ニーチェの略歴年表
1844年、プロイセンの寒村レッケンで生まれます。
5歳の時、父が35歳で早世。同時に弟も二歳で死去。男手を失った母フランツィスカは、父方の祖母と兄のクラウゼ牧師を頼って、ニーチェと妹のエリーザベトとともに、ザーレ湖畔の小都市ナウムブルクに移り住むことになります。
1854年からナウムブルクのギムナジウムへ通い始めました。ギムナジウムでは特に、音楽と国語の優れた才能を認められ、さらに勉強やスポーツ、芸術や作曲にもに励みました。
その噂を聞いたドイツ屈指の名門校プフォルタ学院から給費生として入学を許可されます。
プフォルタ学院終了後、神学を学ぶためにボン大学へと進学しました。この時期ニーチェの学問的人生に大きく影響を与えた人物と出会うことになります。
一人は典文献学の権威フリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチェル。さらにリッチェルは自身が転職したライプツィヒ大学へと編入したニーチェにヴァーグナーを紹介しています。
ニーチェの具体年表
1844年 – 0歳「フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ生れる」
牧師の息子として誕生
1844年10月15日、ニーチェはプロイセン王国領プロヴィンツ・ザクセン、ライプツィヒに程近いレッケン村に生まれました。1846年には妹のエリーザベトが、その2年後には弟のルートヴィヒ・ヨーゼフが誕生しています。
父親のカール・ルートヴィヒはルター派の牧師で、家庭は裕福でした。ニーチェは幼少期のことを幸せだったと後年回想しています。
信仰のはじまり
ニーチェの父は牧師になる前、ニーチェに授けた名前の主であるプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世の宮廷で、数年間王女たちの教育に携わっていました。レッケンの牧師には国王が直々に任命していて、そのため王家に対して並々ならぬ尊敬の念を抱いていました。そのため、息子にフリードリヒ・ヴィルヘルムという名前をつけたのでした。
一介の市民が、王家の王女たちの教育係になれるわけはありません。ニーチェの父の家系は代々裕福で、祖父、曾祖父ともに牧師でした。ニーチェはキリスト教に対して、違和感なく受け入れることができていたと想像できます。
当時のドイツ語圏において、牧師という職業は単なる宗教家の域を超えており、上流市民階級の代表的な職業でした。文化を指導する役割も与えられていたことから、牧師の家に生まれ、幼いころから信仰がともにあったことは、ニーチェの著作活動にひそかに「使命感」を与えていたのではないでしょうか。
1849年 -5歳「父親と弟の死」
父を亡くし、弟を亡くす
1848年、父のカールが玄関先の石段で転倒、頭を打ちました。この時の怪我が元で、1849年ニーチェ5歳の時に亡くなってしまいます。
それを追うように、翌年1850年、弟ルードヴィヒが病死。いきなりの悲劇が一家に大きな悲しみと、運命の方向転換を強いることになります。
男手を失った母・フランツィスカは、父方の祖母と兄・クラウゼ牧師を頼って、ニーチェと妹のエリーザベトとともに、ザーレ湖畔の小都市ナウムブルクに移り住むことになったのでした。
「書くべき引きこもり」としてのニーチェ
ニーチェは、このナウムブルクで小学生時代を過ごしました。同時に、ギンナジウム(ドイツまたは、その近隣諸国の大学進学を前提とした中等教育機関)入学準備のための私塾にも通うようになります。ここで、ギリシャ語、ラテン語の初歩教育を受けたことから、ニーチェの語学への探求心と才能が花開いたと想像できます。
ニーチェの「書くこと」への情熱は、ナウムブルク時代から始まったようです。ニーチェを敬愛していた2つ下の妹・エリーザベトが、6歳の頃から兄の散文を収集してきたことを考えると、8歳の頃には既に文章を書き始めていたことになります。
12歳で彼が書き始めた日記や、そのほか書きに書き詰めた文章には、その年齢でありながら、既に「回顧録」や「自伝」を試みている傾向があります。冒頭は必ず5歳の時の父の死と、翌年の弟の死について書かれ、神が与えた試練と、それを克服する様子が書かれていました。
これ以降、狂気のために筆をとれなくなるまでの間、彼はひたすら自分のために書き続けています。彼は否応なく、死について考えたでしょうし、その交錯する思想と現実の記憶をとどめておくためにも、書き続けていたと言われています。
ソクラテスの人生が、その哲学的「対話」のうちにのみあったのと同じように、ニーチェは自分の「書き物」のうちに生きていたと言えるでしょう。
1858年 -14歳 「プフォルタ学院に転学」
1858年、ニーチェはドイツの名門校・プフォルタ学院に転学します。その少し前に伯母と祖母が亡くなり、ニーチェの母がナウムブルクを離れるのを決めたことから、「給費生としてプフォルタ学院に来ないか」と声がかかったのです。この学校でニーチェは古代ギリシャやローマの古典や哲学、文学を叩き込まれ、とても優秀な成績を残しています。
プフォルタ学院での学生時代にニーチェは詩作や作曲をし、またお互いに評価しあうグループ「ゲルマニア」を結成しています。ニーチェの文学的な素養や音楽への関心は、このころに培われたのかもしれません。
1864年 – 20歳「信仰からの脱却」
古典文献学を学び始める
プフォルタ学院を卒業し、ニーチェはボン大学の神学部と哲学部へ籍をおくことになりました。神学部に入学したのはニーチェが父と同じように牧師になることを願っていた母のためだったと思われますが、やがて興味は哲学部で学び始めた古典文献学へと移っていきます。
結局、母と大喧嘩の末、信仰を放棄してしまいます。この時代、牧師の息子が信仰を捨て去るということは大事件であり、夫亡き後、ニーチェに大きな期待をもっていただろう母にとっては、晴天の霹靂、人生の一大事だったことでしょう。
その1年後、文献学界の大物、フリードリヒ・リッチェルがライプツィヒ大学の教授になります。その後を追うように、ニーチェもライプツィヒ大学へ移り本格的に古典文献学を学ぶことになりました。
リッチェルの強力な後押しを受けて、学界で頭角を現してきたニーチェは、1869年の春、24歳という異例の若さで、スイスのバーゼル大学へ員外教授として招かれます。実はこのときニーチェはまだ大学生であり、大学教授になる資格は何ひとつ持っていませんでした。それにもかかわらず、年長の候補者4人を抑えて就任しています。
教授になるための資格は、ライプツィヒ大学から無試験で与えられています。リッチェルを中心とする文献学界のニーチェへの期待はかなり大きかったのでしょう。
ショーペンハウアーとヴァーグナー
生涯を通じて音楽に強い関心をもっていたニーチェは、学生時代から大作曲家・ヴァーグナーの熱烈なファンであり、「ヴァーグナー主義者」と言われるほどでした。その2人の関係を語るときに外せないのが、ショーペンハウアーという哲学者です。
実はニーチェとショーペンハウアーは実際に出会ったわけではなく、ショーペンハウワーの著書をニーチェが愛読していたということなのですが、ことヴァーグナーとの出会いにおいては重要なアイテムとなりました。
ニーチェとヴァーグナーとの出会いはニーチェ24歳、1868年の秋でした。1年間の兵役を終え、ライプツィヒに戻っていたニーチェは、ちょうど滞在中であったヴァーグナーに面会を申し込みます。
ヴァーグナーも自分の作品に傾倒しているニーチェの評判は聞いており、2人の会談は11月のある夜に実現しました。そのとき意気投合したきっかけが、2人が愛読していたショーペンハウアーの著作なのです。ここから2人の10年にわたる親交が始まります。
1869年 – 24歳「若き大学教授から哲学者へ」
バーゼル大学での教授時代
バーゼル大学に赴任したニーチェは、古代ギリシャの古典文献学を専門とすることになりました。自分にも学生にも厳しい教授スタイルは大学で話題となっています。生涯の友人となる神学教授・フランツ・オーヴァーベックと出会ったのもこの大学でのことでした。
1872年、ニーチェは第1作『音楽の精神からのギリシャ悲劇の誕生』(現在は『悲劇の誕生』と改題)を出版します。けれども、古典文献学の手法ではなく哲学的な推論を用いたこの著作に、リッチェルをはじめとする文献学者たちは1人も賛同しませんでした。こうした悪評が響き、この年の冬学期のニーチェの講義には古典文献学専攻の学生が誰ひとり出席せず、学科内で完全に孤立することになってしまいます。
ヴァーグナーとの離別
バーゼル大学に就任した後、ニーチェとヴァーグナーの親交が改めて始まります。当時ヴァーグナーはバイエルン王国から国外退去を命じられていて、拠点となっていたミュンヘンを追われ、スイス中部のトリプシェンに妻・コジマと共に隠棲していました。
孤立状態にあったヴァーグナーが、自分の芸術の理解者を喜ばないはずがありません。ニーチェを親しい友人として迎え入れ、構想中のバイロイト祝祭劇場の建設計画を語り聞かせたりしています。
このトリプシェン時代、ニーチェはヴァーグナーを心底敬愛し、毎日のようにヴァーグナー邸を訪れ親交を深めていました。しかし、その理由は単なる憧れだけでなかったようです。
ヴァーグナーはニーチェの亡き父と同い年で、そのころ59歳になろうとしていました。芸術家としての尊敬もさることながら、自分の父親のように思えていたのでしょう。
1872年、ヴァーグナーを病的に寵愛したことで有名なバイエルン国王・ルードヴィヒ二世の庇護を受け、バイロイトへ居を移したヴァーグナーは、自分の作品を理想的な環境で上演するために「祝祭劇場」の建設資金を得るために奔走しはじめます。
崇高かつ最愛の芸術家であったヴァーグナーが、金を得るためにあらゆる手段を講じる興行師となってしまったことで、ニーチェは激しく幻滅しました。2人はだんだんと疎遠になっていきます。
『人間的な、あまりにも人間的な』出版、そして退職
1878年、ニーチェは『人間的な、あまりにも人間的な』を出版しました。形而上学や道徳、宗教や性にまでさまざまなテーマを含んだこの著作は、ニーチェの思想における初期から中期への分岐点とされています。この出版を皮切りに生涯で最も多産な時期に入りました。
しかし、ニーチェは幼少時から極度の近眼で、急に何も見えなくなったり、片頭痛や激しい胃痛があったりと健康上の問題を抱えていました。そのうえ1868年の落馬事故や1870年の兵役中に患ったジフテリアなどにより、体調が悪化してしまいます。ついに就任10年目にして、バーゼル大学を辞職しました。
1880年 – 34歳 「漂流の哲学者」として
最も精力的に執筆した時期へ
バーゼル大学を退職後、ニーチェは自分の体調に合わせて生活拠点を変えており、「漂流の哲学者」としての生活を始めました。夏はスイスのグラウビュンデン州サンモリッツ近郊の村シルス・マリアで。冬はイタリアのジェノヴァ、ラパッロ、トリノ、あるいはフランスのニースなどで過ごしています。ナウムブルクの家族のもとにも顔を出しましたが、妹のエリーザベトと衝突を繰り返していました。
1878年から10年間、ニーチェは毎年1冊ペースで出版する最も多産な時期に入ります。特に、執筆生活最後となる1888年には、5冊もの著作を書き上げると言う驚異的な創作を成し遂げました。
発狂するまでの間、全力で著作活動を続けていたニーチェは何に急き立てられていたのでしょうか。それが迫りくる狂気の影であったとしたら、語るべきこと全てを語りつくして発狂したと言うことになります。
ルー・ザロメへの恋慕
1881年に『曙光:道徳的先入観についての感想』、翌年に『悦ばしき知識』の第1部を出版したニーチェは、著述家でエッセイストのルー・ザロメと知り合います。ニーチェはザロメに恋をし、共通の友人でザロメを紹介してくれたパウル・レーを差し置いて彼女にプロポーズをしました。このころレーもザロメに求婚していて3人は三角関係にあったのですが、ザロメは2人の申し出を断っています。
この三角関係をかき乱したのがニーチェの妹・エリーザベトです。エリーザベトは兄の恋愛を引き裂くため、ニーチェの手紙を偽造・廃棄したり、ザロメをひどい言葉で中傷したりしています。この策略もあって、ザロメとレーはニーチェを残してベルリンで同棲生活を始めることになりました。
『ツァラトゥストラはかく語りき』の執筆
失恋や家族との不和、病気の発作や自殺願望などに襲われたニーチェは、イタリア・ラパッロを訪れます。ここで10日間のうちに書き上げられたのが『ツァラトゥストラはかく語りき』の第1部です。1885年には第4部までが書き上げられています。
このころ、ニーチェは自分の著作が全く売れないと悩んでいました。けれども1886年には『善悪の彼岸』を自費出版、それまでの著作にも第2版が出始めます。ニーチェは気づいていませんでしたが、彼の思想は少しずつ受け入れられつつあったのです。
1889年 – 39歳「発狂、晩年へ」
鞭打たれる老馬
1881年ごろから、ニーチェは『権力への意志』の構想を練っていました。未完に終わることになるこの著作の推敲を重ねていた1889年のある日、ニーチェは道端で乱暴な馬主に鞭うたれていた老馬を見かけます。
ニーチェはその馬の首に抱きつき、むごい仕打ちを止めてくれと泣きながら懇願して倒れてしまいました。そのまま発狂、これを期に彼の著作活動は停止します。
バーゼル大学付属の精神病院に入院し、イエーナ大学付属精神病院へ転院しました。その後は母の要望でナウムブルクへ帰り、母の庇護のもと治療を続けますが、徐々に全身が麻痺していき、会話にも支障が出てくるようになっていきます。
皮肉なことに、この頃からニーチェの名は、次第に同時代の間で知られるようになっていきます。あれだけニーチェが待ち望んでいた、哲学の暗黒時代が終わろうとしていたのです。残されたニーチェの著作から道は拓かれていきました。
しかし、既にニーチェには新たに語る言葉は残っておらず、1900年、肺炎のために55歳の生涯を閉じるのでした。
ニーチェという人
ニーチェの風貌を表現した文章があります。
髪はブラウン。おでこは広い。髪は後ろになでつけている。頬骨は出ている。肩幅は広いが、背は高くない。太ってはいない。強度の近眼。 声は大きくない。ゆっくりと物静かにしゃべる。笑い声は低く、ひっそりとしている。また、たたずまいに静けさがあった。目立つほど孤独そのものの姿だった。
この描写に反して、彼の思想は常に苛立ちを伴い、情熱的で時には暴力的な強さを伴っていました。その癇の強さゆえ、18歳からの頭痛に始まり常に病と共存、最終的には狂気のうちにその生涯を閉じます。
ニーチェのなかには、常に「超人」と「未人」という強者と弱者の戦いがあり、まるで「ジギル」と「ハイド」のように、彼自身の思想を奪い合っているようでした。もしかしたら、本当の「フリードリヒ」は父を亡くした5歳の子供のままだったのではないでしょうか。彼が紡ぎだしてきたその「言葉」は、「生きるための哲学」として、彼自身を支えつづけた、唯一の友であったと言えるかもしれません。
ニーチェの関連作品
ニーチェに関連するおすすめ本
「悲劇の誕生」
近代的な学問の立場を根底からひっくりかえし、「問題の書」とも言われています。
「人間的な、あまりにも人間的な」
ヴァーグナーとの訣別を決意したニーチェは、持病の療養もかねてイタリアへ避難。そこでの生活の中で、少しずつ書きためていったこのノートが、後々までもニーチェの文章形式を決定づけることになりました。アフォリズム集の第一作。
「ツァラトゥストラはかく語りき」
晩年のニーチェが、その根本思想を体系的に展開した第一歩というべき著作。「神は死んだ」という言葉で表わされたニヒリズムの確認から始まり、神による価値や目的を剥ぎとられた人間が存在する意味が、何によって見いだされるのか問答する。
「超訳 ニーチェの言葉」
初めてニーチェに触れる方にお薦めしたい一冊です。彼の思想からなる、名言がいつの間にか疲れた心を癒してくれます。論理展開は難しい、けれど、ニーチェと言う人に触れてみたいと言う初心者本としてうってつけです。
「ニーチェの顔 他十三篇」三島 憲一 (編集), 氷上 英廣 (著)
ニーチェのテクストとその時代を丁寧に結びつけ、情景に佇む静謐なニーチェを描き出していくと言う名著です。斎藤茂吉や萩原朔太郎など日本人の書いた文学とも関連させた論考も興味深く、様々な角度からニーチェを知ることができる名著です。
【24年1月最新】ニーチェをよく知れるおすすめ本ランキングTOP12
ニーチェに関するおすすめ映画
「ニーチェの馬」
「倫敦から来た男」で知られるハンガリーの名匠タル・ベーラが、ドイツの哲学者ニーチェの逸話を題材に、荒野に暮らす男とその娘、一頭の馬のたどる運命を描いた作品です。
1889年、イタリアでムチに打たれた老馬車馬を目にしたニーチェは馬に駆け寄ると卒倒し、そのまま精神が崩壊してしまうと言う逸話がベースとなり、美しいモノクロームの映像で全編綴られています。
関連外部リンク
ニーチェについてのまとめ
哲学者ニーチェの一生を様々な角度から見てみると、たった55年の生涯を生きたと思えないほどの、道筋が見えてきました。しかし、どれもやはりニーチェの頭の中から育ってくる枝で、花をつけた物もあれば、その花が摘み取られたものもあります。
もしかしたら、彼はもっと生きて、溢れ出てくる思想を書き残したかったかもしれません。同時に、あまりにも溢れ出てくる想いを受け止め切らずに、精神を破壊するしかなかったのかもしれないとも思えます。
この記事が、ニーチェと言う哲学者の残した言葉を探す「きっかけ」となればと願います。