ヴィクトリア女王とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や性格も紹介】

ヴィクトリア女王にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「ウエディングドレスが白なのはヴィクトリアの影響」

ヴィクトリア女王のウエディング姿

ヴィクトリア女王は結婚式の時に、当時珍しい純白のドレスを結婚式の衣装として身にまといました。この結婚式が純白のウエディングドレスの先駆けとなったと言われています。白い花嫁衣装は、ファッションに敏感な当時の富裕層に直ぐ取り入れられました。

ヴィクトリア女王は白のドレスを選んだことを振り返って、「素材は何であるにせよ花嫁が白を着る慣例はすぐに確立された。それは少女時代の純粋さ、無垢、そして、結婚する相手として選ばれた一人にだけ与える穢れ無き心の象徴なのである」と言っていたという話が残っています。

都市伝説・武勇伝2「最愛の夫アルバートに逆プロポーズした」

結婚式の時のアルバートとヴィクトリア

当初ヴィクトリアは「私は当面如何なる結婚もしたくない」と言っていたといいます。周囲が勝手にアルバートとの見合いがすすめるのが面白くなかったと後年女王は語っていたそうですが、アルバートと実際会ってみると美系の彼にすっかりひとめぼれしてしまったといいます。

そして「結婚に対する意見を変えた」と言い、アルバートを召して君主である自らプロポーズしたと言います。プロポーズの言葉は「貴方が私の結婚の望みを叶えてくれたらどんなに幸せでしょう」だったといいます。

都市伝説・武勇伝3「女王の家系は血友病家系だった!?」

ロシア王室は皇太子の血友病からラスプーチンが台頭することになった

ヴィクトリアの子孫の男子は血友病に苦しむことが多かったといいます。血友病の遺伝子は母の遺伝子から受け継ぐ性質があるため、ヴィクトリア自身も血友病ではなかったことから突然変異で血友病の因子をもったと言われています。

ビクトリアの4男のレオポルドが血友病で苦しんだといいます。また娘のアリスを通じてロシアのロマノフ王朝にも血友病がもたらされました。ヴィクトリアの孫のアレクサンドラがロシア皇帝ニコライ2世の皇后になりましたが、皇太子のアレクセイが血友病に苦しめられることになりました。これが、後にロマノフ王朝がグリゴリー・ラスプーチンに付け入られる隙を与えてしまいました。

ヴィクトリア女王の年表

1819年 – 0歳「イギリス・ケンジントン宮殿で生を受ける」

4歳の頃のヴィクトリア

1819年にロンドンのケンジントン宮殿でヴィクトリアは誕生しました。当初は王位継承権は第5位であり、決して高くはありませんでした。父ケント公は借金まみれで物価の高いイギリスでは暮らしていけないと、ベルギーやドイツ諸国を点々としていたといいます。父は妻を連れてヴィクトリアを「ロンドン生」にするために、一時帰国し生まれたといいます。

ヴィクトリア女王の幼少期

母ケント公妃と5歳ごろのヴィクトリア

母が母国語がドイツ語だったので、3歳頃までドイツ語を話すのみの生活だったといいます。しかし、幼少期から「英語」「フランス語」を勉強し、3か国語自由に話せるようになりました。「イタリア語」と「ラテン語」も少し話すことができたそうです。

1830年の頃には、彼女の王位継承の可能性が高まったために、「暫定王位継承者」に任命されました。これにより、乗馬や絵画・音楽・舞踏などの上流階級の嗜みを身に付けていったといいます。特に絵が得意で生涯書き続けたといいます。

1837年 – 18歳「英国君主女王に即位する」

ヴィクトリア女王の戴冠式の様子

1837年前王のウィリアム4世が崩御し、これによりヴィクトリアがハノーファー朝第6代王位に即位しました。戴冠式が行われ、出席した枢密顧問官たちは新女王の優雅な物腰、毅然とした態度、堂々たる勅語に感服したといいます。ジョン・ラッセル卿は「ヴィクトリア女王の治世は後代まで、また世界万国に対して不滅の光を放つであろう」と予言しました。

19世紀半ばのイギリス王はいまだ巨大な国王大権を有しており、いざという時には強権発動が可能でした。大臣の任免、議会の招集・解散、国教会の聖職者と判事の任免、宣戦布告などは国王の大権でした。そういった重要な役割である王座に、若干18歳のヴィクトリアが即位することになったのです。

寝室女官事件

女王と女官長

1839年にイギリス女王ヴィクトリアと保守党党首サー・ロバート・ピール準男爵の間で発生した、寝室女官の人事をめぐる対立が起こりました。ピールが女王に宮中の女官を異動させることを要求しました。しかし、女王が女官を異動させないと拒否したのです。

ピールは政府に宮中人事の権利があるかを問う国制問題であると反論しましたが、女王は女官は女王の私的人事と主張し、誰一人解任しないと突っぱねました。結局この問題は女王は譲らず、結果として保守党への政権交代を見送ることで決着しました。

事件があった頃のヴィクトリアの肖像画

この時の行動はマスコミも「国政を覆す行為」として批判が多かったといいます。そして、女王の気まぐれを諫める夫を早く探すべきだという世論が盛んになります。このことは女王の我儘な性格を表す良いエピソードであり、ヴィクトリア本人も後に、「あの頃の私は非常に若かった。同じような事態が再びあったなら、私は違う行動をとったでしょう」と言ったといいます。

1840年 – 21歳「アルバートと結婚する」

ヴィクトリアとアルバートの結婚式の様子

1840年にヴィクトリアがアルバートとセント・ジェームズ宮殿で結婚式を執り行いました。その様子は、ヴィクトリアが伯父への手紙に「昨日の披露宴は楽しくて熱気にあふれていました。ロンドン市内では群衆が果てしなく沿道に続いていました」と書いています。

そして、ヴィクトリアは公文書作成においてアルバートに助言を求めるようになり、大臣引見の時もアルバートを伴うようになりました。アルバートは非常に有能であり、実質アルバートとの「共同統治」の体制をとっていきました。

ジャガイモ飢饉が起きる

ジャガイモ飢饉の像

1845年にアイルランドで、ジャガイモ飢饉が起きます。そのためアイルランドでは100万人が餓死・もしくは栄養失調で亡くなったといいます。このためにアメリカやカナダ等の新天地に行くものも増加しました。

ヴィクトリアはこの事態のために、ライオネル・ド・ロスチャイルドが主宰する「アイルランドとス」コットランドの貧民のための英国救貧協会」に2000ポンドの寄付をしました。これは、同基金の寄付額の第1位の金額でした。

チャーティズム運動が活発になる

1948年のチャーティズム運動の様子

1848年に1848年改革が大陸で起きた時に、イギリスでもチャーティズム運動が活発になりました。「共和制万歳」を叫ぶ者たちがバッキンガム宮殿の外のランプを破壊する騒ぎがあり、ヴィクトリア女王は恐怖のあまり泣き出してしまったといいます。身の危険を感じたヴィクトリアら王族はワイト島に一時的に避難しました。

しかし比較的自由主義的な政府があり、イギリスでは大陸ほど革命は燃え広がらず、やがてチャーティズム運動も下火になっていきヴィクトリアは胸を撫でおろしたといいます。

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