁後も性格は変わらず、以下のようなエピソードがあります。
- 遊説中に見知らぬ人に語りかけられた時に、その人の父親の健康を気遣う
- 内閣書記官長の鳩山一郎が閣議をサボってゴルフをしていても、「ゴルフちゅうもうんは、そげん面白いもんかのう」とお咎め無し
田中の一人称は「オラ」であり、公の場でも口癖は抜けませんでした。そんな田中のニックネームは「オラが総理」「オラが大将」であり、親しみを込めてそう呼ばれました。
田中義一内閣の政策は?田中外交って何?
田中内閣の国内での政策は以下の通りです。
- 大蔵大臣に高橋是清を起用し昭和金融恐慌を収束させる
- 政友会に批判的な知事の左遷
- 特別高等警察の設置
- 三・一五事件等、治安維持法による思想の弾圧等
田中内閣で特筆すべきは田中外交で、満州の権益を保持する為、武力で介入を行った点です。中国では日本人が度々殺されていましたが、前内閣の外務大臣の幣原喜重郎は穏便な対応に留めています。
田中の為に弁護するならば、幣原外交は当時国内外かや強い批判を浴びており、武力による介入はアメリカ等からも一定の支持がありました。問題点は三度の山東出兵を実施するも成果は上がらなかった点でしょう。
田中内閣は政友会による政党政治でしたが、要職の多くは選挙で選ばれていません。田中が政友会へ引き入れた人物の手によって、「自由民権」を重視していた政友会は親軍的、保守的な政党へ変えられていくのです。
田中義一と昭和天皇は当時どんな関係だった?
昭和天皇は英国の立憲君主制(君主は存在するが、権力は議会や政党が持つ)に憧れを抱きます。昭和天皇は融和外交と思想の自由を望むものの、田中内閣の政策は真逆であり、当初から田中に良い気持ちはありませんでした。
極め付けは張作霖爆殺事件の処遇です。田中は「首謀者を厳罰に処する」と上奏したものの、陸軍や政友会の反発を受けて行政処分に留めました。半年後の1929年7月、行政処分の上奏を行った田中に対し昭和天皇は「それでは前と話が違ふではないか」と激しく叱責。田中の弁明を聞かず部屋に戻ります。更に鈴木貫太郎侍従長に「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再び聞くことは自分は厭(いや)だ」心境を語りました。
田中が鈴木に昭和天皇への取次ぎを願うものの、昭和天皇の気持ちを伝えて取次ぎを拒否。田中は涙を浮かべてその場を去り、その日の間に辞表を提出したのです。
田中義一の功績
功績1「陸軍随一のロシア通として日露戦争で活躍」
田中は1898年に情報収集任務と語学習得の為にロシア留学を命じられます。ロシア正教に入信し、社交ダンスの習得に励む等、性格を生かして風土に溶け込みます。更に地元の連隊に入隊しました。
留学過程で田中はロシアの弱体化や組織上の問題点、ロシア人特有の享楽的な性格等を見抜きます。1902年に帰国後は、徹底して開戦論を主張。田中の意見が反映され日露戦争は行われました。
日露戦争で田中は児玉源太郎参謀総長と共に、軍の司令系統として携わります。田中の情報がなければ、日本はロシアに勝てなかったかもしれません。
功績2「高橋是清を抜擢し、モラトリアム政策で金融恐慌を収束」
昭和金融恐慌の本質は「銀行の破綻」という間違った情報による取り付け騒ぎです。大蔵大臣高橋是清は預金を降ろす為に銀行に殺到した国民を安心させる為、大量の札束を銀行に置くという妙案を実施。
印刷が間に合わず、片面だけの200円札を銀行にばら撒き、何も知らない国民を安心させました。更に資金難の企業にはモラトリアム(支払猶予期間)を実施。2ヶ月足らずで恐慌を収束させます。
高橋は既に政界を引退していたのですが、田中が昭和金融恐慌収束の為に要請をお願いしたのです。モラトリアム政策を主導したのは高橋ですが、田中の功績も大きいでしょう。
田中義一の名言
軍隊教育は単に指揮刀を振りまわして訓練するだけではダメである。また殴る蹴るの百害あって一利なきものであるから、爾今一切そのようなことはまかりならぬ
田中は軍人は力ではなく指揮系統があって成り立つものであると伝えました。その方針のもとで陸軍をまとめ上げますが、陸軍は田中の意思を超えて暴走していきます。