「川中島の戦いって有名だけど、どんな戦いだったの?」
「武田信玄と上杉謙信の一騎打ちや啄木鳥戦法の真相は?」
「勝者はどちらだったの?」
川中島の戦いに関して、以上のような疑問をお持ちの方も多いのではないでしょうか?
川中島の戦いとは、戦国時代に信濃国川中島で、戦国大名の武田信玄と上杉謙信が5回にわたり激突した合戦です。中でも有名なのは4回目の「八幡原(はちまんぱら)の戦い」で、一般的に川中島の戦いといえば、この第4次川中島の戦いを指します。
川中島の戦いは激戦続きで、武田信玄と上杉謙信は宿命のライバルと言われるほど伝説的な逸話も多くあります。この記事では、
- 川中島の戦いとはどんな戦いだったのか?
- 武田信玄と上杉謙信の一騎打ちや啄木鳥戦法は本当に行われたのか?
- 謙信が繰り出した車懸りの陣(くるまがかりのじん)とは、一体どんな陣形だったのか?
- そして勝者はどちらだったのか?
といったところまで、川中島の戦い関する解説と真相をお伝えしてまいります。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
川中島の戦いとはどんな合戦?
川中島の戦いは、前述の通り全部で5回行われています。
- 第一回:天文22年(1553年)布施の戦い
- 第二回:弘治元年(1555年)犀川の戦い
- 第三回:弘治3年(1557年)上野原の戦い
- 第四回:永禄4年(1561年)八幡原の戦い
- 第五回:永禄7年(1564年)塩崎の対陣
以上、全5回に渡る戦いの総称が「川中島の戦い」と呼ばれる合戦です。中でも四回目の戦いは、数ある戦国時代の合戦の中でも屈指の大激戦として知られ、信玄と謙信の一騎打ち、山本勘助発案による啄木鳥戦法、謙信が繰り出した謎の戦術「車懸りの陣」など、多くの名場面が語り継がれています。
合戦に至るまで
甲斐(現在の山梨県)を領有する武田信玄は、天文10年(1541年)武田家当主となり、10年以上をかけて隣国の信濃(現在の長野県)のほぼ全域を支配下に治めました。そして信玄が目指すのはさらに北、上杉謙信の治める越後(現在の新潟県)です。
信玄は何としても越後へ進出する必要がありました。武田の領地である甲斐は山間部であったため、海の恵みを得ることができず、また海運にも不自由な土地柄です。自国を富ませるためにも、喉から手が出るほど信玄が欲したもの、それが海でした。
太平洋側の今川家と武田家は友好関係にあったため、信玄は日本海側の越後攻略を目指します。その足掛かりとなるのが北信濃(長野県北部)にある川中島と呼ばれる地域だったのです。
信玄は海を手に入れるため、北へと侵攻していきます。この侵攻によって、領地を奪われた信濃の豪族たち(村上義清、小笠原長時、高梨政頼ら)が、越後の上杉謙信に助けを求めました。
つまり、信玄は人の領地を奪う極悪人で、謙信にしてみれば悪を挫くための正義の戦いです。また、北信濃が武田の手に落ちれば、上杉家と領地を接することになります。謙信としては何としても武田の勢いを抑え込みたいという思惑もありました。
こうして謙信は求めに応じ信玄との対決を決意、信濃北部「川中島」の支配権をめぐり、約12年に及ぶ信玄との戦いに身を投じていくのです。
場所はどこで行われた?
本来「川中島」とは、川と川に挟まれた三角州を指す言葉です。現在の信濃北部(現在の長野県の北部)を流れる千曲川のほとりには長野盆地と呼ばれる盆地が存在し、この長野盆地の南、犀川(さいがわ)が千曲川(ちくまがわ)へ合流する地点に広がっている地域を「川中島」と呼んでいます。この辺り一帯が戦いの舞台となったので「川中島の戦い」と呼ばれています。