松永久秀とはどんな人?生涯・年表まとめ【信長や光秀との関係も紹介】

1565年 – 57歳「将軍暗殺。そして三好家動乱」

永禄の変による将軍暗殺。
久秀はこの事件に関わっていたのか…?

永禄の変、勃発

5月、久秀の息子である松永久通と三好義継、三好三人衆が軍勢を率いて京都に攻め上り、足利義輝を襲撃して殺害するという永禄の変が勃発することになりました。

久秀自身は実行犯としてこの大乱には関わっていませんでしたが、悪党のイメージ故か「彼が全ての糸を引いていた黒幕である」という説も根強く主張され、真相そのものは現在も分かっていません。

現在の通説としては、久秀自身は将軍暗殺には消極的だったとされていますが、三好三人衆の計画に反発した形跡が少ないことから、「積極的に計画にはかかわらないが、暗殺そのものは容認していた」とされています。

三好家中を二分する内乱

8月ごろになると、三好家中で畿内の主導権争いが勃発。これにより三好家中の有力勢力である三好三人衆と久秀は断交することになり、家中は実質的な内乱状態に陥ってしまいました。

この内乱状態は数年にわたって続き、これによって栄華を極めていた三好家の勢力は、着々と没落していくことになってしまうのです。

1566年 – 58歳「孤立する松永久秀」

三好家中での孤立と、続く劣勢

三好家中での内乱は三人衆が有利に運び、久秀は将軍から追討令が出されるなど、渦中で完全に孤立することになってしまいました。

なんとか勢力を挽回しようと、畠山氏と組んで多くの戦を行った久秀でしたが、数で勝る三好軍に勝ることができず連続で敗戦。これによって多くの居城を失った久秀は、この年の5月から数か月間、記録上から完全に姿を消しています。

1567年 – 59歳「大仏殿、炎上」

大仏殿の炎上と言う大事件。しかしその真相は謎に包まれたままとなっている。

東大寺大仏殿の戦い

常に劣勢に立たされていた久秀ですが、この年に三好家の当主である三好吉継が、三人衆の暴政を見逃すことができず、久秀を頼って出奔してくるという事態が起こります。

これによって大義名分を得た久秀は、勢力を盛り返してから三好三人衆の軍勢と対峙。10月に、三人衆の軍が陣を布く東大寺への奇襲に成功し、見事に畿内の主導権を奪い返すことに成功しました。

しかし、この時の戦火によって東大寺の大仏が焼失。この火災については、放火なのか失火なのかすら明らかになっておらず、「放火である」と断じている資料においても「松永方が放った」「三好方が放った」と主張が分かれることとなっています。

とはいえ、彼らの戦いによって大仏が焼失したことには違いなく、このエピソードもまた、久秀の悪人としてのイメージを決定づけるものとして語り継がれています。

1568年 – 60歳「織田信長の上洛」

織田信長の上洛により、追い詰められた久秀は九死に一生を得ることになった。

信長の上洛に伴い、内乱が決着

大仏殿の戦い以後も小競り合いを繰り返していた松永軍と三好軍ですが、この年には織田信長が上洛。居城である信貴山城を落とされるほど追い込まれていた久秀ですが、彼はこの上洛によって救われることとなりました。

新たな将軍として足利義昭を擁立した信長に臣従した久秀は、有力な幕臣として大和国の支配を認められることに。それと同時に、信長に抵抗した三好三人衆が京都から駆逐されたため、久秀はこの内乱において、見事な逆転勝利を見せたと言えるでしょう。

また、久秀は信長に臣従する際に、名器である「九十九髪茄子」を進呈したとされており、信長はその目利きを高く評価していたようです。

再びの大和国平定

大和国の支配権を認められた久秀でしたが、三好家の内乱の最中に、そのほとんどは筒井順慶に奪い返されてしまっていました。

そのような劣勢の状況でしたが、久秀は信長から送られた佐久間信盛、細川藤孝、和田惟政ら2万の軍勢と協力して大和平定のために戦を行なっていくことに。

この平定のための戦は1569年まで続き、精強な織田軍との戦によって、筒井順慶は次第に没落していくことになります。

1571年~1573年 – 63歳~65歳「信長への一度目の謀反」

久秀を信長包囲網に引き込んだのは、足利義昭と武田信玄だと言われている。
出典:Wikipedia

足利義昭、武田信玄との内通

織田家の躍進と共に信長包囲網が形成されていく情勢下、久秀は表向きは信長の臣下として振る舞いつつも、次第にその反意を見え隠れさせ始めます。この頃には、反信長派の中核である武田信玄とも書状のやり取りをしていた記録が残されています。

そして1572年、久秀はいよいよ信長への反意を明確にし、三好三人衆や三好吉継と同盟を結ぶ形で信長に謀反を起こすことになるのです。

謀反を起こすが、しかし…

こうして信長に謀反を起こした久秀ですが、包囲網の最有力勢力だった武田家が、信玄の病死によって西進を中止して撤兵。その後も足利義昭の追放や、三好吉継の敗死などが重なり、包囲網は完全に瓦解することになってしまいました。

こうして久秀もまた、1573年の年末には信長に居城を明け渡して降伏。徹底抗戦を行った三好三人衆も敗退して壊滅することとなりました。

しかしどういうわけか、この一度目の謀反について、信長が久秀に与えた咎めは軽く、以降の久秀は石山本願寺攻めに織田方の武将として従軍するも、さほどの活躍の記録を残していません。

1577年 – 68歳「信貴山城にて”平蜘蛛”と共に散る」

焼失した信貴山城の場所には、現在はこの石碑だけが残っている。

再びの謀反

一度目の謀反以後、目立った活躍を見せなかった久秀でしたが、この年の本願寺攻めの最中、上杉謙信や毛利輝元に通じて戦場を勝手に離脱。再び信長との敵対体制を明確にしました。

この時の謀反の理由は、信長にも全く理解できなかったようで、彼は久秀の居城である信貴山城に向けて使者を派遣し、理由を問いただそうとしたことが記録されています。

しかし久秀は使者に会うことなく追い返し、信貴山城に立てこもって信長との交戦を行ないました。

信貴山城の戦い

戦の流れを決したのは、
鉄砲隊による裏切りだった。

上杉謙信や本願寺の顕如からの援軍を見越して、信長と交戦する久秀でしたが、手取川で勝利したはずの上杉軍が何故か進軍を止め、一気に窮地に立たされることとなります。

堅牢でこそあれ、兵の数や練度で勝る織田軍によって着々と追い詰められていく久秀ですが、当初の戦いでは多くの犠牲を出しつつも勝利。しかし、このままでは戦えないと要請した援軍の鉄砲隊200人が、久秀の命脈を断つこととなりました。

鉄砲隊の援軍を要請しに向かった使者は、実は織田方と通じていたのです。そのため、援軍として城内に侵入した200人の鉄砲隊は、城に侵入するや否や伏兵として工作活動を開始。この工作活動に乗じて織田軍は信貴山城に攻め掛かり、やがて天守付近からは火の手が上がり始めてしまいました。

最愛のコレクション・古天明平蜘蛛と共に散る

炎に巻かれる中で自害した松永久秀。辞世の句なども残っておらず、その最期の様子は知ることができない。

鉄砲隊の裏切りによって、もはや勝ち目を失った久秀は、自害に際して自分の頭にお灸を据えると、「古天明平蜘蛛を城外に出すように」という織田軍からの申し出を拒絶。

「平蜘蛛の釜と我らの首の2つは、信長公にお目にかけようとは思わぬ。鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」と返答した久秀は、言葉通りに平蜘蛛を破壊。その後に自ら天守に火をつけ、その炎の中で自害して果てたと伝わっています。

享年は68歳。「大悪人」「梟雄」として多くの人物から警戒され、多くの寺社を灰に変えた久秀が、裏切りによって、しかも炎の中で命脈を断たれるという、何とも皮肉な最期でした。

松永久秀の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

松永弾正久秀 梟雄と称された知謀の将

松永久秀と言う人物から見た世界観を解説した、「松永久秀入門」とも言うべき一冊です。

イメージとして「悪人」という部分が大きい人物ですが、戦国時代という時代の特殊性等から、彼は本当に悪だったのか。そんなある種初歩的な部分を問い直してくれる一冊であると思います。

松永久秀と下剋上:室町の身分秩序を覆す (中世から近世へ)

「悪人」としての久秀だけでなく、「有能な官僚」としての久秀のイメージを中心に据えて書かれている一冊です。

裏切り者や悪党ではなく、身分秩序への改革者としての久秀のイメージが描かれているため、現状の松永久秀のイメージに疑問を抱く方にこそ読んでほしい一冊でしょう。

おすすめのゲーム

戦国BASARA4 皇

歴史好きの間では物議をかもしている、ぶっ飛んだゲーム作品です。イメージ通りの「純粋な悪人」としての久秀のイメージを、非常に色濃く描いている作品でもあります。

史実とはかけ離れた歴史観が展開される作品ですが、セリフの端々やストーリー中での行動などに史実らしさが表れ、実は歴史を知っているほど楽しめるゲームとなっています。歴史好きの方にこそ、食わず嫌いをせずぜひ一度プレイしてみてほしい作品です。

関連外部リンク

松永久秀についてのまとめ

非常に濃い人物やエピソードの多い戦国時代の中でも、とりわけ濃い人物像とエピソードを持つ松永久秀。

悪党、下剋上の代名詞、梟雄など、様々なあくどいイメージで語られる彼ですが、史実を調べていくと意外と忠義に篤かったり、悪人としてのエピソードも誇張された部分が多かったりと、ある意味後世のイメージに翻弄されている人物と言う印象を受けました。

とはいえ、戦国時代を駆け抜けた「大悪人」というイメージは、やはり鮮烈で拭い難いもの。史実としては様々な真実を明らかにしてほしい気もしますが、歴史ロマンが好きな筆者としては、このままのイメージでいてほしいような、少しばかり複雑な気分になる人物でした。

それでは、この記事におつきあいいただきまして、誠にありがとうございました。この記事が皆さまにとって、何かの学びとなっていましたら幸いに思います。

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