葛飾北斎とはどんな人?生涯・年表まとめ【作品や性格も紹介】

葛飾北斎(かつしかほくさい)は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師。北斎は数え90歳でこの世を去るまでに3万点もの作品を残しました。ざっくり計算すると1日に1作品以上描いていたことになります。

北斎の影響力は、1998年にアメリカ「ライフ」誌が企画した「この1000年間に偉大な業績をあげた世界の人物100人」に日本人でただ1人ランクインするほどです。

富嶽三十六景 神奈川沖浪裏

19歳という若さで絵の才能を認められ絵師としてデビューするも、貧乏な暮らしが続きます。しかし絵に対する執念ともいえる、異常なまでの向上心で30代後半で才能を開花させ、大ヒットを連発する人気絵師へと成長していきました。

生涯で脳卒中に2度倒れるなどの苦難がありながらも、執着ともいえるほどに常に絵筆を握り、「北斎漫画(ほくさいまんが)」や「富嶽三十六景」といった、海外でジャポニスムを引き起こすきっかけとなる影響力をもった作品を多く世に生み出します。

2020年3月から発行されるパスポート

2019年には、新しくなる日本国パスポートのデザインは北斎の「富嶽三十六景 凱風快晴」に決定されるなど、現代においても色あせない傑作を残しています。まさに日本を代表する偉人といえるでしょう。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

葛飾北斎どんな人物か

名前葛飾北斎(かつしかほくさい)
誕生日1760年10月31日
生地武蔵国葛飾郡(東京都)
没日1849年5月10日(享年90歳)
没地浅草(東京)
埋葬場所東京都台東区元浅草 誓教寺

葛飾北斎の生涯をハイライト

葛飾北斎

葛飾北斎は1760年10月31日、武蔵国の葛飾郡本所割下水(現在の東京都墨田区)の川村家に生まれました。両親について詳しいことはわかっていないのですが、4歳で鏡磨師・中村伊勢の養子となります。中村家の家督は継がず、12歳から貸本屋に住み込みで働き始めました。

19歳で役者絵の天才・勝川春章のもとに弟子入りします。入門した当初から実力を認められ、その年に勝川春朗としてデビューしました。生活は貧しかったようですが、副業をしながら画業を続けていきます。

34歳のときに師匠・春章が亡くなり、北斎は勝川派を破門になります。36歳で琳派(りんぱ)の3代目俵屋宗理を襲名、美人画で人気を博します。琳派を出て「北斎」と名乗り始めたのは39歳のときのことです。

「冨嶽三十六景 御厩川岸より両国橋夕陽見」

北斎の人気はどんどん上がり、51歳のときには全国に200人以上の弟子がいました。55歳で出版したのが、後にヨーロッパで発見されて流行する「北斎漫画」です。さらに72歳のときに名作「富嶽三十六景」を発表、大ヒットとなりました。

晩年は火事に遭ったり、脳卒中で倒れたり苦難もありましたが、それでも食らいつくように制作を続けました。1849年、北斎は90歳でその生涯を終えました。

北斎の生い立ち

生誕地には北斎についての看板が立っている

北斎は宝暦10年9月23日(1760年10月31日)、現在の墨田区の一角である武蔵国の葛飾郡本所割下水(かつしかぐんほんしょわりげすい)に川村家の息子として誕生したとされています。

両親に関してはっきりとしたことは分かっていませんが、生家は川村家という説があり、4歳の頃には幕府御用達の鏡磨師の・中島伊勢(いせ)の養子となります。しかし家督は後に実子に継がせ、自らは家を出て絵師となります。

常識離れした行動が多かった北斎

「くわい」を毎日食べていた

北斎は奇妙な行動の多い人物でした。絵のこと以外には無関心で、たとえば衣類は雑な手織りの木綿、柿色の袖なしはんてんにわらじという、当時でも田舎の農民しかしないような服装をいつもしていました。本人は「田舎者」と呼ばれるとひそかに喜んでいたようです。

さらに食生活も変わっていました。自分で料理をすることはなく、買ったものか人からもらったものを食べていたといいます。かなり乱れた食生活を送っていたようですが、それでも90歳まで長生きしたのは毎日食べていた「くわい」のおかげだとか。

ちなみに、身長は180センチ。江戸時代の平均身長が155センチといわれているので、当時はかなり長身で目立ったのではないでしょうか。

子供は6人、そのうち三女は画家に

三女・お栄(葛飾応為)

北斎は生涯に2度結婚しており、最終的には子供が6人いました。
家族構成は以下の通りです。

  • 父:川村
  • 母:不明
  • 最初の妻:不明
  • 長女:お美代
  • 長男:富之助
  • 次女:お辰
  • 2番目の妻:こと
  • 三女:お栄(おえい)
  • 四女:お猶(おゆう)
  • 次男:崎十郎

このうち、三女のお栄は絵がうまく、後に葛飾応為(おうい)という画家になります。北斎の制作を手伝いながら自身も絵を描き、特に美人画では北斎に「応為にはかなわない」と言わせました。

6歳にして絵に目覚める

北斎の師匠・勝川春章の浮世絵

北斎が絵に興味を持ち始めたのは6歳の頃です。木版技術が発達し、多色刷りの錦絵が出回り始めた頃でした。

12歳のころに貸本屋に丁稚(でっち)として働きます。仕事の合間に本の挿絵を見ては勉強していたといいます。また14歳のころには木版彫刻師の徒弟(とてい)となって、木版印刷の技術を学びます。

安永7年(1778年)、貸本屋や木版彫刻師としての仕事を通して次第に「自分でも描いてみたい」という思いが強くなり、人気浮世絵師・勝川春章(かつかわしゅんしょう)の元に入門し、絵師としての道を歩み始めました。

画号を30回以上変えた北斎、本名は…

東都名所「柳島妙見堂」

「葛飾北斎」の名は海外でも知られるほど有名ですが、これは画号(ペンネームのようなもの)であり、本名は「川村鉄蔵(かわむらてつぞう)」といいます。意外と普通の名前ですね。

「北斎」という名は、柳嶋妙見(やなぎしまみょうけん)というお寺に祭られている「開運北辰妙見大菩薩」からとったといわれています。

ちなみに北斎は、生涯に30回も画号を変えたと言われていますが、「北斎」という画号を使い始めてからは「北斎改め◯◯◯」といった形で「元北斎」として使われることが多かったため、「北斎」という画号が定着した、という説があります。

絵を描くのに執念を燃やす、向上心のかたまり

悔し涙を流すほど向上心の塊

北斎は絵に関しては執念ともいえる上昇志向のかたまりで、娘であるお栄には「80歳を過ぎてなお、筆をとらない日はないというのに、先日『猫1匹、上手く描けやしない』と涙を流していた」と言われるほどでした。

また、人を楽しませたり驚かせたりするのが好きなパフォーマー気質でもあったようです。120畳(縦約18メートル、横約11メートル)の巨大な布に大きなダルマを描いたりと、北斎は人が驚いたりする様子を楽しんでいたに違いありません。

一方で、絵のこと以外には全くの無頓着だったようです。酒は飲まず、煙草も嗜まず、部屋は一切片付けないためゴミ屋敷状態。部屋が散らかったら引越していたため生涯で93回も引越したといわれています。金銭にも無頓着で、人気絵師にも関わらず常に生活費には困っていたようです。

所属する勝川派だけにはとどまらなかった探求心

勝川春章「雪月花」

北斎が影響を受けた人々といえば、まず勝川派の祖・勝川春章が挙げられます。春章は役者絵の名人で、役者の特徴をうまく捉えた似顔絵を描きました。また、肉筆で美人画も描き、繊細で優美な画風で人気がありました。

北斎は勝川派の門弟である頃も、狩野派や琳派など他派の画風も勉強していました。勝川派を破門になった後は正式に琳派に入門、3代目俵屋宗理を襲名して「北斎宗理』と名乗っています。また、その好奇心はとどまるところを知らず、中国絵画やヨーロッパの絵画の勉強もしていたというから驚きです。

浮世絵を描くとき、北斎は3種類の遠近法を使い分けていたといいます。それまでの浮世絵でもよく見られた「平行投影法」、消失点をもたない「零点透視図法」、そしてルネサンス期にヨーロッパで誕生した「一点透視図法」です。北斎の活躍していた時代の日本は鎖国真っただ中、その最中でも北斎はヨーロッパの技法を使いこなしていたのでした。

北斎の作品を中心に巻き起こった「ジャポニスム」

ゴッホ「タンギー爺さん」

北斎は全国に200人以上も弟子がいる「葛飾派」の祖でした。ヨーロッパの画風を取り入れた風景画や肉筆画に優れ、個性的な画家を多数輩出した流派です。門弟には北斎の娘・葛飾応為や魚屋北渓(ととや ほっけい)、昇亭北寿(しょうていほくじゅ)などがいます。

また、北斎はフランスを中心に大流行した「ジャポニスム」の中心的存在でもあります。ジャポニスムは19世紀、ルネサンスから続いていた伝統的表現が近代の人々の感覚に合わなくなってきて、それを打ち破ろうとしていた芸術家たちが日本美術の斬新さに触れたことで生まれた一大ムーブメントです。

19世紀当時、浮世絵のような多色刷りの印刷物はヨーロッパでは見られないものでした。左右非対称であったり余白を大きくいかしていたりする構図の大胆さも衝撃を与えたといわれています。特に印象派のモネやマネ、ポスト印象派のゴッホは北斎の作品をはじめとするジャポニスムに強く影響を受けています。

葛飾北斎の作品・代表作は?

北斎は数え90歳でこの世を去るまでに3万点もの作品を残しました。ざっくり計算すると1日に1作品以上描いていたことになります。数多くの作品の中でも北斎の生涯を振り返った時に代表作として挙げるなら以下の作品です。

富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)

富嶽三十六景 – 1831年

行楽ブームが到来した江戸時代後期にベストセラーとなり、中でも特に「神奈川沖浪裏」は、海外で「GREAT WAVE(グレートウェーブ)」という名で親しまれ、レオナルド・ダヴィンチの「モナリザ」と並ぶほど有名な絵です。

北斎漫画(ほくさいまんが)

北斎漫画 – 1856年

庶民の様々な表情やポーズ、動植物、妖怪などのスケッチ約4000点、全15編からなる絵手本で、北斎没後の1856年(安政3年)にヨーロッパでジャポニズムを起こすきっかけとなったり、最後の第15編は明治になってから刊行されるなど、時代や国境をまたいだ大作です。

富士越龍図(ふじこしのりゅうず)

富士越龍図 – 1849年

数え90歳で永眠する3ヶ月前に描かれた、北斎最後の作品とも言われています。富士から立ちのぼる黒煙の中に龍が描かれていて、この龍は北斎自身を描いたものだとする説が有力です。

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