合戦の概要
それでは以下より、第1回目~5回目までの川中島の戦いのおおまかな流れを見ていきましょう。
第1回 布施の戦い
天文22年(1553年)4月、武田信玄は、信濃の豪族 村上義清が籠っていた塩田城を包囲しました。この動きに呼応し、村上義清を救うべく上杉謙信が進軍してきたため、信玄は一旦兵を引きます。
ところが同年8月、1万の軍勢を率いた信玄が塩田城を攻略、村上義清は敗走し謙信に救援を求めます。要請を受けた謙信は、8千の軍勢で進軍を開始しました。
両軍は川中島の八幡で対峙しますが、武田軍が塩田城に籠って決戦を回避したため、同年9月謙信は深追いせず越後に撤退していきました。この動きを見て、信玄も甲斐へ帰還。 1度目の対決は小競り合い程度に終始し決着はつきませんでした。
第2回 犀川の戦い
弘治元年(1555年)川中島の地を諦めきれない信玄は、信濃の信仰と経済の中心であった善光寺を支配する栗田寛安(くりたかんあん)を、武田方に寝返らせます。さらには越後と信濃の国境付近である糸魚川近くまで勢力を広げ、謙信の進軍に備えました。この動きを察知した謙信は、善光寺を取り戻すため再び信濃へ出兵します。
しかし、善光寺付近まで進軍したものの、近くの旭山城に籠っていた栗田寛安の抵抗が激しく、足止めを余儀なくされてしまいました。そこで謙信は、旭山城を牽制するための城を築きます。一方、信玄も軍を進め、築城を急ぐ上杉軍と近くの犀川(さいがわ)を挟んで対陣しました。
犀川を挟んで睨み合いを続けること3ヶ月。痺れを切らした上杉軍が犀川を渡って武田軍に攻めかかろうとしたため、ついに両軍が激突。しかし、今回も大規模な合戦には至らず、両軍ともに小競り合いで兵を引き、再び膠着状態となりました。
そして、睨み合いを続けること7ヶ月あまり、両軍ともに厭戦気分が漂う中、信玄が同盟関係にあった今川義元に仲介を依頼し、一旦は和睦となったのです。
第3回 上野原の戦い
2回目の戦いで和睦した信玄と謙信。しかし、この和睦は思わぬ形で、あっけなく崩れ去りました。
弘治2年(1556年)信玄の謀略によって、上杉家臣の大熊朝秀(おおくまともひで)という武将が反乱を起こしたため、両軍は三たび激突することになってしまったのです。
大熊朝秀の裏切りで上杉家が混乱する中、武田の配下になっていた真田幸隆は、上杉方の川中島の拠点であった葛山城を攻略。ついに信玄は、川中島の南部を支配下に治めました。さらに不運なことに、この時季節は冬だったため、雪深い越後を拠点とする謙信は、豪雪で行く手を阻まれて川中島へ軍を進めなれなかったのです。
そして弘治3年(1557年)、和議を反故にした信玄に対し、怒りを露わにした謙信が三度川中島に進軍してきました。こうして両軍は、川中島の上野原で激突。しかし、この時も両者ともに決定打はなく、痛み分けで撤退していきました。そして、ついに戦国時代きっての激戦と言われる八幡原の戦い(第四次川中島の戦い)を迎えるのです。
第4回 八幡原の戦い
永禄4年(1561年)、信玄の度重なる信濃侵攻に業を煮やした謙信が、雌雄を決するため1万3千の軍勢を率い進軍。それを迎え撃つべく信玄は2万の軍勢を率いて川中島の八幡原(はちまんぱら)で対峙しました。川中島の戦いと言えば、一般的にはこの戦いを指します。
過去3回ののらりくらりとした合戦とは打って変わって、両軍入り乱れての凄まじい死闘となりました。その中から数々の伝説も生まれることになります。第四次川中島の戦いの詳細については、順を追って後述していきます。
第5回 塩崎の対陣
八幡原の戦いから約3年後の永禄7年(1564年)、川中島を巡る最後の戦いが勃発します。
これまでの戦いで川中島をほぼ手中に治めた信玄は、隣国の飛騨(現在の岐阜県北部)で起こっていた勢力争いに介入。この介入で被害を受けた三木良頼という武将からの救援依頼を受けて、謙信は5度目の川中島出兵となりました。
謙信の動きに呼応し、信玄も軍を進めますが、対峙すること67日間、川中島をほぼ手中にしていた信玄はまともに戦おうとせず、武力衝突の無いまま両軍とも撤退したのです。
戦いの勝敗は?
川中島の戦いは、はっきりと勝敗がつかなかったというのが定説です。何をもって勝者とするかという定義によって、判断が分かれるからです。
領土を手に入れたことで勝ちとするなら、武田信玄の勝利ですが、そもそも上杉謙信は義のために戦っていたわけで、そういう意味では義を果たした上杉謙信の勝利とも言えるのです。