北条政子はどんな人?悪女、それとも有能な将軍?【生涯年表や功績、名言についても紹介】

北条政子は平安時代末期に生まれましたが、鎌倉時代を象徴する女性だと言えます。彼女は鎌倉幕府を設立した源頼朝の妻であり、夫亡きあとは自分の感情に流されることなく幕府を守り抜きました。

鎌倉市の安養院に安置されている北条政子像

女性が表舞台に立つのが難しかった時代に、彼女は人の心をつかみ、一つにまとめ上げ、その後長く続く武士の世の基礎を作りました。承久の乱のときには、自らの言葉で語りかけ、逆賊になることを恐れる武士たちの心を鎮め、朝廷に立ち向かう決意をさせ、見事に勝利を収めたのです。

有能であることに加えて、人間らしい面が多く見られるのも政子の魅力です。娘の大姫の心の傷に寄り添う様子や、源義経の愛妾であった静御前への気遣いは優しさに溢れています。

歴史にまったく興味がない人にとっても、魅力的な人物が北条政子です。彼女の生き方を知ることで、人間の生き方を決めつけるのはつまらない、もっと自由に生きてみようと思えるはずです。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

北条政子とはどんな人物か

名前北条政子
誕生日1157年(保元2年)
没日1225年(嘉禄元年)8月16日
生地伊豆国(現在の静岡県伊豆半島、東京都伊豆諸島にあたる)
没地幕府のあった現在の鎌倉市か?
配偶者源頼朝
埋葬場所寿福寺(神奈川県鎌倉市)
勝長寿院、安養院にも墓がある

北条政子の生涯をハイライト

江戸時代に描かれた北条政子像

1157年、政子は伊豆国の豪族・北条時政の長女として生まれました。地方官僚のような存在だった父・時政は戦に破れて、伊豆国に流された源頼朝の監視役でした。

政子は頼朝と恋愛関係になりました。最初は2人の関係に良い顔をしなかった時政ですが、結果的には頼朝の強い後ろ盾になります。

1180年には、東国の武士たちが次々と奮起し、平家を打倒。政子は頼朝とともに鎌倉に居を構え、御台所と呼ばれるようになりました(御台所は大臣や将軍の妻のことで、奥方様というのと同じ意味です。ちなみに、御台とはもともと食べ物を置く小さなお膳のことで、御台所はそれを置く部屋(つまりキッチン)のことです)。

鎌倉幕府は順調に滑り出したと思われましたが、頼朝とその弟・義経との確執、子どもたちとの関係など、政子にとっては問題が山積みの状態でした。

その中で夫の頼朝が急死してしまいます。しかし、政子はくじけませんでした。ついには政子は摂関家から将軍を迎え、自らが将軍としての務めを果たすようになります。朝廷に対しても屈しないほどに武士を結束させ、北条家の執権としての地位も確固たるものにしてから、政子はこの世を去るのです。

北条政子の結婚・最初は流人の妻だった

政子の父・北条時政には先見の明があった?

最初は結婚を反対されていた政子と頼朝でしたが、それは時政が平家に遠慮をしていたからだと思われています。時政の妻(後妻だったので政子の義母)の実家は、平家の家臣でした。

政子と頼朝の関係が平家の耳に入るのを恐れて、時政は政子を別の男性と結婚させようと考えたそうですが、うまくいきませんでした。政子が頼朝の子どもを妊娠したこともありますが、2人の結婚を認めたのは、結局は時政に先見の明があったためです。平家全盛の時代も終わりを迎えつつあることを時政はわかっていたのでしょう。

時政の考えは見事に当たり、1180年には平家打倒の戦いが始まります。一度は惨敗して身を隠した頼朝でしたが、味方をする武士は増え続け、ついには源氏ゆかりの鎌倉に居を構え、鎌倉殿と呼ばれるまでになります。政子も流人の妻から一転、御台所と呼ばれる立場になるのです。

北条政子の人生のピーク?御台所と呼ばれて

母としての幸せな日々は長くは続かなかった?

御台所と呼ばれるようになってから、政子は長男の頼家、次女の三幡(さんまん)、次男の実朝(さねとも)を出産します。長女の大姫(おおひめ)は源義仲の息子・義高と婚約、母として幸せな日々を送ったように感じられます。

しかし長女が病死した後、1199年には頼朝が急死。政子は御台所ではなく尼御台と呼ばれることになります。その上次女も14歳で病死、将軍となった頼家は自分の妻の一族だけを重用する自分勝手な政治を行い、将軍を辞めさせられます。そして後で反乱など、面倒を起こさないように、頼家の子どもは、寺に預けられ、僧侶にされるのです。

次に将軍になった次男の実朝は教養のある文化人で、朝廷での評判も良かったようですが、1219年に暗殺されます。暗殺したのは頼家の息子で、寺に預けられた公暁(くぎょう)でした。

当時の記録には、たった一人残された子を失ってしまった政子の深い悲しみが残されています。しかし、肉親同士の憎しみがもたらす結果を嫌と言うほど見た政子は、決してくじけませんでした。

政子は尼御台から、さらに尼将軍へと変貌を遂げるのです。

北条政子の頑張り!尼将軍と呼ばれて

政子の言葉は武士の心を一つにした

実朝が亡くなった後、政子は後鳥羽上皇の皇子を将軍とするように交渉しますが、皇室はこれを拒絶します。政子は摂関家からまだ2歳の将軍を迎え、これを補佐するという名目で将軍の職務を行います。

そんな幕府と、皇室の復権を願う後鳥羽上皇は対立。ついには当時の執権だった北条義時(政子の弟)を討つように、命令が下されます。

皇室と戦おうにも、武士たちはみな朝廷の権威に恐れをなしていました。そこで政子は自らの言葉で武士たちに伝えます。

武士が安心して暮らせるのは頼朝のおかげなのに、この恩を忘れて朝廷をたぶらかしている者がいること、だから朝廷の出した命令は間違っていることを皆の前で明言しました。そして間違いを正して、武家社会を守ろうと呼びかけたのです。

言葉を聞いた武士たちは団結。朝廷との戦いに勝利を収め、後鳥羽上皇は流罪になります。政子のおかげで武家社会は守られ、その後長く続きます。跡継ぎ争いなども政子が解決して、幕府存続のために力を尽くしました。

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