松永久秀とは、戦国時代~安土桃山時代にかけて大和国(現在の奈良県)を中心に活躍した戦国武将です。官職名と合わせた「松永弾正(まつながだんじょう)」の異名でも知られ、様々な濃いエピソードを残す人物が多い戦国時代の中でも、屈指の濃さを誇る人物でもあります。
現在の歴史好きの間では、彼は「下剋上の代名詞」のように語られています。
例えば、将軍・足利義輝の暗殺に関わったとされること。主家を半ば乗っ取るような形で成りあがっていったことなどが、彼の代表的なエピソードとして挙げられます。
そんな所業からか、油断ならない残忍な人物の意味を持つ”梟雄(きょうゆう)”の代名詞として語られることも多く、現在において松永久秀を語る際は「悪人」のイメージで語られることが一般的です。
しかし反面、妙に人間臭いエピソードや、武将としての高い才覚、そして戦以外の能力についても高い評価を得ていたことなど、単なる悪党のイメージには収まらない、非常に多面的な人物でもあるのが、松永久秀の魅力であり難しい所だと言えるでしょう。
ということでこの記事では、そんな松永久秀の魅力やエピソードなどを中心にして、「彼は本当に悪人だったのか?」という人物の実情を紹介していきたいと思います。
この記事を書いた人
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フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。
松永久秀とはどんな人物か
名前 | 松永久秀 |
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通称 | 松永弾正、霜台(そうだい) |
誕生日 | 1508年 |
没日 | 1577年11月19日(享年68歳) |
生地 | 不明 (阿波国・山城国西岡・ 摂津国五百住などの諸説あり) |
没地 | 大和国、信貴山城 |
官位 | 従四位下、弾正忠・山城守・弾正少弼 |
配偶者 | 正室:松永女房 継室:広橋保子(広橋兼秀女) 側室:小笠原成助の娘 |
子 | 松永久通 長女(伊勢貞良室) 女(日根野弘勝室) 養子:松永永種 |
埋葬場所 | 奈良県王寺町の達磨寺とされる |
墓所 | 奈良県王寺町の達磨寺 京都府京都市下京区の妙恵会墓地、 奈良県生駒郡三郷町など複数存在 |
松永久秀の生涯をハイライト
松永久秀の出自ははっきりしておらず、彼の名前が表舞台に登場し始めるのは、1540年頃だったと言われています。
久秀は当初、三好長慶(みよしながよし)の右筆(現在で言う書記)として仕えていたとされ、1540年には久秀が名義人となっている書状がいくつか発見されています。このことから、彼はこの時期には既に奉行レベルの職掌にあったと思われ、主君から一定の信頼を得ていたことがわかります。
その後の1549年、三好長慶が室町幕府十三代将軍・足利義輝の追放を行って京都の実質的な支配者となると、久秀もこれに同行。京都の寺社や公家と三好家の調整役として奔走し、主家のみならず公家や寺社からも、その手腕に対する評価を得ることになりました。
そのような内政の手腕を評価されつつ、久秀は武将としても手腕を発揮。三好家の京都支配に抵抗し、もう一度義輝を京都に復帰させようとする勢力と多くの戦を繰り広げ、武将としての才覚を確かなものとしました。
そして、将軍家と三好家の和睦が成立した際には、久秀は三好長慶からは側近として非常に厚い信頼を得るとともに、足利義輝からは御供衆に任じられるとともに弾正少弼に任官。三好家の有力武将として信貴山城を居城とし、将軍家からは、主君である三好長慶の嫡男である義興と同格レベルの扱いを受けていたとされています。
この頃には既に、大和国一帯を収めることになっていた久秀は、畿内を手中に収めるべく各地へ侵攻を開始。この時期は三好家の衰えと重なっており、次第に久秀は家中における勢力も強めていくことになりましたが、意外にもこの頃の彼は、三好家を継いだ長慶の甥・三好吉継を忠実に支え続けたことが記録されています。
そして1565年。久秀の息子である久通と三好義継、三好家の重鎮である三好三人衆が永禄の変を起こし、足利義輝を暗殺。この事件の黒幕は久秀だと言われることもありますが、その真相は謎に包まれています。
そしてこの事件を皮切りに久秀と三人衆の対立は次第に深まりをみせることに。彼らの対立を示す代表的な戦としては東大寺大仏殿の戦いが挙げられ、その対立は次第に泥沼化していったようです。
そしてその後、織田信長が足利義昭を伴って上洛したことで、三好三人衆は京都から駆逐されることに。久秀は信長と同盟を結び、以降は大和一国を治める武将として、織田家の躍進に伴う様々な戦に参戦した記録が残っています。
しかし1570年以降、信長包囲網が形成されていく中で彼は次第に反信長派へ転向。1572年には反信長の意思を明確にして彼に戦を挑みますがこれに敗北。しかしその謀反はどういうわけか許され、彼は再び信長に仕えることになりました。
しかし1577年に、かれは本願寺などと通じる形で再び織田家に反旗を翻すことに。彼は理由を問いただそうと送られた織田家の使者を突っぱねて交戦をしますが、織田の大軍による包囲戦に敗北。これによって敗北を悟った久秀は、息子である久通と共に天守で自害して果てたと伝わっています。
松永久秀の出自
「悪党」や「成り上がり者」の代名詞として語られることの多い松永久秀ですが、実は彼がどのような出自の人物であるかは、現在も明確にわかっているわけではありません。
彼の出身地一つとっても、阿波国という説、山城国西岡の商人出身という説、摂津国五百住の土豪の出身という説などが混在しており、久秀がどのような経緯を経て三好長慶に仕えることになったのかについても、実は何一つとして実情がわかっていないのが現状です。
また、彼が仕えた三好家の人事の特殊性も、その出身の掴みにくさに拍車をかけている所があり、松永久秀という人物の存在は、彼自身の名跡だけでなく三好家事態にも多くの謎を残す結果を生んでいると言えるでしょう。
記録に残る松永久秀の性格
そのエピソードの濃さから、多くの記録に描かれる松永久秀ですが、様々な記録に描かれるその性格は、悪人としてのイメージはそのままに、しかし同時に非常に多面的だと言えるでしょう。
『備前老人物語』においては、信長から「信用ならない男」と評される一方で、自身の死に際を弁えたようなさっぱりとした人物として描かれている一方で、別の記録では「年貢を治めなかった農民に生きたまま火をつけ、その様子を見て爆笑した」などの残虐なエピソードも残されています。
ルイス・フロイスの『日本史』では「腕利きで優秀だが、その分狡猾で欲深い」と恐れ交じりに記され、『足利季世記』では「文武両道の優秀な男だが、ケチな性分で欲深い」と評されるなど、かなり多くの媒体で松永久秀の人物像は記録されています。
それらの情報を総合するに、久秀は「実務においては優秀な人物だが、心根としては信用できない強欲な人物」として評価されていたようです。様々な立場からの見え方こそあれど、結局「信用できない」と言う部分が揺らがない辺りも、松永久秀の特殊性だと言えるでしょう。
梟雄(きょうゆう)の人間関係
残る記録資料からは「信頼を置いてはならない者」「武将として高い才覚を持つが、その分危険な男」等の評価を受けている久秀ですが、その高い能力や数多く残る記録からも分かる通り、多くの人物と交流をしていたことも分かっています。
とりわけ、室町幕府十三代将軍である足利義輝とは、当初こそ敵対していたものの、義輝の京都復帰後は非常に親密な間柄になっていたことがわかっています。
義輝は久秀に官位を授けるなど、その才覚を非常に高く買っていたらしく、久秀が躍進して言った理由の中に義輝からの寵愛があったことは、疑う余地もないことでしょう。
また、義輝亡き後は織田信長との交流も盛んだったと伝わっています。
多くの名物茶器を収集していた久秀は、信長との交渉の際にその名物を材料として用いるなどの交渉術を展開。名品珍品や新しい物好みの信長にとって、その戦術は大いにハマったらしく、信長は久秀の一度目の謀反を許したあげく、信貴山城の戦いが勃発した際も「久秀が持っている茶釜・古天明平蜘蛛を差し出すなら許そう」と考えていた節すらあったようです。
とはいえ、足利義輝や織田信長との関係性がどのようになったかは、先述のハイライトを見ていただければお判りいただけるかと思います。如何に久秀を信用し、高い評価をしようとも、結局松永久秀と言う人物が「信用ならない人物である」ということに違いはありません。
文化人にして大悪党と言う多面的な人間性
先のトピックでも少しだけ触れましたが、久秀は悪党としてのイメージが強い一方で、非常に優れた文化的知見を持っていたことも分かっています。
とりわけ茶道の分野では、「わび茶」の概念を決定づけた武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事していたことが伝わっているほか、古天明平蜘蛛や九十九髪茄子などの名物茶器を所持していたことも分かっており、そのような知見は公家層からも一目置かれるものだったようです。
他にも「不動国行」に代表される名刀もいくつかコレクションしていたと思われており、そのような多くの茶器や名刀を用いて交渉に臨むなど、趣味と実益を兼ねた名品の使い方をする、賄賂のような中々にあくどい交渉の記録も残っています。
ともかく、悪党のイメージの強い松永久秀ではありますが、彼は決して子悪党めいた人物ではなく、むしろ文化的な知見を兼ね備えたインテリ系の人物だったことも忘れてはなりません。
松永久秀の行った「三悪事」とは?
久秀に”悪”というイメージを浸透させるきっかけとなったのは、『常山紀談』で信長が語ったとされる「久秀の三悪事」でしょう。
この三悪事というのは、「三好家の乗っ取り、永禄の変(将軍・足利義輝の暗殺)、東大寺大仏殿への放火」の事を指す行いであり、この三つを信長が「三悪事」と評した記録があることから、「久秀=悪人」というイメージが形作られるきっかけになったと思われます。
しかしこの悪事について、信長は咎める意味で語ったわけではないようです。というのも、信長自身も「主君であった織田信友を殺して当主に上り詰め、将軍・足利義昭を追放し、比叡山を焼き討ちにする」と、久秀の行いとほぼ同じ行いをしています。
そのため、信長は久秀を悪人と見ていたというよりは、自分と似た存在――見込みのある有力な武将として見ていたと考えた方が、記録としての理にはかなっているように筆者には思えます。