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川中島の戦いとは?勝者や場所、一騎討ちの真相をわかりやすく解説

「川中島の戦いって有名だけど、どんな戦いだったの?」
武田信玄と上杉謙信の一騎打ちや啄木鳥戦法の真相は?」
「勝者はどちらだったの?」

川中島の戦いに関して、以上のような疑問をお持ちの方も多いのではないでしょうか?

川中島の戦いとは、戦国時代の超有名武将である武田信玄と上杉謙信が激突した戦いです。

武田信玄と上杉謙信の激戦の様子

川中島の戦いは全部で計5回に渡り繰り広げられますが、中でも最も有名なものが四回目の「八幡原の戦い(はちまんぱらのたたかい)」です。一般的に川中島の戦いと言えば、この四回目の八幡原の戦い(第四次川中島の戦い)を指します。

しかしながら、この戦いには伝説的な逸話も多く語り継がれており、不透明な部分がいくつか存在しています。また、その勝敗もハッキリせず、人それぞれ見解もバラバラです。

そこでこの記事では、

  • 川中島の戦いとはどんな戦いだったのか?
  • 武田信玄と上杉謙信の一騎打ちや啄木鳥戦法は本当に行われたのか?
  • 謙信が繰り出した車懸りの陣(くるまがかりのじん)とは、一体どんな陣形だったのか?
  • そして勝者はどちらだったのか?

といったところまで、川中島の戦い関する解説と真相をお伝えしてまいります。

なお、武田信玄、上杉謙信と名乗るのは、この合戦の後のことですが、本記事では煩雑さを避ける為に、一般的に最も知られた名称である「武田信玄」「上杉謙信」で統一しております。予めご了承ください。

川中島の戦いとはどんな合戦?

故人春亭画 応需広重模写「信州川中嶋合戦之図」

川中島の戦いは、前述の通り全部で5回行われています。

  • 第一回:天文22年(1553年)布施の戦い
  • 第二回:弘治元年(1555年)犀川の戦い
  • 第三回:弘治3年(1557年)上野原の戦い
  • 第四回:永禄4年(1561年)八幡原の戦い
  • 第五回:永禄7年(1564年)塩崎の対陣

以上、全5回に渡る戦いの総称が「川中島の戦い」と呼ばれる合戦です。中でも四回目の戦いは、数ある戦国時代の合戦の中でも屈指の大激戦として知られ、信玄と謙信の一騎打ち、山本勘助発案による啄木鳥戦法、謙信が繰り出した謎の戦術「車懸りの陣」など、多くの名場面が語り継がれています。

合戦に至るまで

戦国時代の甲信越地方拡大

甲斐(現在の山梨県)を領有する武田信玄は、天文10年(1541年)武田家当主となり、10年以上をかけて隣国の信濃(現在の長野県)のほぼ全域を支配下に治めました。そして信玄が目指すのはさらに北、上杉謙信の治める越後(現在の新潟県)です。

信玄は何としても越後へ進出する必要がありました。武田の領地である甲斐は山間部であったため、海の恵みを得ることができず、また海運にも不自由な土地柄です。自国を富ませるためにも、喉から手が出るほど信玄が欲したもの、それが海でした。

太平洋側の今川家と武田家は友好関係にあったため、信玄は日本海側の越後攻略を目指します。その足掛かりとなるのが北信濃(長野県北部)にある川中島と呼ばれる地域だったのです。

武田信玄像

信玄は海を手に入れるため、北へと侵攻していきます。この侵攻によって、領地を奪われた信濃の豪族たち(村上義清、小笠原長時、高梨政頼ら)が、越後の上杉謙信に助けを求めました。

つまり、信玄は人の領地を奪う極悪人で、謙信にしてみれば悪を挫くための正義の戦いです。また、北信濃が武田の手に落ちれば、上杉家と領地を接することになります。謙信としては何としても武田の勢いを抑え込みたいという思惑もありました。

こうして謙信は求めに応じ信玄との対決を決意、信濃北部「川中島」の支配権をめぐり、約12年に及ぶ信玄との戦いに身を投じていくのです。

場所はどこで行われた?

千曲川(左)へ犀川が合流する地点

本来「川中島」とは、川と川に挟まれた三角州を指す言葉です。現在の信濃北部(現在の長野県の北部)を流れる千曲川のほとりには長野盆地と呼ばれる盆地が存在し、この長野盆地の南、犀川(さいがわ)が千曲川(ちくまがわ)へ合流する地点に広がっている地域を「川中島」と呼んでいます。この辺り一帯が戦いの舞台となったので「川中島の戦い」と呼ばれています。

合戦の概要

それでは以下より、第1回目~5回目までの川中島の戦いのおおまかな流れを見ていきましょう。

第1回 布施の戦い

川中島の戦い

天文22年(1553年)4月、武田信玄は、信濃の豪族 村上義清が籠っていた塩田城を包囲しました。この動きに呼応し、村上義清を救うべく上杉謙信が進軍してきたため、信玄は一旦兵を引きます。

ところが同年8月、1万の軍勢を率いた信玄が塩田城を攻略、村上義清は敗走し謙信に救援を求めます。要請を受けた謙信は、8千の軍勢で進軍を開始しました。

両軍は川中島の八幡で対峙しますが、武田軍が塩田城に籠って決戦を回避したため、同年9月謙信は深追いせず越後に撤退していきました。この動きを見て、信玄も甲斐へ帰還。 1度目の対決は小競り合い程度に終始し決着はつきませんでした。

第2回 犀川の戦い

善光寺

弘治元年(1555年)川中島の地を諦めきれない信玄は、信濃の信仰と経済の中心であった善光寺を支配する栗田寛安(くりたかんあん)を、武田方に寝返らせます。さらには越後と信濃の国境付近である糸魚川近くまで勢力を広げ、謙信の進軍に備えました。この動きを察知した謙信は、善光寺を取り戻すため再び信濃へ出兵します。

しかし、善光寺付近まで進軍したものの、近くの旭山城に籠っていた栗田寛安の抵抗が激しく、足止めを余儀なくされてしまいました。そこで謙信は、旭山城を牽制するための城を築きます。一方、信玄も軍を進め、築城を急ぐ上杉軍と近くの犀川(さいがわ)を挟んで対陣しました。

犀川を挟んで睨み合いを続けること3ヶ月。痺れを切らした上杉軍が犀川を渡って武田軍に攻めかかろうとしたため、ついに両軍が激突。しかし、今回も大規模な合戦には至らず、両軍ともに小競り合いで兵を引き、再び膠着状態となりました。

停戦を仲介した今川義元

そして、睨み合いを続けること7ヶ月あまり、両軍ともに厭戦気分が漂う中、信玄が同盟関係にあった今川義元に仲介を依頼し、一旦は和睦となったのです。

第3回 上野原の戦い

甲斐善光寺

2回目の戦いで和睦した信玄と謙信。しかし、この和睦は思わぬ形で、あっけなく崩れ去りました。

弘治2年(1556年)信玄の謀略によって、上杉家臣の大熊朝秀(おおくまともひで)という武将が反乱を起こしたため、両軍は三たび激突することになってしまったのです。

大熊朝秀の裏切りで上杉家が混乱する中、武田の配下になっていた真田幸隆は、上杉方の川中島の拠点であった葛山城を攻略。ついに信玄は、川中島の南部を支配下に治めました。さらに不運なことに、この時季節は冬だったため、雪深い越後を拠点とする謙信は、豪雪で行く手を阻まれて川中島へ軍を進めなれなかったのです。

真田幸隆

そして弘治3年(1557年)、和議を反故にした信玄に対し、怒りを露わにした謙信が三度川中島に進軍してきました。こうして両軍は、川中島の上野原で激突。しかし、この時も両者ともに決定打はなく、痛み分けで撤退していきました。そして、ついに戦国時代きっての激戦と言われる八幡原の戦い(第四次川中島の戦い)を迎えるのです。

第4回 八幡原の戦い

上杉謙信像

永禄4年(1561年)、信玄の度重なる信濃侵攻に業を煮やした謙信が、雌雄を決するため1万3千の軍勢を率い進軍。それを迎え撃つべく信玄は2万の軍勢を率いて川中島の八幡原(はちまんぱら)で対峙しました。川中島の戦いと言えば、一般的にはこの戦いを指します。

過去3回ののらりくらりとした合戦とは打って変わって、両軍入り乱れての凄まじい死闘となりました。その中から数々の伝説も生まれることになります。第四次川中島の戦いの詳細については、順を追って後述していきます。

第5回 塩崎の対陣

現在の飛騨市

八幡原の戦いから約3年後の永禄7年(1564年)、川中島を巡る最後の戦いが勃発します。

これまでの戦いで川中島をほぼ手中に治めた信玄は、隣国の飛騨(現在の岐阜県北部)で起こっていた勢力争いに介入。この介入で被害を受けた三木良頼という武将からの救援依頼を受けて、謙信は5度目の川中島出兵となりました。

謙信の動きに呼応し、信玄も軍を進めますが、対峙すること67日間、川中島をほぼ手中にしていた信玄はまともに戦おうとせず、武力衝突の無いまま両軍とも撤退したのです。

第四次川中島の決戦

では以降より、最も有名な八幡原の戦い(第四次川中島の戦い)について、詳しく見ていきましょう。伝説的なエピソードも含め、まずは一般的に広く知られている流れをお伝えしていきます。

主な参戦武将

まずは、この八幡原の戦いに参陣した主な武将のご紹介です。

武田軍

  • 本隊:武田信玄、武田信繁、武田信廉、武田義信、諸角虎定、山県昌景、内藤昌豊(内藤昌秀)、山本勘助
  • 別動隊:飯富虎昌、春日虎綱(高坂昌信)、馬場信房、真田幸隆、小山田信茂
武田家の重臣 馬場信房

上杉軍

  • 上杉謙信、柿崎景家、宇佐美定満、甘粕景持、直江景綱、斎藤朝信、本庄実乃、本庄繁長、色部勝長、須田満親、村上義清、高梨政頼
上杉家臣 柿崎景家

合戦の経過

武田、上杉ともに主要武将のほとんどが参戦している第四次川中島の戦い。時系列に沿って戦いの流れを見て行きましょう。

上杉謙信 妻女山に布陣

岩野駅方面より望む妻女山

永禄4年(1561年)8月14日、武田信玄の信濃侵略を阻止すべく、謙信は1万3千の軍勢を率い、居城の春日山城から出撃しました。 それから2日後の8月16日、武田方の信濃の拠点となる海津城から約2kmの地にある妻女山(さいじょざん)に布陣。妻女山からは川中島の地を一望できるため、武田軍の動きを即座に把握できる絶好のポイントでした。

一方で、武田の海津城から2kmという至近距離、見方を変えれば敵中に飛び込んだような状態でもあります。これまで散々いなされて決着がつけられなかった謙信の覚悟が見て取れます。

海津城(現 松代城)

この時、海津城を守っていた春日虎綱(高坂昌信の名でも知られる)は、謙信が妻女山に布陣したことを甲斐にいる信玄に報告。信玄は直ちに軍勢を引い、決戦の地 川中島へ進軍を開始しました。そして8月29日、2万の軍勢を率い海津城に入城します。 この後、10日間に及ぶ膠着状態が続いた後、ついに戦国時代屈指の大激戦が展開されます。

啄木鳥戦法

第4次川中島の戦い

海津城に籠って膠着状態が続く中、武田の軍師 山本勘助が「啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)」を提言します。(山本勘助の存在については諸説あります)

啄木鳥は気の中にいる虫を捕らえる際、反対側から木を突き驚いて飛び出してきたところを捕食する、という当時信じられていた啄木鳥の習性を模した作戦、それが啄木鳥戦法です。軍勢を二手に分け、妻女山に布陣する上杉軍の背後を別動隊が強襲し、驚いて下山してきたことろを下で待ち構えていた本隊が殲滅する、という作戦です。つまり挟撃作戦です。

啄木鳥戦法を採用した信玄は深夜に海津城を出て、謙信の布陣する妻女山の麓を流れる千曲川(ちくまがわ)の対岸に8000の軍勢を率い布陣。一方、妻女山を背後から強襲する別動隊は1万2千を率い、上杉軍に察知されないよう闇夜の中を進軍します。

別動隊は夜明けとともに、上杉軍を背後から強襲する、そうすれば混乱した兵が山を下って逃げてくる、そこを下で待ち構える本隊が一網打尽にする…はずでした。

啄木鳥戦法の元ネタとなったキツツキ

しかし、すでに夜明けを迎えつつあるにも関わらず、妻女山からは一向に下山してくる様子がありません。濃霧の発生地としても名高い川中島には、この日も朝霧が立ち込めていました。信玄率いる本隊も霧に包まれ視界が良くありません。そんな中、わずかに霧が晴れた瞬間、思いもよらぬ光景が武田軍本体の眼前に現れました。上杉軍が目と鼻の先に陣を敷き、臨戦態勢で待ち構えていたのです。

啄木鳥戦法は完全に見破られていました。前日、謙信が妻女山から海津城を見下ろした際、炊煙が多く立ち上っていることに気付き、信玄が動くと察知。謙信は夜中の内に妻女山を下り千曲川を渡河、武田本体の前に陣を敷き、霧が晴れると同時に襲い掛からんとしていました。

逆に上杉軍が虚をつく格好になったのです。なお、「鞭声粛々夜河を渡る(べんせいしゅくしゅくよるかわをわたる)」という言葉は、この時の上杉軍の密かな行軍が語源となっています。

「鞭声粛々夜河を渡る」の漢詩を詠んだ歴史学者 頼山陽

上杉軍が混乱して散り散りに下山してくると思っていた武田軍は、濃霧が晴れると同時に突如として目の前に出現した敵に恐れおののき浮足だちます。そんな中、上杉軍が突撃を開始、混乱状態の武田軍本体に襲い掛かったのです。

両雄激突

第四次川中島の戦いで討死した武田信繁

上杉軍を背後から強襲するはずだった武田別動隊は、もぬけの殻になった妻女山を見て謀られたことに気付きました。急いで下山し救援に向かうも、武田軍本体は上杉軍の凄まじい猛攻にさらされていました。 1万2千の別動隊を妻女山に向かわせたことで、武田軍本体は8千の兵力しかありません。

一方の上杉軍は全軍を投入しているので1万3千。兵力で劣るうえに予期せぬ事態に直面し浮足立った武田軍は、圧倒的に不利な状況となりました。

謙信率いる上杉軍は車懸りの陣と呼ばれる陣形で、信玄のいる本陣めがけて突撃してきます。 それを武田軍は鶴翼の陣で迎え撃ちます。 しかし、防戦一方になった武田の武将は、次々と討ち取られていきました。

啄木鳥戦法を提言した山本勘助は、その責任を取るため単身で敵中に突撃し討死。 武田の重臣だった老将 諸角虎定も討死。 信玄の弟であり武田のNo.2であった武田信繁も、本陣を守るため大奮戦の末に討死。

信玄の弟という武田家にとって重要な人物が前線に立って戦わざるをえず、しかも討ち取られてしまった事実は、この時いかに武田軍が追い詰められていたかを物語っています。

第四次川中島の戦い

このような最中、馬上の謙信が武田の本陣に突撃し、信玄と一騎打ちとしたという伝説が残されています。

ここでようやく妻女山に向かっていた武田別動隊が戦場に到着し上杉軍の側面を攻撃。劣勢だった武田軍は1万2千の兵力が加わったことで徐々に盛り返し始めました。

そして 形勢不利と判断した謙信は撤退を開始、消耗の激しかった信玄は追撃をせず、両者痛み分けのような形で第四次川中島の戦いは終結したのでした。

第四次川中島の戦いの真相

以上のような激戦となった第四次川中島の戦いですが、伝説めいたエピソードも多く、いくつかの謎が残されています。そこで、特に代表的なエピソードを取り上げ、以下よりその真相に迫ってみましょう。

啄木鳥戦法は本当に実施されたのか?

啄木鳥戦法を提言した山本勘助

「山本勘助が提言した啄木鳥戦法によって武田軍は危機的状況に陥った」というのが一般的には浸透しています。しかし、啄木鳥戦法が本当に実施されたかどうかについては、様々な議論がなされているのもまた事実です。

まず、謙信は本当に妻女山に布陣したのか?という疑問が呈されています。謙信が妻女山に布陣したことを示す良質な史料が存在していないというのが、その理由です。また、妻女山の尾根は傾斜がきつく道幅も狭いため、1万を超える軍勢が闇夜の中を行軍するのは物理的に不可能ではないかとされています。

また、実際は視界の悪い濃霧の中を行軍していた両軍が、意図せず遭遇してしまい乱戦に発展したのではないか、という説も提言されています。第四次川中島の戦いでの死者数は武田軍約4,000、上杉軍約3,000という甚大な被害を出していることに関しても、予期せぬ出会いがしらの遭遇戦であれば説明がつきます。

なお山本勘助という人物は、甲陽軍鑑(こうようぐんかん)という武田側の史料にしか登場しない為、勘助自体が本当はいなかったのではないかとも言われてきました。しかし、近年複数の史料から「山本菅助」なる人物の存在が確認されており、実在が証明されました。一方で従来言われているような「武田の軍師」であったかどうかは判明していません。

謙信が使った車懸りの陣とは?

武田八陣形

霧が立ち込める中、武田軍本体の前に突如として現れた上杉軍は「車懸りの陣」なる陣形を使い猛攻を仕掛けてきました。この車懸りの陣が具体的にどのような陣形、戦術だったのかは諸説あり、はっきりした答えは今も判明していません。

最もよく言われる説としては、大将の謙信を中心に置き、円形を作り渦巻き状に回転しながら、ヒットアンドアウェイで攻め立てる陣形だったのではないというものです。部隊全体がぐるぐる回りながら攻撃を繰り出してくるので、次から次へと新しい兵力を投入できるという強みを持っていました。

この車懸りの陣に対し、信玄は鶴翼の陣で迎え撃ちました。鶴翼の陣とは、鶴が羽を広げた形を模していることから「鶴翼」と呼ばれます。V字型に隊列を組み、まとまって突撃してくる敵軍を包み込んで包囲殲滅するのに有効な陣形です。

車懸りの陣が実際はどのような陣形だったのかは、今となっては知る術がありませんが、信玄が鶴翼の陣で迎え撃っていることからも、ひと固まりになって突撃してくる円陣のような形であったことは間違いないのではないでしょうか。

信玄と謙信の一騎打ちは史実?

武田信玄、上杉謙信一騎討像

川中島の戦いといえば、2人の武将の一騎打ち

川中島の戦いで最も有名なエピソードと言えば、やはり信玄と謙信の一騎打ちではないでしょうか。謙信が単騎で武田本陣へ斬りこみ信玄に3太刀浴びせ、一方の信玄は手にした軍配で謙信の太刀を受け止めた、というエピソードです。

このエピソードの真偽についても諸説あるのですが、結論から言ってしまうと、この一騎打ちを証明する確実な史料は存在していません。つまり「フィクションである可能性が高い」のです。

武田側の史料「甲陽軍鑑」によると、「萌黄の胴肩衣を着て、頭を白布で包んだ馬上の武者に信玄が斬りつけられた」との記述があり、その武者が後に謙信だと判明した、としています。一方、上杉側の史料である「上杉年譜」によると、信玄を斬りつけたのは「荒川伊豆守」なる人物だったとしています。

他にもいくつかの史料や目撃談が存在していますが、どれも「信玄と謙信が一騎打ちをした」とは明言しておらず、確実な証拠は存在していません。

ただし、武田軍の損害の大きさから察するに、信玄の本陣が脅かされるほどの危機的状況であったことは疑いようがありません。つまり、信玄が敵兵に襲われ負傷したという事実に尾ひれが付いて話が大きくなった、というのが実情ではないでしょうか。

勝者はどちらだったのか?

川中島のある長野盆地

第四次川中島の戦いは一般的には引き分けとされています。後年、あの豊臣秀吉も「前半戦は上杉軍の勝ち、後半戦は武田軍の勝ち」という判定をくだしています。しかしながら、これにも様々な見解が存在しています。

戦争目的が「川中島の地を手に入れること」と仮定するならば、結果的に信玄が領有していること、また上杉軍が先に撤退していることなどから、武田の勝ちとなります。

しかし、武田軍は信玄の弟である信繁を始めとして重臣を数名失っています。一方の上杉軍では主だった武将に戦死者を出していません。

また、全体的な損害も武田軍の方が大きくなっています。この頃は兵農未分離のため、犠牲者の数は国力の低下に直結しますから、犠牲の数をいかに少なく勝利するかが物凄く重要なのです。このような観点で見れば、上杉の勝ちです。

勝者はどちらだったのか?というのは、この戦いを見る角度によって変わってきます。そう考えると、やはり痛み分けというのが、最も妥当な結果なのではないでしょうか。

川中島の戦いの真相に関するまとめ

いかがでしたでしょうか?

第四次川中島の戦いは、戦国時代の合戦の中でも最も激しい戦いのひとつでありながら、その詳細はほとんどわかっていません。ハッキリと言えることは謙信の猛攻で、信玄が負傷するほど武田軍が窮地に立たされたこと、そして川中島の地は最終的に信玄が手にしたことくらいです。

しかしながら、謎が多いからこそ、多くの伝説的エピソードが生まれ、後世の人々を楽しませてくれたのもまた事実です。そういった意味では、川中島の戦いとは戦国ロマンを最も楽しむことができる戦いと言えるのではないでしょうか。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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