北条政子はどんな人?悪女、それとも有能な将軍?【生涯年表や功績、名言についても紹介】

1219年 – 62歳「実朝の死」

寿福寺にある実朝の墓・やぐらという供養堂の中にある

尼将軍の誕生

頼家の次に将軍となった実朝でしたが、元来身体が弱く跡取りもいないままに、暗殺されてしまいます。実朝のために朝廷から次の将軍を迎えたかった政子でしたが、実朝が亡くなってしまうと朝廷は政子の申し出を拒絶します。

ここでも政子はくじけることなく、摂関家から将軍を迎えます。これが藤原頼経でこのときはまだ2歳の幼児でした。政子は頼経の後見役という名目で、政治を担うようになり、尼将軍が誕生したのです。

しかし政子の行為は、権力を復活させたいと願っていた後鳥羽上皇にとっては我慢のならないものだったのかもしれません。このときから幕府と朝廷は対立を深めていきます。

承久の乱

政子のおかげで武士たちは一つの方向を見つめることに

1221年、ついに後鳥羽上皇は京都守護を襲撃、幕府に対して挙兵します。そして北条義時(政子の弟)を討つようにとおふれを日本全国に発しました。幕府は朝廷と戦う決意をしましたが、大半の武士は朝廷に対して恐れを持っていました。

このままでは戦えないと危ぶんだ政子は「最期の詞」を武士たちに語りかけます。武士たちが安心して暮らせる世の中になったのは、頼朝のおかげだと再確認をさせた上、朝廷をたぶらかす者が存在しているからこそ、このような間違った命令(義時追討)が出されるのだと武士たちに伝えたのです。

武士たちは政子の語りかけに、帝に楯突くわけではない、たぶらかした者と戦うのだと安心する気持ちと、間違いを正して武士の世を守るのだという奮起する気持ちの両方を感じたことでしょう。

結果として幕府は大勝利を収め、後鳥羽上皇は流罪となります。政子が尼将軍としての実力を発揮したわけです。

1225年 – 68歳「政子の死」

政子と実朝の墓がある寿福寺・本堂前の山門

「伊賀氏の変」北条家の跡取り問題を政子が解決

1224年、政子とともに承久の乱の戦後処理を行っていた弟の義時が急死します。義時の長男の泰時は知識もあり、実績も積んでいたため、次の執権として期待されていましたが、異母弟の北条政村を擁立する動きがありました。政村の母で義時の後妻だった伊賀の方が、有力者だった三浦義村と結託しようとしていたのです。

政子は直接義村の屋敷に乗り込み、泰時が次の執権にふさわしいと道理を説きました。義村は平伏してこれを聞いたといいます。伊賀の方も伊豆に追放され、跡取り問題は見事政子によって解決されました。

この事件は伊賀氏の変と呼ばれていますが、政子が亡くなる直前まで幕府のために行動していたことがよくわかります。

亡くなって初めて平穏が訪れた?

政子が穏やかな最期を迎えたことを信じたい

1225年に政子は亡くなります。死因ははっきりとわかっていませんが、病の床についたと言われていますから、陰謀に巻き込まれたということはない、穏やかな最期を迎えたのではないでしょうか。享年は69歳でしたが、当時としては決して早すぎる死ではなかったはずです。鎌倉から出土した人骨を調べた結果、平均寿命は24歳という説もあります。

波乱万丈の人生が終わって初めて政子に平穏な時が訪れたのかもしれません。政子は神奈川県鎌倉市の寿福寺に葬られたようです(勝長寿院、安養院にも墓があるため)。この寿福寺はもともと頼朝の父の屋敷があった場所で、頼朝は最初に幕府をこの地に置こうと考えていたようです。

源氏にゆかりのこの寺で、政子は今でも実朝と親子水入らずを楽しんでいるはずです。

北条政子の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

北条政子

永井路子さんの「北条政子」は、長い間読みつがれてきた作品です。歴史上に起こった出来事は変えることができませんが、この作品を読んでいると、政子という女性が何を考えて生きてきたのかを考えさせられます。

実の子どもを殺害したとも言われますが、決してそんなことはなく、政子は自分の選んだ人生をひたすら真面目に生き続けたのではないかと思えるのです。

この作品を読むことで、政子を1人の女性として親しみを持って受け止められるはずです。

龍になった女-北条政子の真実-

現在さまざまな憶測で語られ、虚像が一人歩きをしているように思われる北条政子の真実が、この作品で明らかにされています。伊豆国という当時の田舎で、自分が何者なのか探っている一人の少女・政子の姿は現在の私たちにもとても親しみが持てます。

これから彼女を待っている辛い出来事の数々を私たちはすでに知っているために、余計政子を応援し、励ましたくなります。

今から800年近くも昔のことなのに、なぜか自分の若いときの苦い思いに出会ったような気になる作品です。

関連外部リンク

北条政子-Wikipedia
鎌倉の歴史上の主な人物
源頼朝の妻「北条政子」

北条政子についてのまとめ

北条政子について、歴史上の出来事からその人柄を探ってきました。彼女が有能な政治家であったとともに、思いやりのある母親であったこともわかったのではないでしょうか。

江戸時代までは政子の評価はとても良かったといいます。しかし江戸時代になり、儒教的な思想が重んじられるようになると、女性の身で第一線に立って政治を行ったこと、政子の実家が源氏に取って替わったことが非難の対象になってしまいました。

これはとても残念なことです。ぜひ、もう一度政子の姿を確認して、その価値を確かめるべきです。

現在はまだ女性が活躍をしているとは言い難い世の中ですが、政子の生きる姿を振り返ることで私たちもたくさんのことを学べるはずです。

1 2 3 4

コメントを残す