第四次川中島の決戦
では以降より、最も有名な八幡原の戦い(第四次川中島の戦い)について、詳しく見ていきましょう。伝説的なエピソードも含め、まずは一般的に広く知られている流れをお伝えしていきます。
主な参戦武将
まずは、この八幡原の戦いに参陣した主な武将のご紹介です。
武田軍
- 本隊:武田信玄、武田信繁、武田信廉、武田義信、諸角虎定、山県昌景、内藤昌豊(内藤昌秀)、山本勘助
- 別動隊:飯富虎昌、春日虎綱(高坂昌信)、馬場信房、真田幸隆、小山田信茂
上杉軍
- 上杉謙信、柿崎景家、宇佐美定満、甘粕景持、直江景綱、斎藤朝信、本庄実乃、本庄繁長、色部勝長、須田満親、村上義清、高梨政頼
合戦の経過
武田、上杉ともに主要武将のほとんどが参戦している第四次川中島の戦い。時系列に沿って戦いの流れを見て行きましょう。
上杉謙信 妻女山に布陣
永禄4年(1561年)8月14日、武田信玄の信濃侵略を阻止すべく、謙信は1万3千の軍勢を率い、居城の春日山城から出撃しました。 それから2日後の8月16日、武田方の信濃の拠点となる海津城から約2kmの地にある妻女山(さいじょざん)に布陣。妻女山からは川中島の地を一望できるため、武田軍の動きを即座に把握できる絶好のポイントでした。
一方で、武田の海津城から2kmという至近距離、見方を変えれば敵中に飛び込んだような状態でもあります。これまで散々いなされて決着がつけられなかった謙信の覚悟が見て取れます。
この時、海津城を守っていた春日虎綱(高坂昌信の名でも知られる)は、謙信が妻女山に布陣したことを甲斐にいる信玄に報告。信玄は直ちに軍勢を引い、決戦の地 川中島へ進軍を開始しました。そして8月29日、2万の軍勢を率い海津城に入城します。 この後、10日間に及ぶ膠着状態が続いた後、ついに戦国時代屈指の大激戦が展開されます。
啄木鳥戦法
海津城に籠って膠着状態が続く中、武田の軍師 山本勘助が「啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)」を提言します。(山本勘助の存在については諸説あります)
啄木鳥は気の中にいる虫を捕らえる際、反対側から木を突き驚いて飛び出してきたところを捕食する、という当時信じられていた啄木鳥の習性を模した作戦、それが啄木鳥戦法です。軍勢を二手に分け、妻女山に布陣する上杉軍の背後を別動隊が強襲し、驚いて下山してきたことろを下で待ち構えていた本隊が殲滅する、という作戦です。つまり挟撃作戦です。
啄木鳥戦法を採用した信玄は深夜に海津城を出て、謙信の布陣する妻女山の麓を流れる千曲川(ちくまがわ)の対岸に8000の軍勢を率い布陣。一方、妻女山を背後から強襲する別動隊は1万2千を率い、上杉軍に察知されないよう闇夜の中を進軍します。
別動隊は夜明けとともに、上杉軍を背後から強襲する、そうすれば混乱した兵が山を下って逃げてくる、そこを下で待ち構える本隊が一網打尽にする…はずでした。
しかし、すでに夜明けを迎えつつあるにも関わらず、妻女山からは一向に下山してくる様子がありません。濃霧の発生地としても名高い川中島には、この日も朝霧が立ち込めていました。信玄率いる本隊も霧に包まれ視界が良くありません。そんな中、わずかに霧が晴れた瞬間、思いもよらぬ光景が武田軍本体の眼前に現れました。上杉軍が目と鼻の先に陣を敷き、臨戦態勢で待ち構えていたのです。
啄木鳥戦法は完全に見破られていました。前日、謙信が妻女山から海津城を見下ろした際、炊煙が多く立ち上っていることに気付き、信玄が動くと察知。謙信は夜中の内に妻女山を下り千曲川を渡河、武田本体の前に陣を敷き、霧が晴れると同時に襲い掛からんとしていました。
逆に上杉軍が虚をつく格好になったのです。なお、「鞭声粛々夜河を渡る(べんせいしゅくしゅくよるかわをわたる)」という言葉は、この時の上杉軍の密かな行軍が語源となっています。
上杉軍が混乱して散り散りに下山してくると思っていた武田軍は、濃霧が晴れると同時に突如として目の前に出現した敵に恐れおののき浮足だちます。そんな中、上杉軍が突撃を開始、混乱状態の武田軍本体に襲い掛かったのです。
両雄激突
上杉軍を背後から強襲するはずだった武田別動隊は、もぬけの殻になった妻女山を見て謀られたことに気付きました。急いで下山し救援に向かうも、武田軍本体は上杉軍の凄まじい猛攻にさらされていました。 1万2千の別動隊を妻女山に向かわせたことで、武田軍本体は8千の兵力しかありません。
一方の上杉軍は全軍を投入しているので1万3千。兵力で劣るうえに予期せぬ事態に直面し浮足立った武田軍は、圧倒的に不利な状況となりました。
謙信率いる上杉軍は車懸りの陣と呼ばれる陣形で、信玄のいる本陣めがけて突撃してきます。 それを武田軍は鶴翼の陣で迎え撃ちます。 しかし、防戦一方になった武田の武将は、次々と討ち取られていきました。
啄木鳥戦法を提言した山本勘助は、その責任を取るため単身で敵中に突撃し討死。 武田の重臣だった老将 諸角虎定も討死。 信玄の弟であり武田のNo.2であった武田信繁も、本陣を守るため大奮戦の末に討死。
信玄の弟という武田家にとって重要な人物が前線に立って戦わざるをえず、しかも討ち取られてしまった事実は、この時いかに武田軍が追い詰められていたかを物語っています。
このような最中、馬上の謙信が武田の本陣に突撃し、信玄と一騎打ちとしたという伝説が残されています。
ここでようやく妻女山に向かっていた武田別動隊が戦場に到着し上杉軍の側面を攻撃。劣勢だった武田軍は1万2千の兵力が加わったことで徐々に盛り返し始めました。
そして 形勢不利と判断した謙信は撤退を開始、消耗の激しかった信玄は追撃をせず、両者痛み分けのような形で第四次川中島の戦いは終結したのでした。