北条政子の功績
功績1「幕府を守るために!情に流されなかった政子」
頼朝から将軍職を引き継いだにも関わらず、わずか4年ほどでその座を追われてしまった頼家。しかもそれは政子の考えによるものでした。頼家が将軍職を引き継いだのは18歳。現代なら、まだ学生の人が多いでしょう。
将軍となった頼家の行動は目に余るものがあったようで、家臣の愛妾に手を出したり、蹴鞠にのめり込んだりするなどしていたそうです。そのため、頼家の歯止めのために「十三人の合議制」が取り入れられたほどでしたが、心配の種は付きませんでした。
政子がもっとも心配したのは、頼家が自分の乳母の夫を重用したことです。乳母の娘は頼家の子どもを生み、一族で権勢を誇っていました。これは北条氏の危機だ、と政子は感じたのでしょう。
そこで政子は乳母の一族を滅ぼし、頼家は出家させます。出家した頼家は翌年に死亡。将軍職は三代目の実朝へと引き継がれます。
たとえ自分の子であっても、将軍に適していなければ、さっさとその座から引きずり下ろした政子。母親の情に流されない政子の冷静さがなければ、鎌倉幕府の存続は難しかったことでしょう。
功績2「我が子と幕府の両方を思い、生きた政子」
政子は頼朝が作った幕府が長く続くように、大姫を皇室に嫁がせて、幕府に権威をつけようとしました。実朝が将軍になってからは、跡取りが生まれなかったために、皇室から将軍を迎えようと働きかけました。それはもちろん幕府のためですが、我が子を思う気持ちも入った行動でした。
政子の長女・大姫は幼いときからの許婚、源義高が殺されたことが原因で心を病んでいたようです。心は身体にも影響して、病にふせる日が多かったということです。
政子は大姫の心に深く寄り添い、盛大に義高の供養を行いました。大姫を皇室に嫁がせようとしたのも、政治的な意図の他に、日本で一番身分の高い人との縁組なら大姫も納得してくれるのではないかと言う母心がありました。
また、皇室から将軍を迎えようとしたのは、実朝が非常に皇室を大切に考え、官位も順調に上がっていたこと、源氏の祖先は皇室であったことを配慮したのでしょう。
子どもの不幸な状況を救うとともに、それを幕府のために生かそうとした政子はまさに尼将軍と呼ばれるにふさわしい女性だったことがわかります。
功績3「御家人の心をひとつに!政子の類まれな能力 」
鎌倉幕府のもっとも困難な戦いで、政子の言葉が勝利を導きました。それが「承久の乱」のときの言葉で、「最期の詞」と言われるものです。この言葉からは、政子には類まれな能力があったことがわかります。
承久の乱とは、摂関家から将軍を迎えた幕府と、皇室の復権を願う後鳥羽上皇の対立から起こった戦いです。京都守護を攻撃し、幕府の執権・北条義時を討つように命じた上皇に、幕府は戦う意思を固めます。
そのときの政子の言葉が、朝廷と戦うことをためらう武士たちを団結させました。女性が表舞台に立つ事自体が少なかった当時、政子の言葉がこれほど武士たちを惹きつけたのには理由があります。
それは、政子が頼朝が流人であった時代からともに生きてきた同士であったこと、そして政子の覚悟が言葉に反映されていたことです。
政子が使った最期とは、人生の終わりのときです。政子は死に際の言葉として、武士たちに語りかけたのです。だからこそ武士たちも覚悟を決めて、強い気持ちで団結し、結果として朝廷に勝利を収めることができたのです。
北条政子の名言
私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません
源義経の愛妾・静御前が鶴岡八幡宮で舞を披露したときに、義経を恋しく思う気持ちを詠ったことに頼朝が激怒します。政子は上記の言葉を静かに頼朝に伝え、とりなしをします。
政子が頼朝と結婚して、伊豆山に不安な気持ちでいたときはまさに今の静御前と同じ気持ちだったと言うわけです。頼朝は機嫌を直しただけでなく、静御前に褒美を与えたと言います。
大姫と頼朝が死んで自分も最期だと思ったが、自分まで死んでしまっては年端も行かぬ頼家が二人の親を失ってしまう。子供たちを見捨てることはできなかった
「承久記(承久の乱を主題にした軍記物語。純粋な事実だけを書いているわけではありません)」に書かれた政子の述懐です。
相次いで娘と夫を亡くして、ともすれば絶望に打ちひしがれそうなものですが、自分の役目を見失わずに生きていこうという強い意思を感じる言葉です。自分で自分を奮い立たせることができる人物だからこそ、御台所から尼御台、そして尼将軍と呼ばれるようになったのでしょう。
「吾妻鏡(鎌倉時代に完成した日本の歴史書)」では、実朝の死から政子の死までの間、政子のことを「鎌倉殿」と表記しています。政子は比喩ではなく、実質将軍だったのです。
故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい
承久の乱のときの政子の「最期の詞」の一部です。頼朝の功績を武士たちに思い出させ、三代続いた将軍のために戦えと言っていますが、朝廷のことはことさらに非難していないのが政子の優れた点です。あくまでも悪い家臣が朝廷をたぶらかして、間違った命令が出ていると言っています。
嘘をつかず、真実を言うだけで人の心を動かせるのは、確かに優れた能力だと言えます。
北条政子の人物相関図
北条政子にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「夢を買って結婚した?政子と頼朝の馴れ初め」
曽我物語という鎌倉時代の軍記物語には、政子と頼朝の少し変わった馴れ初めが紹介されています。政子が妹の夢を買い取ったおかげで、頼朝と結婚したというのです。
ある日政子の妹が太陽と月を掴んだという夢の話をしたそうです。それを聞いた政子は、その夢は不吉なものだから私が買い取ろうと言って、妹に高価な鏡(小袖とも言われる)を与えました。
ですが、太陽と月を掴むというのは、天下を取ることを暗示するおめでたい夢でした。政子はそれを知っていて、妹から夢を買い取ってしまったのではないかと言われています。
これは政子が娘時代からしっかりしていたことがわかる逸話です。やはり将来尼将軍と呼ばれるまでになる政子は、娘時代からその片鱗を見せていたわけです。
夢を買い取られてしまった妹というのは、後に頼朝の異母弟と結婚した阿波局です。結婚しても姉妹関係になったのですから、政子との関係は悪くなかったようです。
都市伝説・武勇伝2「政子は最初の妻ではなかった?頼朝の最初の妻とは」
源頼朝の妻といえば北条政子というのが、今や常識のようになっていますが、実は頼朝には政子以前に妻がいました。伊豆国の豪族・伊東祐親(いとうすけちか)の娘で名前を八重姫と言いました。
祐親は平家からの信頼が厚く、頼朝の監視役を任されていましたが、自身が京に上って留守をしている間に頼朝と八重姫が恋人関係になってしまい、子どもまで生まれました。
平家の怒りを恐れた祐親は、生まれた男子を殺害、頼朝の命まで奪おうとしました。頼朝は危うく難を逃れて無事でしたが、逃げた先が北条時政の屋敷で、政子と出会うことになります。
頼朝が関東を制圧すると、祐親は捉えられましたが、政子の妊娠を機に許されて放免されました。しかし、それを潔しとしなかった祐親は自害してしまったということです。
とても状況が似ていた八重姫と政子。2人を分けたのは、自分の意思で人生を切り開く強い気持ちだったのかもしれません。
都市伝説・武勇伝3「夫の愛人は許せない!現代人に近い政子の心理」
政子は嫉妬深いことでも有名です。頼朝は政子が妊娠すると公然と他の女性のところに通いました。当時、跡継ぎを絶やさないためにも、妻以外の女性と関係を持つのは、上流階級ではごく普通のことでしたが、政子は現代人の感覚に近かったのか、これをとても嫌がっていたようです。
特にひどい目にあった女性といえば、亀の前でしょう。嫉妬に駆られた政子は、亀の前の滞在先を自分の親族に頼んで打ち壊させました。もちろん亀の前は逃げ出しますが、恐怖は大きく、とても政子のことを恐れたと言います。
しかしこれは嫉妬だけが理由ではなく、伊豆国の豪族の娘に過ぎなかった政子が頼朝の妻としての立場を万全にするための行動でもあったようです。
源氏は、もともとは皇室の一員でありながら、あえて臣下の立場になった人たちの使う姓です。政子の立場は頼朝の妻としては少々弱かったのです。理由を考えると、このような行動も少しはわかるような気がします。