北条政子の年表
1157年-0歳「政子、誕生」
保元の乱で始まる・源氏不遇の時代
政子の生まれる前の年に、誰を天皇にするかで問題が発生、戦にと発展しました。この戦で源氏には辛い時代が始まります。
頼朝の父・義朝(よしとも)は後白河天皇方に付いて戦い、見事に勝利を収めますが、戦が終わってみると平清盛を主とする平家の方が優遇されるという、源氏にとっては理不尽な結果が待っていました。
源氏一族の中には不満が積もっていき、後に平治の乱を引き起こしたとも言えます。政子の生まれた前後は、時代も大きく動いていたのです。
平治の乱で頼朝、流罪になる
1159年、頼朝は当時13歳の少年で、この時が初めての戦でした。戦に破れて逃げる途中で、みなからはぐれた頼朝は平家に捕まり、命を奪われそうになります。しかし、平家一族の主である平清盛の義母・池禅尼の強い希望で流罪で済まされました。
平治の乱は、後白河天皇が二条天皇に位を譲ったことで、お互いの家臣同士に勢力争いが起きたことがきっかけとなって戦になりました。源氏一族の中でも、同じ武士でありながら、自分たちよりも優遇されていた平家への怒りが爆発し、参戦しました。
父も兄も平治の乱で亡くした頼朝ですが、伊豆に流罪になったことで、後に政子と巡り合うことになるのです。
1177年 – 20歳「政子、頼朝と結婚」
流人だった頼朝が挙兵、平家を追い詰める
1180年、後白河天皇の皇子、以仁王が源頼政とともに平家打倒の計画を立て、全国の源氏に挙兵するように求めます。頼朝のところにも書状が届きますが、用心深い頼朝はすぐに動こうとはしませんでした。
しかし計画がバレて以仁王が戦死すると、頼朝も挙兵せざるを得なくなりました。石橋山の戦いでは惨敗、安房国(現在の千葉県)で潜伏生活を送りますが、ここで態勢を立て直して富士川の戦いでは勝利します。
政子と頼朝は鎌倉に居を構え、鎌倉殿、御台所と呼ばれることになるのです。
長女・大姫の婚約
結婚してすぐに長女の大姫を出産した政子は1182年に長男・頼家を出産します。その翌年には大姫が婚約。相手は頼朝が対立していた源義仲の息子・義高でした。義高は人質のようなものでしたが、大姫は幼いながらも義高を慕っていたようです。
結局、頼朝は再び義仲と対立、義仲が滅ぼされたために義高も殺されてしまいます。大姫は最後まで義高を助けようとしましたが、叶いませんでした。これがショックだったのか、大姫は長く病気がちのまま20歳で亡くなってしまいます。
順調に思える政子の御台所としての生活ですが、辛いことも数多くあったのです。
1186年 – 29歳「次女・三幡を出産」
平家の滅亡
1185年の壇ノ浦の戦い。頼朝の弟・義経の働きで平家は滅亡しました。鎌倉幕府は万全になったように思えましたが、この頃から頼朝は義経と対立するようになりました。兄と対決するために挙兵までした義経でしたが、それに失敗、都から落ち延びる他はなくなります。
義経の愛妾だった静御前が鎌倉に連れて来られたのは翌年のことで、政子の望みで舞を披露したそうです。政子は静御前に心を寄せ、身ごもっていた義経の子どもを助けて欲しいなどと、頼朝に対してずいぶんと訴えたそうですが、願いは叶いませんでした。最終的には、京へ帰る静御前とその母に対して重宝を与えたということです。
奥州征伐
奥州(現在の岩手県南部)に逃げ延びていた義経が1189年に死亡したのを待っていたかのように、頼朝は出陣、奥州を攻撃します。これにより独自の自治政権を保っていた奥州の藤原氏は滅亡、1190年には頼朝は鎌倉に凱旋し、後白河法皇から官位を授かり右近衛大将に任じられます。
奥州征伐の折りには、政子は鶴岡八幡宮にお百度参りをして、頼朝の勝利を祈願したそうです。政子の願いは神に届いたのでしょう。
その後、1192年に政子は次男の実朝を出産。出産の直前には頼朝が征夷大将軍に任じられ、名実ともに日本で一番の有力者になります。政子と頼朝の人生のピークと言えるときでした。
1199年 – 42歳「頼朝の死」
相次ぐ家族の死にもくじけなかった政子
かねてから病気がちだった大姫が1197年に20歳で亡くなります。その悲しみも癒えていない1199年、頼朝が落馬をしたことがきっかけで急死してしまいます。
「承久記」には、2人の死にくじけそうになったが、まだ若い長男・頼家のためになんとか踏みとどまったという政子の思いが記録されています。
頼朝の死で家督は頼家が継ぎ、政子は出家して尼になります。法名は安養院(あんにょういん)。政子は御台所から尼御台へと変わっていったのです。
十三人の合議制
頼朝の死後、すぐに定められたのが十三人の合議制でした。これは頼家一人に政治を任せて置けないという政子と北条時政の考えによってできた制度で、頼家一人が決定権を持つのではなく、13人の老臣たちが合議しなければ何事も決定できませんでした。
頼家のために生きる決意をした政子ですが、決して情に流されて幕府を軽んじることはありませんでした。十三人の合議制は政子が頼家に対して行ったフォローだと言えるでしょう。
しかし、頼家が政治家として成長することはなく、自分の気に入った者だけを重用し、権力を与えてしまうなど、その行動は政子の目に余るものがあったようです。頼家が重用していた比企(ひき)一族は政子によって滅ぼされ、頼家は将軍職を追われてしまいました。