「ニーチェ」が哲学者であることは、倫理の授業などでも取り上げられることから、大抵の人が知っています。
映画2001年のテーマになった「ツァラトゥストラはかく語りき」と言う、シュトラウスの交響詩の題材になった作品を執筆した人でもあります。
幼少の頃から聖書を読んだり、作曲したりと、多才でありました。 ボン,ライプツィヒ大学時代には、ショーペンハウアーやワーグナーにも傾倒しています。
古典文献学の師F.リッチュルに認められ,24歳と言う若さでスイスのバーゼル大学教授に大抜擢されましたが、健康上の理由により、1879年大学を辞し、10年に及ぶ思想的浮浪を経て1889年発狂、1900年、ワイマールに没。享年55歳と言う若さでした。
ギリシャ古典学、東洋思想に深い関心を示して、近代文明の批判と克服を図り、キリスト教の「神の死」を宣言したことでも有名です。随所に格言を用いた、巧みな散文的表現による試みには、現代でも文学的価値を十分に認められています。
善悪を超越した永遠回帰のニヒリズム、さらにその体現者としての超人の出現を求めた、生の哲学、実存主義の先駆とされるなど、現代では実存主義の代表的な思想家の一人として知られています。
ニーチェはどんな人物か?
名前 | フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ |
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誕生日 | 1844年10月15日 |
生地 | レッツェン・バイ・リュッケン(ライプツィヒ近郊の小村) |
没日 | 1900年8月25日 |
没地 | ヴァイマール |
配偶者 | なし |
埋葬場所 | レッツェン・バイ・リュッケンの教会 |
ニーチェの生涯をハイライト
ニーチェの生涯をダイジェストすると以下のようになります。
- 1844年10月15日、プロイセン王国レッツェン・バイ・リュッケンにて誕生
- 6歳でナウムブルクにある市立小学校へ入学、10歳でギムナジウムに入学
- 音楽と国語に優れ、周囲からも認められる
- 14歳から20歳までの間、全寮制の個別指導を受け、古代ギリシア・ローマの哲学や文学などを学ぶ
- 1864年(20歳)にボン大学へ進学し、神学部と哲学部を専攻
- 24歳でバーゼル大学の教授に就任
- 1872年(28歳)で処女作「悲劇の誕生」を出版
- 頭痛や胃痛などの持病が悪化したため、約10年勤めた大学教授を辞職
- 1882年、代表作である「ツァラトゥストラはかく語りき」を発表
- その後も執筆活動を積極的に行うが、1889年にトリノにて発狂
- 精神病院に通うようになったが、晩年には意思の疎通が困難に
- 1900年8月25日、肺炎にて帰らぬ人となる
ニーチェはドイツ人か?否か?
ニーチェが生まれた1844年当時、ドイツという国はまだありませんでした。彼が生を受けたザクセン地方は、プロイセン王国の統治下にあったのです。
その後、成長して得たスイスのバーゼル大学の院外教授に就任する際、ニーチェはプロイセンの市民権を放棄して、スイス国籍を取得しています。1869年のことです。
ドイツ統一は1871年でありますから、結局ニーチェはドイツ人にはならず、法律的にはスイス人のまま、現世を去ったことになります。
作曲家としての名も遺しているニーチェ
ニーチェは非常に音楽に興味を持っており、13歳頃から歌曲やピアノ曲などを作曲しています。
シューベルトやシューマン等の前期ロマン派を思わせる曲風であったと言われ、本人もまんざらでもなかったようです。
その彼が作曲をやめたのは、実際に執筆業などで忙しくなったという理由のほかに、自信作と言われる『マンフレッド瞑想曲』と言う曲を、ピアニストで指揮者のハンス・フォン・ビューローに酷評されたからだと言われています。
音楽と国語の才能に秀でていた幼少期
ニーチェは生涯において、多くの著作を残していますが、この文章力は幼い頃から発揮されていたようです。プロイセン王国ではギムナジウムという教育機関が日本でいう小学校・中学校に当たりますが、ニーチェはこのギムナジウムでの国語と音楽の成績が特に優れていました。
その才能は周囲からも認められており、幼少期から将来を嘱望されていたようです。後年、作曲も数曲で掛けていますが、その内容を高名な指揮者に酷評されたことから音楽の道は途中で諦めてしまいました。
デカダンス・ニヒリズム・ルサンチマンなどの独自の概念を発表
ニーチェはソクラテス以後の西洋哲学よりも、西洋哲学が発達する前のギリシア哲学や古代インド思想に影響を受けていました。神や権力、真理などの概念を鋭く吟味し直し、デカダンス、ニヒリズム、ルサンチマンなどの独自の概念を生み出していったのです。
- デカダンス…退廃的なこと。道徳的に崩れて不健全なさま。キリスト教的価値観に懐疑的な思想のことを指す。
- ニヒリズム…虚無主義。今生きている世界や過去や現在における人間の存在には本質的な価値がないと主張する哲学的立場。
- ルサンチマン…弱者が強者に対して「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つこと。セーレン・キェルケゴールが提唱。
永劫回帰説を提唱
ニーチェの思想として有名な「永劫回帰説」も彼自身の著作「悦ばしき知識」の中で誕生しました。永劫回帰説とは世界や人類が何かしらの目標に向かって進んでいるのではなく、これまでもこれからも同じような世界を何度も繰り返すという価値観のことです。
この思想もキリスト教への懐疑から来ており、キリスト教の思想である「今現在の生存することの苦悩は来世において報われる・解決される」という考えを否定し、どのように生まれ変わっても同じような人生が繰り返し続くということを述べています。このような考え方が「超人」思想へと繋がっていくのです。
この世の理想像として「超人」という思想を考案
ニーチェの思想においては「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つものが弱者であり、それを乗り越えることのできたものが強者であると定義されています。そして、生存の前提となる価値を常に探し続け、流転する真理を受け入れ続け、自分が今ここで生きている事実を肯定し続けていけるものが「超人」であると結論づけました。
この「超人」こそがニーチェの思想において生の理想的な像として作り上げられ、定義づけられたのです。
愛しすぎるニーチェ 。彼を取り巻いた女たちとは?
1900年55歳で没するまで独身を通したニーチェ。しかし、彼の短い生涯に外せない女性達を紹介します。
一人目は妹のエリーザベト。彼女は6歳の頃、既に文章を書き始めていた兄の文献を集め、後に「ニーチェ文庫」なるものを設立します。
二人目はルー・ザロメ。ニーチェ43歳の時に出会った若干21歳のザロメは、知識人であり、自らがニーチェの理想的解釈者であると、ニーチェに認めさせた女性でもありました。
しかし彼女はやはり哲学者でニーチェの友人、パウル・レーとも関係を持ち、結局ニーチェから離れます。
3人目はニーチェが傾倒した作曲家、ヴァーグナーの妻コジマ。学生時代から熱烈なヴァーグナー・ファンであったニーチェは、その妻コジマにも尊敬と愛情を持ち、年齢差を超えて敬愛の友として慕っており、発狂した後も書簡を送っています。
ニーチェにとっての「病」とは、ある種の覚醒剤であった。
彼の人生において、「病気」というものは一生切り離せるものではありませんでした。
長患いをしている者の特徴として、「病気との付き合い方に慣れてくる」と言うことがあります。ニーチェも年季の入った熟練工のように、病と付き合う方法を自分に持っていました。
彼は、「病とは身体のエネルギーの低下であり、精神の低下ではなく、むしろその苦しみにより、思考を研ぎ澄ますものである」と書き記しています。最終的には発狂した果てに人生を終えていく彼には、同時に湧き上がってくる創作意欲を、冷静に保ち続ける必要があったのかもしれません。
「神は死んだ」ニーチェのキリスト教批判
ニーチェについて触れる時、必ずと言っていいほど出てくるフレーズが、「神は死んだ」です。
このフレーズの意味は、簡単に言ってしまえば「キリスト教の神が、キリスト教徒たち自身によって殺害された」と言うことです。
とはいえ、イエスの教えを批判していたのではなく、キリスト教が庇護する弱い者たちが、その庇護に甘え、いつの間にか、神を信じることを辞めてしまう未熟さによって、キリスト教が失われる、そういう実践面での力の喪失を「神の死」と表現していたのでした。