第四次川中島の戦いの真相
以上のような激戦となった第四次川中島の戦いですが、伝説めいたエピソードも多く、いくつかの謎が残されています。そこで、特に代表的なエピソードを取り上げ、以下よりその真相に迫ってみましょう。
啄木鳥戦法は本当に実施されたのか?
「山本勘助が提言した啄木鳥戦法によって武田軍は危機的状況に陥った」というのが一般的には浸透しています。しかし、啄木鳥戦法が本当に実施されたかどうかについては、様々な議論がなされているのもまた事実です。
まず、謙信は本当に妻女山に布陣したのか?という疑問が呈されています。謙信が妻女山に布陣したことを示す良質な史料が存在していないというのが、その理由です。また、妻女山の尾根は傾斜がきつく道幅も狭いため、1万を超える軍勢が闇夜の中を行軍するのは物理的に不可能ではないかとされています。
また、実際は視界の悪い濃霧の中を行軍していた両軍が、意図せず遭遇してしまい乱戦に発展したのではないか、という説も提言されています。第四次川中島の戦いでの死者数は武田軍約4,000、上杉軍約3,000という甚大な被害を出していることに関しても、予期せぬ出会いがしらの遭遇戦であれば説明がつきます。
なお山本勘助という人物は、甲陽軍鑑(こうようぐんかん)という武田側の史料にしか登場しない為、勘助自体が本当はいなかったのではないかとも言われてきました。しかし、近年複数の史料から「山本菅助」なる人物の存在が確認されており、実在が証明されました。一方で従来言われているような「武田の軍師」であったかどうかは判明していません。
謙信が使った車懸りの陣とは?
霧が立ち込める中、武田軍本体の前に突如として現れた上杉軍は「車懸りの陣」なる陣形を使い猛攻を仕掛けてきました。この車懸りの陣が具体的にどのような陣形、戦術だったのかは諸説あり、はっきりした答えは今も判明していません。
最もよく言われる説としては、大将の謙信を中心に置き、円形を作り渦巻き状に回転しながら、ヒットアンドアウェイで攻め立てる陣形だったのではないというものです。部隊全体がぐるぐる回りながら攻撃を繰り出してくるので、次から次へと新しい兵力を投入できるという強みを持っていました。
この車懸りの陣に対し、信玄は鶴翼の陣で迎え撃ちました。鶴翼の陣とは、鶴が羽を広げた形を模していることから「鶴翼」と呼ばれます。V字型に隊列を組み、まとまって突撃してくる敵軍を包み込んで包囲殲滅するのに有効な陣形です。
車懸りの陣が実際はどのような陣形だったのかは、今となっては知る術がありませんが、信玄が鶴翼の陣で迎え撃っていることからも、ひと固まりになって突撃してくる円陣のような形であったことは間違いないのではないでしょうか。
信玄と謙信の一騎打ちは史実?
川中島の戦いで最も有名なエピソードと言えば、やはり信玄と謙信の一騎打ちではないでしょうか。謙信が単騎で武田本陣へ斬りこみ信玄に3太刀浴びせ、一方の信玄は手にした軍配で謙信の太刀を受け止めた、というエピソードです。
このエピソードの真偽についても諸説あるのですが、結論から言ってしまうと、この一騎打ちを証明する確実な史料は存在していません。つまり「フィクションである可能性が高い」のです。
武田側の史料「甲陽軍鑑」によると、「萌黄の胴肩衣を着て、頭を白布で包んだ馬上の武者に信玄が斬りつけられた」との記述があり、その武者が後に謙信だと判明した、としています。一方、上杉側の史料である「上杉年譜」によると、信玄を斬りつけたのは「荒川伊豆守」なる人物だったとしています。
他にもいくつかの史料や目撃談が存在していますが、どれも「信玄と謙信が一騎打ちをした」とは明言しておらず、確実な証拠は存在していません。
ただし、武田軍の損害の大きさから察するに、信玄の本陣が脅かされるほどの危機的状況であったことは疑いようがありません。つまり、信玄が敵兵に襲われ負傷したという事実に尾ひれが付いて話が大きくなった、というのが実情ではないでしょうか。
勝者はどちらだったのか?
第四次川中島の戦いは一般的には引き分けとされています。後年、あの豊臣秀吉も「前半戦は上杉軍の勝ち、後半戦は武田軍の勝ち」という判定をくだしています。しかしながら、これにも様々な見解が存在しています。
戦争目的が「川中島の地を手に入れること」と仮定するならば、結果的に信玄が領有していること、また上杉軍が先に撤退していることなどから、武田の勝ちとなります。
しかし、武田軍は信玄の弟である信繁を始めとして重臣を数名失っています。一方の上杉軍では主だった武将に戦死者を出していません。
また、全体的な損害も武田軍の方が大きくなっています。この頃は兵農未分離のため、犠牲者の数は国力の低下に直結しますから、犠牲の数をいかに少なく勝利するかが物凄く重要なのです。このような観点で見れば、上杉の勝ちです。
勝者はどちらだったのか?というのは、この戦いを見る角度によって変わってきます。そう考えると、やはり痛み分けというのが、最も妥当な結果なのではないでしょうか。
川中島の戦いによる影響
川中島の戦いは、結果的に天下布武を掲げる織田信長が得した合戦でした。武田信玄と上杉謙信という力のある戦国大名が、約10年間にわたり信濃で戦を続けてくれたおかげで、信長は東側にそこまで注意を傾けることなく、勢力を拡大することができたからです。
もし川中島の戦いが早期に決着し、勝者が上洛しようとしていたなら、織田信長にとって大きな脅威となっていたでしょう。武田信玄も上杉謙信も、のちに病で亡くなりますが、もし川中島の戦いがもっと早くに終わっていれば、上洛しようと動いた時期も早くなっていた可能性があり、二人が存命であれば歴史は大きく変わったはずです。
川中島の戦いは、武田信玄と上杉謙信が北信濃を巡って争った、戦国時代の合戦のうちの一つというだけではありませんでした。日本史という大きな流れの中で見れば、間接的にではありますが、織田信長から豊臣秀吉・徳川家康へと続く天下統一事業をスムーズに進めた、歴史的にも大きな意味のある合戦とも言えるのです。
川中島の戦い史跡一覧
主戦場跡
城跡
神社仏閣
川中島の戦いの真相に関するまとめ
いかがでしたでしょうか?
第四次川中島の戦いは、戦国時代の合戦の中でも最も激しい戦いのひとつでありながら、その詳細はほとんどわかっていません。ハッキリと言えることは謙信の猛攻で、信玄が負傷するほど武田軍が窮地に立たされたこと、そして川中島の地は最終的に信玄が手にしたことくらいです。
しかしながら、謎が多いからこそ、多くの伝説的エピソードが生まれ、後世の人々を楽しませてくれたのもまた事実です。そういった意味では、川中島の戦いとは戦国ロマンを最も楽しむことができる戦いと言えるのではないでしょうか。
最後まで読んでいただきありがとうございました。