松永久秀とはどんな人?生涯・年表まとめ【信長や光秀との関係も紹介】

松永久秀の年表

1508年 – 0歳「後の大悪党、この世に生を受ける」

久秀の出生はほとんど謎に包まれ、
明確なことは分かっていない。

松永久秀の誕生

1508年という戦国時代中期の情勢下に、松永久秀は生を受けたと記録されています。

とはいえ、幼少期の彼についての記録は残っておらず、幼名はおろか出身地すら、阿波国という説や山城国西岡の商人出身という説、摂津国五百住の土豪出身という説が混在しており、明確な久秀の出自は現在も分かっていません。

とはいえ、現在の通説としては摂津国五百住の土豪出身という説が、一応の通説として語られることが多くなっています。とはいえこれも、阿波国説と山城国説に無理が生じたことによる繰り上がりの部分が大きいため、現在も久秀の出身地については議論と調査が行われているような状況となっています。

1540年 – 32歳「資料に名前が登場し始める」

三好長慶は能力重視の人事を行うことでも有名で、そのこともあって久秀は取りたてられたとされる。

三好長慶の右筆として仕える

この年ごろになって初めて、松永久秀の名前が一次資料に登場するようになってきます。

とはいえ、彼の名前は合戦の記録ではなく事務方としての書類発行などに見られ、この頃の久秀は武将と言うよりは事務方の立ち位置として、三好長慶に仕えていたようです。

とはいえ、久秀の名前で発行されている文書もこの頃になると多く見られるため、遅くとも1540年ごろの久秀は、三好長慶の配下の中でも奉行レベルの役職にはついていたと考えられています。

1542年 – 34歳「武将としての活躍が記録され始める」

三好軍の指揮官として出陣した記録が残る

官僚としての立ち位置が多かった久秀ですが、この年には木沢長政の討伐後も抵抗を続ける大和国人の残党との戦いに、指揮官として出陣していたという記録が残っています。

しかし、ここでは目立った活躍の記録は残っておらず、松永久秀と言う人物が台頭を始めるのは、まだ少し先の話となりました。

1549年 – 41歳「三好政権の樹立」

主君と共に京都入りを果たした久秀は、
官僚として頭角を現し始める。

京都に三好政権が樹立される

この年、三好長慶は細川晴元や足利義輝を京都から追放。自身で京都を支配する、いわゆる「三好政権」を樹立することになります。

久秀もまた、主君に伴って京都へ上り、重鎮である三好長逸(みよしながやす)と共に、京都の公家や自社との折衝役として活動を開始しました。

この頃の久秀は、三好政権への移行に伴う公家や寺社間のトラブルの仲裁文書に多く名を残し、多くの公家や寺社とのパイプを作ることに成功。この功績によって三好政権下での宰相に任じられるなど、41歳という遅咲きながら、彼はようやく時代の頭角を現していくこととなりました。

1551年~1558年頃 – 43歳~50歳「京都付近での戦いの日々」

現在の相国寺。三好政権下の京都では、この場所も主戦場の一つとなってしまった。

1551年、相国寺の戦い

貴族や寺社との折衝役を任されつつ、久秀は他の有力武将と共に京都防衛の戦にも参戦。1551年の相国寺の戦いでは、等持院に攻め込んできた細川方の武将を打ち破る活躍を上げています。

しかしこの戦いに伴って火災が発生し、相国寺の伽藍や塔が焼失するという事態にも発展。両軍の方かが原因とされる事故ではありますが、この頃から神仏を軽視しがちな久秀の形質が表れていたとも言えるでしょう。

三好政権下における地位を高めていく

武将としても官僚としても有能さを発揮していく久秀は、1553年には摂津滝山城の城主に任じられることになります。1555年には書状に「足利義輝が京都を追放されたのは天罰である」と記しており、三好政権に対する忠誠を表しています。

さらに、時期は定かではありませんが弾正忠への任官。1556年には奉行衆への任命を受けるなど、彼は三好政権における重鎮として、着々と出世を続けていくこととなりました。

1558年 – 50歳「三好氏と足利氏の和睦が成立」

足利義輝が京都に帰参。彼との交流が久秀のターニングポイントの一つとなった。

足利義輝が京都に帰参

この年、三好氏と足利氏の和睦が成立したことで、将軍・足利義輝が京都に帰参。これに伴って久秀は京都を後にし、摂津国に戻ることとなりました。

しかし、京都の最高権力が足利家に戻ったとはいえ、三好家の権力は未だに残っており、その重鎮となっていた久秀も同様に、幕政への関与や公家層との交流を続けていたようです。

1560年 – 52歳「大和国統一と、御供衆への任官」

着々と出世街道を登っていく久秀。
この頃の彼は三好家中においてもまさに「筆頭」だった。

大和国を統一する

前年の1559年に、長年小競り合いを繰り返してきた筒井順慶を大和国から駆逐した三好軍。

そしてこの年、久秀は三好家に対する抵抗を続ける興福寺を破ったことで、見事に大和国統一を成し遂げることとなりました。

御供衆への任命

また、官僚的な有能さを高く評価された久秀は、この年には足利義輝より御供衆への任命と、弾正少弼への任官を受けることになりました。また、この頃より久秀は、古代の官職名である「霜台」という通称を名乗るようになっていたことが記録されています。

御供衆への任命は、主君である三好長慶の嫡男・三好義興と同格の扱いであり、この頃の久秀の権勢が、三好家内部においても屈指の者であったことの証明ともなっています。

信貴山城へ転居し、天守を造営する

武将としても官僚としても、三好家中の筆頭となった久秀は、未だ小競り合いが続いていた大和国北部を数か月で平定。

その後は自身の居城を、大和国北西の信貴山城へと移し、城に天守を造営し始めました。彼はこの際「多聞作り」という建築方法を創始し、後の城郭建築に大きく影響を与えたとされています。

1561年 – 53歳「三好、足利両氏から絶大な信頼を受けていた記録が残る」

桐紋の使用許可は、将軍家からの絶大な信頼を示す最上位のステータスだった。

将軍家から絶大な信頼を受ける

この年の2月、久秀は立て続けに、桐紋と塗輿の使用許可や従四位下への昇進を決定され、幕府から絶大な信頼を得ていたことが記録されています。

特に桐紋と塗輿の使用許可は、主君である三好長慶と実質的な同格としての扱いであり、この頃の久秀は三好家の家臣としてだけでなく、幕臣として京都に赴いて仕事を行う機会も目に見えて増えていました。

三好家が足利義輝を歓待する際の宴では、久秀は幕臣の立場として宴に参加しており、その立場が非常に複雑でありながら、強い信頼を得ていたことがわかります。

三好家からの絶大な信頼

三好長慶の銅像。将軍家からは彼と同格に扱われた久秀だが、彼自身はあくまで家臣としての立場を貫き通した。

そのように将軍家から厚い信頼を得ていた久秀ですが、同時に主家である三好家からも絶大な信頼を得ていました。

この頃の久秀は、主君である三好長慶と同居することを許された側近として扱われており、六角氏への対応に当たっては、三好軍の主力部隊を率いることを許されるほど、その信頼が絶大だったことも記録されているようです。

また、この頃の久秀は「ほぼ大名」と呼べるほどの勢力を誇っていましたが、あくまで三好家の家臣と言う立場は崩すことがなく、記録上久秀が下剋上を行って成り上がったという記録はありません。

主君と同格レベルまで出世し、二つの勢力を行き来する形の記録が残っていることが、「松永久秀が下剋上で三好家の実験を奪った」という後世のイメージの発端となっていると言えるのではないでしょうか。

1564年 – 56歳「三好家重鎮の代変わり。そして梟雄としての目覚め…?」

主君の死と共に、久秀の”悪”の側面が目覚め始める…?

三好家全体の変革

六角氏との小競り合いが絶えない中で、この頃の三好長慶には立て続けに不幸が襲い掛かることとなりました。

弟の十河一存(そごうかずまさ)、三好実休(みよしじっきゅう)、嫡男・三好義興が相次いで死去。更にこれまでの三好政権を支えてきた重鎮たちも相次いで死去し、三好家の隆盛を支えてきた者は、もはや久秀しかいないような状況となっていました。

そしてそんな中、三好長慶も死去。これに伴って久秀は、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)らと共に長慶の甥である三好義継を当主として支えていくことになりました。

”梟雄・松永久秀”の目覚め…?

この時期になってくると、久秀には様々な黒い噂が流れ始めます。

例えば、十河一存、三好義興の死は久秀の陰謀であるという説などは、彼が「下剋上の代名詞」として語られるにあたって、よく耳にする風説でしょう。

公的な記録としては、一存の死因は落馬、義興は病死とされており、弟と嫡子を失って傷心する長慶に、久秀は改めて忠誠を誓ったとされていますが、この後の久秀の行動を見るに、その真相は藪の中だと言わざるを得ません。

1 2 3 4

コメントを残す