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松永久秀とはどんな人?生涯・年表まとめ【信長や光秀との関係も紹介】

松永久秀とは、戦国時代~安土桃山時代にかけて大和国(現在の奈良県)を中心に活躍した戦国武将です。官職名と合わせた「松永弾正(まつながだんじょう)」の異名でも知られ、様々な濃いエピソードを残す人物が多い戦国時代の中でも、屈指の濃さを誇る人物でもあります。

後世に描かれた松永久秀のイメージ図

現在の歴史好きの間では、彼は「下剋上の代名詞」のように語られています。

例えば、将軍・足利義輝の暗殺に関わったとされること。主家を半ば乗っ取るような形で成りあがっていったことなどが、彼の代表的なエピソードとして挙げられます。

そんな所業からか、油断ならない残忍な人物の意味を持つ”梟雄(きょうゆう)”の代名詞として語られることも多く、現在において松永久秀を語る際は「悪人」のイメージで語られることが一般的です。

しかし反面、妙に人間臭いエピソードや、武将としての高い才覚、そして戦以外の能力についても高い評価を得ていたことなど、単なる悪党のイメージには収まらない、非常に多面的な人物でもあるのが、松永久秀の魅力であり難しい所だと言えるでしょう。

ということでこの記事では、そんな松永久秀の魅力やエピソードなどを中心にして、「彼は本当に悪人だったのか?」という人物の実情を紹介していきたいと思います。

松永久秀とはどんな人物か

名前松永久秀
通称松永弾正、霜台(そうだい)
誕生日1508年
没日1577年11月19日(享年68歳)
生地不明
(阿波国・山城国西岡・
摂津国五百住などの諸説あり)
没地大和国、信貴山城
官位従四位下、弾正忠・山城守・弾正少弼
配偶者正室:松永女房
継室:広橋保子(広橋兼秀女)
側室:小笠原成助の娘
松永久通
長女(伊勢貞良室)
女(日根野弘勝室)
養子:松永永種
埋葬場所奈良県王寺町の達磨寺とされる
墓所奈良県王寺町の達磨寺
京都府京都市下京区の妙恵会墓地、
奈良県生駒郡三郷町など複数存在

松永久秀の生涯をハイライト

松永久秀の出自ははっきりしておらず、彼の名前が表舞台に登場し始めるのは、1540年頃だったと言われています。

久秀は当初、三好長慶(みよしながよし)の右筆(現在で言う書記)として仕えていたとされ、1540年には久秀が名義人となっている書状がいくつか発見されています。このことから、彼はこの時期には既に奉行レベルの職掌にあったと思われ、主君から一定の信頼を得ていたことがわかります。

久秀が仕えていた三好長慶は、久秀のことを大層信頼していたとされる。

その後の1549年、三好長慶が室町幕府十三代将軍・足利義輝の追放を行って京都の実質的な支配者となると、久秀もこれに同行。京都の寺社や公家と三好家の調整役として奔走し、主家のみならず公家や寺社からも、その手腕に対する評価を得ることになりました。

そのような内政の手腕を評価されつつ、久秀は武将としても手腕を発揮。三好家の京都支配に抵抗し、もう一度義輝を京都に復帰させようとする勢力と多くの戦を繰り広げ、武将としての才覚を確かなものとしました。

室町幕府十三代将軍・足利義輝も、久秀のことを大いに信頼していたという。

そして、将軍家と三好家の和睦が成立した際には、久秀は三好長慶からは側近として非常に厚い信頼を得るとともに、足利義輝からは御供衆に任じられるとともに弾正少弼に任官。三好家の有力武将として信貴山城を居城とし、将軍家からは、主君である三好長慶の嫡男である義興と同格レベルの扱いを受けていたとされています。

この頃には既に、大和国一帯を収めることになっていた久秀は、畿内を手中に収めるべく各地へ侵攻を開始。この時期は三好家の衰えと重なっており、次第に久秀は家中における勢力も強めていくことになりましたが、意外にもこの頃の彼は、三好家を継いだ長慶の甥・三好吉継を忠実に支え続けたことが記録されています。

そして1565年。久秀の息子である久通と三好義継、三好家の重鎮である三好三人衆が永禄の変を起こし、足利義輝を暗殺。この事件の黒幕は久秀だと言われることもありますが、その真相は謎に包まれています。

そしてこの事件を皮切りに久秀と三人衆の対立は次第に深まりをみせることに。彼らの対立を示す代表的な戦としては東大寺大仏殿の戦いが挙げられ、その対立は次第に泥沼化していったようです。

そしてその後、織田信長が足利義昭を伴って上洛したことで、三好三人衆は京都から駆逐されることに。久秀は信長と同盟を結び、以降は大和一国を治める武将として、織田家の躍進に伴う様々な戦に参戦した記録が残っています。

信長包囲網への参加は、足利義昭や武田信玄から促されてのものだったとされる。

しかし1570年以降、信長包囲網が形成されていく中で彼は次第に反信長派へ転向。1572年には反信長の意思を明確にして彼に戦を挑みますがこれに敗北。しかしその謀反はどういうわけか許され、彼は再び信長に仕えることになりました。

しかし1577年に、かれは本願寺などと通じる形で再び織田家に反旗を翻すことに。彼は理由を問いただそうと送られた織田家の使者を突っぱねて交戦をしますが、織田の大軍による包囲戦に敗北。これによって敗北を悟った久秀は、息子である久通と共に天守で自害して果てたと伝わっています。

松永久秀の出自

松永久秀の肖像画とされる絵

「悪党」や「成り上がり者」の代名詞として語られることの多い松永久秀ですが、実は彼がどのような出自の人物であるかは、現在も明確にわかっているわけではありません。

彼の出身地一つとっても、阿波国という説、山城国西岡の商人出身という説、摂津国五百住の土豪の出身という説などが混在しており、久秀がどのような経緯を経て三好長慶に仕えることになったのかについても、実は何一つとして実情がわかっていないのが現状です。

また、彼が仕えた三好家の人事の特殊性も、その出身の掴みにくさに拍車をかけている所があり、松永久秀という人物の存在は、彼自身の名跡だけでなく三好家事態にも多くの謎を残す結果を生んでいると言えるでしょう。

記録に残る松永久秀の性格

宣教師ルイス・フロイスは、松永久秀の性格を自著である『日本史』に書き残している。

そのエピソードの濃さから、多くの記録に描かれる松永久秀ですが、様々な記録に描かれるその性格は、悪人としてのイメージはそのままに、しかし同時に非常に多面的だと言えるでしょう。

『備前老人物語』においては、信長から「信用ならない男」と評される一方で、自身の死に際を弁えたようなさっぱりとした人物として描かれている一方で、別の記録では「年貢を治めなかった農民に生きたまま火をつけ、その様子を見て爆笑した」などの残虐なエピソードも残されています。

ルイス・フロイスの『日本史』では「腕利きで優秀だが、その分狡猾で欲深い」と恐れ交じりに記され、『足利季世記』では「文武両道の優秀な男だが、ケチな性分で欲深い」と評されるなど、かなり多くの媒体で松永久秀の人物像は記録されています。

それらの情報を総合するに、久秀は「実務においては優秀な人物だが、心根としては信用できない強欲な人物」として評価されていたようです。様々な立場からの見え方こそあれど、結局「信用できない」と言う部分が揺らがない辺りも、松永久秀の特殊性だと言えるでしょう。

梟雄(きょうゆう)の人間関係

残る記録資料からは「信頼を置いてはならない者」「武将として高い才覚を持つが、その分危険な男」等の評価を受けている久秀ですが、その高い能力や数多く残る記録からも分かる通り、多くの人物と交流をしていたことも分かっています。

剣豪将軍の異名で知られる足利義輝から、幕臣として高い評価を受けていた久秀。

とりわけ、室町幕府十三代将軍である足利義輝とは、当初こそ敵対していたものの、義輝の京都復帰後は非常に親密な間柄になっていたことがわかっています。

義輝は久秀に官位を授けるなど、その才覚を非常に高く買っていたらしく、久秀が躍進して言った理由の中に義輝からの寵愛があったことは、疑う余地もないことでしょう。

また、義輝亡き後は織田信長との交流も盛んだったと伝わっています。

苛烈な性格で有名な信長だが、久秀に対しては妙に甘かったとか。

多くの名物茶器を収集していた久秀は、信長との交渉の際にその名物を材料として用いるなどの交渉術を展開。名品珍品や新しい物好みの信長にとって、その戦術は大いにハマったらしく、信長は久秀の一度目の謀反を許したあげく、信貴山城の戦いが勃発した際も「久秀が持っている茶釜・古天明平蜘蛛を差し出すなら許そう」と考えていた節すらあったようです。

とはいえ、足利義輝や織田信長との関係性がどのようになったかは、先述のハイライトを見ていただければお判りいただけるかと思います。如何に久秀を信用し、高い評価をしようとも、結局松永久秀と言う人物が「信用ならない人物である」ということに違いはありません。

文化人にして大悪党と言う多面的な人間性

名刀や名品への目利きに優れ、
多くの物品をコレクションしていたという。

先のトピックでも少しだけ触れましたが、久秀は悪党としてのイメージが強い一方で、非常に優れた文化的知見を持っていたことも分かっています。

とりわけ茶道の分野では、「わび茶」の概念を決定づけた武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事していたことが伝わっているほか、古天明平蜘蛛や九十九髪茄子などの名物茶器を所持していたことも分かっており、そのような知見は公家層からも一目置かれるものだったようです。

他にも「不動国行」に代表される名刀もいくつかコレクションしていたと思われており、そのような多くの茶器や名刀を用いて交渉に臨むなど、趣味と実益を兼ねた名品の使い方をする、賄賂のような中々にあくどい交渉の記録も残っています。

ともかく、悪党のイメージの強い松永久秀ではありますが、彼は決して子悪党めいた人物ではなく、むしろ文化的な知見を兼ね備えたインテリ系の人物だったことも忘れてはなりません。

松永久秀の行った「三悪事」とは?

東大寺の大仏を焼失させたことは、久秀の代表的なエピソードとして語られる。

久秀に”悪”というイメージを浸透させるきっかけとなったのは、『常山紀談』で信長が語ったとされる「久秀の三悪事」でしょう。

この三悪事というのは、「三好家の乗っ取り、永禄の変(将軍・足利義輝の暗殺)、東大寺大仏殿への放火」の事を指す行いであり、この三つを信長が「三悪事」と評した記録があることから、「久秀=悪人」というイメージが形作られるきっかけになったと思われます。

しかしこの悪事について、信長は咎める意味で語ったわけではないようです。というのも、信長自身も「主君であった織田信友を殺して当主に上り詰め、将軍・足利義昭を追放し、比叡山を焼き討ちにする」と、久秀の行いとほぼ同じ行いをしています。

そのため、信長は久秀を悪人と見ていたというよりは、自分と似た存在――見込みのある有力な武将として見ていたと考えた方が、記録としての理にはかなっているように筆者には思えます。

炎の中、秘宝を道連れにした壮絶な最期

久秀の最期の地である信貴山城のイメージ図

信長への二度目の謀反の末に、居城である信貴山城にて自害して果てたと伝わる松永久秀。

久秀は自害に際して、天守に火をつけさせてから自害に及んだため、その遺体がどのような末路を辿ったのかは、実際のところはよくわかっていません。記録上では「首は安土に送られた」「遺体は筒井順慶が達磨寺へ葬った」とされていますが、それらは別の記録媒体による記載のため、分からないとする方が正確です。

平蜘蛛釜とされる茶釜は現存しているが、これが久秀が大事にしていた古天明平蜘蛛と同じだという証拠はない。

また、久秀の最期と言えば「古天明平蜘蛛の茶釜に火薬を詰めて爆死した」というエピソードが有名ですが、これは昭和頃に作られた創作エピソードであるとされ、実際の久秀は炎上する天守で腹を切って果てたとされています。

とはいえ、大切にしていた平蜘蛛を道連れとして死んでいったことは史実に基づく部分であるらしく、平蜘蛛の茶釜を幾度となく欲しがった信長は、久秀と共に茶釜が失われた事実を知って落胆したとも言われています。

「平蜘蛛釜」とされる茶釜は現存しており、異説として「平蜘蛛釜が別の人物の手に渡った」という説もいくつか存在していますが、どれも説としての裏付けは弱く、やはり平蜘蛛釜は久秀と共に焼失したと考えるのが一般的です。

ともあれ、多くの人物から「信用ならない人物」と警戒を受け、それでも自身の才覚で戦国の世を渡った松永久秀。彼はこうして燃える城の中で、愛する名品を道連れに68年の生涯を閉じることになったのでした。

現代に描かれる松永久秀

現代においても時代劇や漫画、ゲームなどの題材として描かれることが多い戦国時代。松永久秀もまた、その濃いエピソードや人間性からか、そのような作品に描かれやすい人物であると言えるでしょう。

その中でも、多くの「歴女」を生んだ大人気ゲームシリーズ『戦国BASARA』で描かれる松永久秀はとりわけ人気の高い久秀像として有名です。

「悪人」としてのイメージを前面に押し出した『戦国BASARA』の松永久秀

虚無的で欲望に忠実な悪人の生き様を貫き通しながら、どこか哲学的なキャラクター性の久秀像は、史実のイメージを反映した趣が強く、2020年4月に鬼籍に入られてしまった声優・藤原啓治氏のダークで色っぽい熱演も相まって、多くのファンを虜にする松永久秀像を作り上げました。

『麒麟がくる』では、飄々とした人間味のある、新機軸の松永久秀が描かれている。

また、2020年現在放送されている大河ドラマ『麒麟がくる』では、吉田鋼太郎氏が久秀を演じ、従来のダークヒーロー然とした松永久秀像を壊す、豪快で人間味のある、しかし二面的な恐ろしさを抱えた久秀を演じ、従来の久秀のイメージに一石を投じることとなっています。

その他『戦国無双』の松永久秀も、史実の久秀の「悪人」「文化人」のイメージを踏襲している。

その他にも多くの作品に登場している松永久秀ですが、多くの作品において「ダークヒーロー(アンチヒーロー)の立ち位置」「爆薬を使う」「相手を皮肉るような態度」「教養に優れた人物」等の要素が共通しているように窺えます。

そのような共通したイメージが作り上げられることこそが、松永久秀という人物のエピソードの濃さが表れていると言えるでしょう。

松永久秀の功績

功績1「敵対者を経ながら、将軍の傍らに控えることを許された有能」

歴史系雑誌で特集が組まれるほど、足利義輝と松永久秀の関係性は深かった。

現代に生きる我々から見ても、一度完全に敵対した人間をもう一度傍に置くことには抵抗があります。しかもそれが、命のやり取りや暗殺が日常的だった戦国時代なら猶更のことでしょう。

しかしそのような情勢下であっても、一度敵対した足利義輝の傍に仕えることを許された人物となってたこと自体が、松永久秀がどれほど有能な人物だったかの証明だと言える部分です。

最終的にはもう一度敵対したと思われる二人ですが、それを差し引いても将軍の傍に控え、あまつさえ主家の嫡男と同格の扱いを受けたという事実が、久秀が周囲から抜きんでた人物だったことの証であるように思えます。

功績2「城郭建築の第一人者」

安土城の図。実はこの設計にも、
久秀が創始した「多聞作り」が使われている。

戦場においても交渉においても、文化的な目利きにおいても優秀さを示すエピソードの多い久秀ですが、更に彼は城郭建築の第一人者として有名でした。

特に彼が信貴山城の建築で取り入れた”多聞作り”と呼ばれる「櫓と城門を一体化させる建築方式」は、以降の城郭建築に強い影響を与えたとして知られ、建築の分野にも久秀の勇名をとどろかせる結果となりました。

また、古墳を打ち壊してその史跡を城郭に転用するという手段で築城を行ったことでも知られていますが、これは彼の主君である三好長慶が創始した築城方法であり、厳密には久秀がはじめた建築の仕方ではありません。

とはいえ、彼が創始した多聞作りが後の武将たちに広く評価されたことは事実であり、それだけでも彼の幅広い才覚を示すには十分すぎる功績でしょう。

功績3「織田信長から謀反を許された男 」

謀反を起こした者は、
義弟の浅井長政であっても容赦なく罰した信長。
しかし久秀に対しては…

織田信長と言えば「苛烈な性格」「謀反を許さない冷酷な男」というイメージが強く、それは実際の事実の一端ではあります。浅井長政が辿った末路などは、信長の性格を示す最たるエピソードでしょう。

しかしその一方で、信長包囲網に与した久秀が謀反をはたらいた際、信長はその謀反を許して再び彼を自分の配下としたという記録も残っており、信長が久秀に温情を与えた理由については、現在も様々な説が囁かれている状況です。

通説としては「久秀の持つ古天明平蜘蛛を欲しがった」という説、「久秀の武将としての才覚を高く買っていた」という説がありますが、そのどれも理由として記録されているものではないため、未だに想像の余地を出てはいません。

とはいえ、苛烈な性格で有名な信長に謀反を許されるだけの”何か”が久秀にあったことは、事実として押さえておくべき事柄だと言えるでしょう。

松永久秀の名言

裏切られるのは弱いから裏切られるのです。裏切られたくなければ、常に強くあればよろしい。

松永久秀と言う人物を、これ以上なく端的に表した言葉です。謀反の後信長に降参した際、謁見時に彼はこの言葉を信長に告げたのだと言います。

義理や人情を信じず、ただ自分の強さを信じた久秀。その強さが正しいものかどうかはともかく、ある意味でこの世の心理をつく一言であることには間違いありません。

人間は日々養生する事で長い命を得ること間違いない

大切に飼っていた松虫が3年も生きたことから得た、久秀の気付きを示す言葉です。実際、久秀は生涯にわたって養生を心掛けていたらしく、死の間際に至るまでその壮健さを保っていたことが伝わっています。

百会は中風の神灸なれば、当分その病を防ぎ、快く自害するためのものである

自害に当たってお灸を用意させ、その必要性を部下から問われた時の言葉です。似たような言葉に、石田三成の「柿は肝の毒になるから食わぬ」というものがありますが、久秀もまた同様に、自害に際しても武将然とした態度を崩さない、立派な武将だったことを示す言葉だと思います。

余談ではありますが、石田三成に仕えた島左近は、関ヶ原の戦いに際して「近頃は明智光秀や松永久秀のような、果断に飛んだ武将が減った」と嘆いたという記録があるというのも、なんとなくの奇縁を感じさせる事柄です。

松永久秀にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「日本で初めてクリスマスを祝った男?」

今でこそ定着したクリスマスを祝う慣習だが、実は日本で初めてそれを祝ったのは松永久秀だった?

松永久秀を語るにあたってのエピソードの中には、「クリスマスを祝うためにその日の戦を中止した」と言うエピソードが存在しています。

久秀の革新的な視点を示すイメージで用いられるエピソードですが、実はこれは史実の資料に記載されていた「クリスマス時期に、松永軍の兵士と、敵対する三好軍の兵士が一緒にミサを行った」という部分が独り歩きした結果の、創作エピソードであるとする説が一般的です。

久秀は、キリシタンに対して中立的からやや否定的に寄ったスタンスを取っていたことも知られ、松永軍内にはキリシタンは多少存在したようですが、久秀自身は別段キリスト教を信仰していたわけではないとされています。

とはいえ、そのようなエピソードがまことしやかに語られ、事実であると誤認される辺りにも、松永久秀がどれだけ革新的な人物だったかが示されているような気がします。

都市伝説・武勇伝2「”命よりもコレクションを取る!”名物コレクションへの異常な執着」

平蜘蛛の茶釜とされる物品。蜘蛛が這いつくばったように見えることから、その名がついたとされる。

久秀の死が、織田信長との戦いにて信貴山城天守での自害によってもたらされたことは先述した通りです。しかし信長は久秀に対し、「言うとおりに降伏すれば命までは取らない」と考えていたとも囁かれています。

苛烈な性格で有名な信長にしては温情的な措置でしたが、久秀にとって問題だったのは、その「言うとおりにすれば」の部分。信長は久秀に対し「お前が持っている古天明平蜘蛛の茶釜を差し出せば、命だけは助けてやる」と、久秀が大切にしていた茶器を所望したのだというのです。

現代の価値観で言えば「茶器を渡せば助けてくれるなら……」と差し出してしまいそうな所ですが、久秀は何とこの申し出を拒否。「平蜘蛛の釜と我らの首の2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」と返答し、その通りに平蜘蛛を破壊。その後に自身も自害するという末路を遂げました。

一般的な価値観からは理解できない部分ですが、久秀のコレクター魂とも言うべき部分が、これ以上なく表れたエピソードだと言えるでしょう。

都市伝説・武勇伝3「松永久秀が戦場よりも恐れたものとは…?」

松永久秀が蒼白になるほど恐れたのは、
”ある女性”の幽霊…?

文武両道にして義理人情よりも実益を取る、能力としても心根としても「強い」と評価すべき松永久秀と言う人物。彼自身も「戦場で怖いと思ったことがない」と語る自信家だったようですが、そんな彼が唯一、泣き叫ぶほどに恐れた相手がいると言う記録が残っています。

彼がそれほどまでに恐れた相手と言うのは、なんと自身の妻の霊。あの織田信長すら手玉に取ったとされる幻術士・果心居士(かしんこじ)に「自身を恐怖させてみろ」と挑発を行った久秀は、亡くなった妻の姿に化けた果心居士の姿に絶叫し、蒼白になって「わかった、もうやめよ」と声を上げたのだと言います。

果心居士の存在自体が疑問視されているため、実際の所は胴だったのかは不明瞭ですが、これほどまでに「悪党」「梟雄」のイメージで塗り固められた久秀が、実は死んだ妻を恐れていたというのも、彼の人間的な魅力に一役を買う要素だと思います。

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