ヴィクトリア女王は、19世紀に大英帝国が最も繁栄していた頃に、王位についていたイギリスの女王です。大英帝国全盛期の時に王位についていたため、時代の象徴として「ヴィクトリア朝」と言います。イギリス人にとっては栄光の象徴であり、誇りなのです。
そんな華やかなイメージの、ヴィクトリア女王はどんな人だったのか、名前は知っていても実際は良く知らないという方も多いのではないでしょうか。ヴィクトリア女王のイメージと言えば、シャーロックホームズシリーズに出てきていたイメージが強い方も多いようです。
実は彼女は、性格的に直情的なところはありましたが、王としての責任感に富む女性でした。かなり気の強い性格で、そこが良い方向にも悪い方向にも向いていた女性と言えるでしょう。そんなヴィクトリア女王を、ベルサイユのばらの影響で、ヨーロッパ貴族が大好きな筆者が詳しく解説していけたらと思います。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
ヴィクトリア女王とはどんな人物か
名前 | アレクサンドリナ・ヴィクトリア |
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誕生日 | 1819年5月24日 |
没日 | 1912年1月22日 |
生地 | イングランド・ケンジントン |
没地 | イングランド・オズボーンハウス |
配偶者 | アルバート・オブ・ザクセン=コーブルグ=ゴーダ |
埋葬場所 | イングランド・フロッグモア |
ヴィクトリア女王の生涯をハイライト
ヴィクトリア女王の人生をダイジェストすると以下のようになります。
- 1819年 父ケント公と母ヴィクトリア妃の間に生まれる。
- 1837年 18歳でイギリス女王に即位
- 1840年 ザクセン=コーダルク=ゴーダ公国の公子アルバートと結婚する
- 1861年 アルバートが薨去する、その後喪に服し公務を退く
- 1886年 ベンジャミン・ディズレーリに励まされ公務に復帰する
- 1876年 インド女帝になる
- 1901年 脳出血により崩御(享年81歳)
ヴィクトリア朝に築いた帝国主義
ヴィクトリア朝の特徴と言えば、大英帝国の領土拡大でしょう。大英帝国は世界中の、非白人国家・民族集団に覇道の限りをつくし、地球の全陸地の4分の1、世界人口の4分の1を支配する最大帝国となっていました。
大英帝国維持・拡大の為にこの時期は積極的に戦争をし、ヴィクトリア朝において戦争をしていなかったのは、64年間の間でたったの2年だったといいます。ヴィクトリア女王は、非白人国家における帝国主義に賛同する立場をとっていました。
なぜならば、「平和を維持し、現地民を教化し、飢餓から救い、世界各地の臣民を忠誠心によって結び付け、世界から尊敬される英国の帝国主義である。英国の領土拡張は弱い者イジメではなく、英国の諸制度と健全な影響を必要とあれば武力をもって世界に押し広げるものである。」とするディズレーリ内閣植民相カーナーヴォン伯爵の見解を熱烈に支持していた為といいます。
世界中の植民地の多様な人種を「女王陛下の臣民」と位置づけていたのです。これは、王が女性であることが良い方向に働いていたといいます。被支配民の間で「帝国の母」としての慈しむイメージが広がっていて、大英帝国への支配の抵抗心を和らげる効果があったといいます。
ヴィクトリア女王に関連する人物
ヴィクトリア女王に関係する人物は、長い治世で沢山いましたが、特に大きく影響を及ぼした人物を時系列であげていきたいと思います。
アルバート・オブ・サクス=コーブルク=コバーク=ゴーダ公子
イギリス女王の夫として、イギリス議会で唯一「プリンス・コンソート」の称号を認められた人物です。出身はドイツ国の貴族であり、イギリス系の婚姻を望んでいたエリザベスの父は反対していたといいます。しかし、エリザベスの一目ぼれにより、結婚しました。出産と育児に追われる女王に代わり、公式行事の出席などをこなし、君主の役割を果たしていました。
その後は、女王とアルバートの共同統治に近い体制をとっていたといいます。首相のメルバーン子爵も「アルバート公は実に頭の切れるお方です。どうかアルバート公のおっしゃることをよくお聞きなさいますように。」と進言したという逸話も残っています。
第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラム
ヴィクトリア女王就任時の首相を務めていました。先進的な思想のホイッグ党所属でしたが、本質的には保守主義・貴族主義だったといいます。洗練したマナーと話術を持ち、ヴィクトリアに早々気に入られ、半ば個人秘書のようになっていたといいます。二人の関係は君臣を超え、父子の関係のように見えたと言われるほどでした。
ヴィクトリアの日記には毎日のように、「メルバーン卿」「M卿」と名前が書かれるほどでした。しかし、議会においての求心力が次第に低下していったメルバーン公は、ヴィクトリアに辞表を提出したといいます。ヴィクトリアの衝撃は大きく、泣き崩れたといいます。
首相サー・ロバート・ピール
1841年メルバーン首相が退陣した後に、保守党から首相に就任しました。当初、ヴィクトリアはピールのそわそわした態度を嫌っていたといいます。ピール自身も女王を苦手に思い、出来るだけ宮殿に長時間いないようにしていました。しかし、アルバートと関税大幅減税・取得税導入などを推し進めると、次第にヴィクトリアもピールに信任を寄せるようになったといいます。
しかし1845年に「ジャガイモ飢饉」が起こり、100万人という餓死者が出ました。その為ピール首相は保護貿易主義の穀物法を廃止するように働きかけました。ヴィクトリア夫妻も賛同し、ピールを尊敬したといいます。しかし地元貴族などの反対にあい、「穀物法廃止法案」と差し違える形で総辞職しました。
大蔵大臣・庶民院院内総務ベンジャミン・ディズレーリ
1868年2月に首相に就任しました。アルバート亡きあと、10年の引きこもり生活を送っていたヴィクトリア女王を、立ち直らせた人物です。アルバート崩御後に、「アルバート記念碑」を建てたことにより、女王は「アルバートの死去後、多く者が私を憐れんでくれたが、私の悲しみを本当の意味で理解してくれた者はディズレーリだけだった。」と語っています。
その寵愛ぶりはかつてのメルバーン卿を超える勢いであったといいます。彼を気にかけ、サポートするために公務に復帰しました。彼が首相を辞職後も、文通のやり取りが続いていたといいます。
ディズレーリの訃報を聞いたとき、ヴィクトリア女王は悲しみのあまりしばらく口をきけなかったそうです。そして彼の葬儀後、埋葬された教会に「君主であり友人であるヴィクトリアR&Iから、感謝と親愛をこめて」という記念碑を置かせました。
ウィリアム・グラッドストン
1868年11月にグラッドストンは、ディズレーリ―の後に首相に就任しました。しかし、女王はグラッドストンを毛嫌いしていたといいます。女王はディズレーリ―解任後は、再び公務に参加しなくなっていました。グラッドストンは公務復帰を度々要請したといいますが、そのたびに女王は退位をちらつかせて拒否をしていたといいます。
グラッドストンには君主は象徴的役割に限定されるべきという持論を持っており、女王を政治から遠ざけようとしていたといいます。女王に相談もせず、強硬的な政治を行おうとしました。女王は皇太子への手紙に、「女王に相談すべき大問題なのに女王を完全に無視するこの恐るべき急進的政府には仮面を付けた共和主義者が大勢いる」と怒りを露わにしています。
グラッドストンが高齢の為に総辞職をする際には、女王は大喜びをしたそうです。
ジョン・ブラウン
ヴィクトリア女王の使用人をしていたスコットランド人男性です。長く女王に仕え、寵愛を受けました。その寵愛ぶりから生前の時から、秘密結婚をしたとも噂されました。この当時伴侶を失った君主が使用人と私的な関係になることは、しばしばあったといいます。
ヴィクトリアは自身の死後に、自らの棺にブラウンの髪一房と写真、それにブラウンから女王に捧げられたブラウンの母の指輪を置くよう侍医に命じたと言います。そしてその命令は実行されたといいます。しかし、はっきりしたことはもちろんわからず、真相は永久に闇の中です。