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奈良時代はどんな時代?歴史と年表まとめ【平城京や政変、人物、特徴も紹介】

「奈良時代はどんな時代なの?」
「奈良時代の主な出来事や歴史の流れを知りたい」

と思っている人も多いでしょう。

奈良時代とは飛鳥時代のあと、奈良(平城京)が首都になった時代を指します。奈良時代は飛鳥時代後半から進めてきた、天皇を中心とした中央集権体制の律令国家を本格的にスタートさせて日本国家を形成した時代です。

奈良時代の象徴「平城京」の朱雀門

そんな奈良時代には鎮護国家を願い、仏教興隆も進めます。そして政治スタイルや文化に唐(中国)風を取り入れていたため、異国情緒に彩られた時代でもありました。

この記事では、日本国家が形成された奈良時代の歴史や特徴、出来事を追いつつ、人々の暮らしや活躍した人物などにもスポットをあててご紹介いたします。

奈良時代とはどんな時代だった?

奈良時代はいつからいつまで?

復元された平城宮大極殿

奈良時代は、都が奈良・平城京が置かれた710年から、京都・平安京にうつった794年までの約85年間を指します。この間、途中の数年間と最後の10年間を除いて奈良(平城京)が首都だったため、平城時代とも呼ばれました。

奈良時代は、元明天皇から桓武天皇まで7人の天皇8代(孝謙天皇が称徳天皇として重祚)が国を治めます。そして唐の律令政治にならい、天皇を中心とした中央集権体制の律令国家が実施されました。

奈良時代はどうはじまったのか?

わずか10数年の都だった藤原京

奈良時代は710年、元明天皇が飛鳥の藤原京から遷都して始まりました。

707年に遷都の審議が始まり、翌年遷都の詔を出して710年に飛鳥の藤原京から平城京にうつっています。あわただしい遷都だったためか、平城京に入った時には設備が整っておらず、このあとも造営が続きました。

平城京の前の藤原京は、永久の都として694年に完成した都でしたが、わずか10数年で平城京にうつることになりました。遷都の理由としては藤原京が手狭になったため、あるいはモデルにした中国・唐の長安をより忠実に模したためともいわれてきました。

一方で当時、政権のトップにいた藤原不比等(ふじわらのふひと)の意向が働いたという説もあります。不比等は天皇の外祖父になり、権力を独占しようと考えていました。そのために豪族や皇族たちが古来より勢力をもつ飛鳥を離れたかったようです。

藤原宮跡。藤原京は現在の奈良県橿原市あたり

そんな奈良時代は元明天皇という女帝からスタートしました。これは天武・持統両天皇の直系である文武天皇が若くして早世し、その遺児・首皇子(おびとのみこ)が幼かったため、その成長までのつなぎとして文武天皇の母である元明天皇が即位したためです。

この首皇子は不比等の孫でもありました。元明天皇、不比等はともに首皇子の即位を実現するためにも、他の豪族や皇族の勢力を排除したかったでしょう。こうした思惑のもと、平城京はスタートしました。

奈良時代の中心地であった「平城京」

平城京の模型

新しい都・奈良は背後と左右に山と丘を控え、前面には平地が広がり、奈良盆地を見渡せる地でした。平城京はその場所で、中国・唐の都、長安をモデルに造営されたと言われています。

その規模は南北約4.8㎞、東西約4.3㎞で、中央には南北に朱雀大路が通り、北端に平城宮がおかれました。さらに東側には張り出すようにして外京が付属していました。これは中央に宮があり、長方形だった藤原京とは形態が異なっています。

都市は碁盤の目のように区画されており、貴族の邸宅や庶民の家のほか、大寺院もいくつか配されました。平城京の住民の数についてはさまざまな説がありますが、天皇、貴族から庶民まで10万人前が暮らしたとされています。

奈良には「あおによし」という枕詞があります。これは青丹よしと書き、現在の緑青色と朱色を意味するものです。奈良は青緑の連子窓や瓦、白壁に朱色の柱に彩られた宮や寺社が並ぶ極彩色の都でした。

奈良時代の主な出来事

大宝律令に基づいた律令国家へ

大宝律令17巻の編纂が完了したことを伝えている

奈良時代は聖武天皇とその娘、孝謙天皇を中心に、大宝律令に基づいた国づくりが進められました。

奈良時代の始まる直前の701年、刑部親王(おさかべしんのう)や藤原不比等らによって日本で初めての本格的な律令となる大宝律令が制定されます。律は刑罰法、令は行政法です。つまり大宝律令は国を治めるための基本法にあたります。

このように律令の下で国を治める法治国家体制を「律令国家」と呼びました。

大宝律令では中央官庁の組織として行政担当の太政官と神祇担当の神祇官がもうけられています。太政官は太政大臣、左大臣、右大臣、大納言などの役職があり、その下に官僚機構となる8つの省(中務、式部、治部、民部、大蔵、刑部、宮内、兵部)がおかれ、2官8省制となりました。現在でいえば太政官が内閣、省が各省庁にあたります。

また、地方行政も整備し国、郡、里を定め、国を統括する国司を都から派遣しました。こうして本格的な中央集権体制が成立したのです。律令制の人民支配の根本は、人と土地は国のものという公地公民制でした。人々に口分田と呼ばれる一定の土地を支給し、代わりに租庸調といった税を課したのです。

和同開珎による貨幣流通へ

和同開珎

奈良時代の直前の708年に唐の「開元通宝」をモデルに和同開珎(わどうかいちん)と呼ばれる銅銭が鋳造されました。円形で中央に正方形の穴があり、表面に「和同開珎」と記された銭です。和同は調和、開珎は初めてのお金という意味とみなされています。

和同開珎はかつて日本最古の鋳造貨幣とされていましたが、いまではこれより古い貨幣が発見されています。ただし和同開珎は日本初の本格的な流通貨幣を目指した銭だったようです。

和同開珎は、平城京の費用をまかなう目的で鋳造されました。和同開珎1枚が平城京造営の人足1日分の日当として支払われ、当初はこの1枚で米2㎏を購入できたといいます。

また、流通貨幣をもつことは物の統一の価値観をもたらすことにつながり、律令国家には必要なアイテムでした。朝廷はこの和同開珎を広く流通させようと、田畑の売買に銭の使用を強制したり、銭を蓄えた者には位階を与えたり様々な策を講じます。しかし庶民は銭に価値を見出すことができず、一部の流通にとどまりました。

大仏造立など仏教興隆

大仏が安置された東大寺

奈良時代、仏教で国を安定させるという鎮護国家の思想のもと、仏教は国家の保護を受けて発展しました。多くの寺院が建立され、薬師寺、大安寺、元興寺(飛鳥寺)、興福寺、東大寺、西大寺、法隆寺はのちに南都七大寺と呼ばれます。

寺院では南都6宗と呼ばれる6つの仏教学派が生まれました。ただし当時の仏教は、個人を救うための宗教ではなく、あくまでも国家の安寧を願う国家仏教でした。

なかでも仏教に深く帰依し、仏教興隆につとめたのが聖武天皇です。聖武天皇の在位した時代、天然痘の流行や自然災害、政争と世の中は不安定でした。そこで天皇は仏教で国家を安定させる鎮護国家を願い、741年には各国に国分寺と国分尼寺を造ることを命じます。これは奈良時代末期までにほぼ実現されました。

東大寺の大仏

さらに聖武天皇は、743年に金銅の大仏建立を発願します。巨大な大仏をつくるため、溶かした銅を型に流しいれる鋳造の作業だけで足かけ3年かけて計8回おこなわれたほどの大事業でした。そして頭部が完成した752年、開眼供養が行われます。

これが東大寺に今も安置されている廬舎那仏(るしゃなぶつ)の原型です。大半が後世の再建ですが、台座の一部分に当時のものが残されています。

さまざまな政変・事件が起きた

長屋王の変

悲劇の王・長屋王の墓

奈良時代の政治の特徴は藤原氏の台頭です。藤原不比等は文武天皇、続いて聖武天皇に娘を嫁がせ、天皇の外戚となることで勢力を伸ばします。

その結果、天武天皇から続いてきた天皇を中心とする皇族支配の体制が、藤原氏の権力独占へと大きく変わりました。この過程で旧勢力の皇族との間に熾烈な政争が生まれ、数々の政変や事件が起きます。

そのなかでも最も時代を象徴するのが長屋王の変です。

長屋王の変は729年、当時政権の主導者だった長屋王が謀反の疑いをかけられて兵に屋敷を包囲され、妻子ともども自害した事件です。これは藤原氏による政治的陰謀とみなされています。

720年に藤原不比等が亡くなった後、その4人の息子たち(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)は、権力拡大をもくろみ、姉妹である聖武天皇妃の光明子を皇后に格上げしようと画策します。そのため反対派である長屋王を葬り去ったのです。

この事件の後、光明子は皇后になります。そして長屋王なきあとの政界の中心に藤原氏が躍り出て権力を独占しました。

藤原仲麻呂の乱

幕末の絵師・月岡芳年が描いた
藤原仲麻呂の乱の一場面

長屋王のあと、政権は藤原不比等の4人の息子→橘諸兄→藤原仲麻呂と移り変わります。藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の子・藤原仲麻呂は、おばの光明皇后の引き立てで孝謙天皇、次の淳仁天皇(じゅんにんてんのう)の時代に絶大な権力を誇りました。

しかし、やがて孝謙上皇と対立。764年これに危機感を覚えた仲麻呂は権力奪回を図り蜂起しましたが、朝廷軍に追い詰められ、斬首されました。

この結果、孝謙天皇に寵愛された僧の道鏡が権力を独占します。藤原氏は一時衰退したかに見えますが、孝謙天皇の死後、再び盛り返していきます。

奈良時代の政治・経済

行き詰まる公地公民制「墾田永年私財法」制定

公地公民から私有地容認へ

奈良時代は大宝律令のもと、律令にのっとった中央集権体制が敷かれました。中央には太政官の下、2官8省の官僚制度が置かれ、各国には中央から国司が派遣され、現地有力者の郡司などを使い支配しました。

支配の基本はすべての土地を国の物と定め、それを人民に口分田として支給し、代わりに租庸調の税を取り立てる仕組みです。6歳以上の男子に2段、女子にはその3分の2の口分田が支給されました。この班田収授法により、朝廷は効率的に税収入を得ることができ、農民も最低限の生活を保証されたわけです。

しかしじきに公地公民制は行き詰まります。人民に支給する口分田が不足する一方で、重税の負担に耐えかねた農民たちが土地から逃げ出すようになったのです。

この頃の税「祖」はコメのこと

そこで朝廷は722年に「三世一身の法」(開墾した土地を3世代のみ所有を認める)、さらに743年には開墾した土地の私物化を認める「墾田永年私財法」を出して開墾を奨励します。

もちろん一定の税は課しますが、働けばそれだけ収穫が増え、新しく開墾した土地は自分の物になるため、農民たちの労働意欲も高まると考えたのです。ただこれは公地公民制という律令体制の根幹を覆す一大転換でした。

この法律によって寺社や貴族らの土地の開墾が進みます。そして彼らは広大な土地を所有するようになり、のちに荘園へと発展することになりました。

遣唐使が盛んだった対外関係

航海は命がけだった遣唐使

奈良時代の対外関係は唐を中心に展開します。唐の律令制度を基本にした日本は唐の都の形態、制度、衣装など唐風を取り入れました。こうした情報を入手するために、702年には遣唐使を約30年ぶりに復活。奈良時代に入っても15~20年周期で遣唐使を派遣しています。

そして、唐の進んだ文化や法制、儀礼を学んで帰国した留学生らが日本で活躍しました。とくに吉備真備(きびのまきび)と玄昉(げんぼう)は政界の中枢に参画し重要な役割を果たしています。

また、唐の都長安は国際都市として栄え、シルクロードを経由して西域の文物が多く運ばれていた地域でした。日本にも唐を通じて楽器や陶器など国際色豊かな品々がもたらされ、今では正倉院におさめられています。

碁盤の目状の都市計画も長安に由来する

一方、朝鮮半島の新羅(しらぎ/しんら)とは再び緊張関係に入っていました。新羅が唐と結び、日本との朝貢関係を解消しようとしたためです。日本は各地に兵士などを挑発する節度使を置いて、一時は新羅遠征を計画するなど一触即発になりました。

さらに新羅をけん制するために、中国東北部に新しくできた渤海(ぼっかい)と交流を深めます。渤海から高級毛皮やはちみつ、人参など貴重な品々がもたらされました。

奈良時代の文化

仏教を中心とした文化

鑑真が創建した唐招提寺。金堂は奈良時代の建物

奈良時代は平城京を中心に天平文化が花開き、聖武天皇の頃に最盛期を迎えます。

天平文化は鎮護国家の思想に基づいて、仏教建築や仏教美術などの仏教色が強いこと、唐(中国)の影響を受けてインドやペルシアなどの影響を受けた豊かな国際色が特徴です。

建築は均整のとれた美しさを見せ、唐招提寺金堂、校倉造の正倉院、法隆寺夢殿、東大寺法華堂などの建築が有名です。また、仏像は豊かな表情のものが多く、興福寺の阿修羅像、東大寺の廬舎那仏などがつくられました。

国史編さんと万葉集

元歴校本万葉集

奈良時代は律令国家の成立に伴い国家というものが意識されたため、国の歴史をまとめた国史編さんも行われるようになります。

飛鳥時代から始まっていた『古事記』は712年、『日本書紀』は720年に完成し、地方の特産や地理、伝説などをまとめた『風土記』の編さんが各地方に命じられました。これは現在でも5つの国の風土記が残されていますが、完本として残るのが島根県の『出雲国風土記』です。

また、日本最古の歌集とされる『万葉集』も成立しました。これは8世紀後半、大伴家持によってまとめられたとされます。その数は天皇から無名の庶民、さらによみ人しらずの歌も含めて7~8世紀に読まれた約4500首。その多種多様な内容が特徴です。

このように、奈良時代は国際色豊かな一方で、日本的な文化も着目された時代でした。

奈良時代の人々の暮らし

貴族は広大な敷地で華やかな暮らしをしていた

貴族の屋敷・長屋王邸宅復元模型

当時の生活は身分によって全く違います。貴族は豪華で華やかな暮らしをしていました。

平城京の貴族は、広大な敷地に建てられた屋敷を住居としました。位によって敷地は違いますが、長屋王の場合は6万平方メートル以上の敷地があったようです。建物は赤い柱に白い壁の立派な造りで、一部の貴族の邸宅には瓦もふかれていました。

また、衣服については衣服令が定められていて、貴族が重要な儀式に着用する「礼服(らいふく)」、官人の勤務服「朝服(ちょうふく)」、一般庶民が公務の時に借りて着用する「征服(せいふく)」 ときっちり分けられていました。

貴族の衣服は絹など高級素材が用いられ、色や形で身分がわかるようになっていました。このうち朝服はロング丈の上着を着て腰帯をしめ、袴をはいたスタイルです。くつをはき、刀や笏をもっていました。

文官朝服

貴族の女性は、筒袖のブラウスのような上着にベストのような背子(からぎぬ)を重ね、巻きスカートである裳(も)をはいて、時には肩に領布(ひれ)をストールのようにかけていました。

女官朝服

そして、貴族の食事は15品。全国各地から特産品も届けられるようになり、金属器や漆器といった食器に、ご飯、鮎の醤煮、鹿のなます、焼きエビ、焼きアワビなど豪華な素材の食事が並びました。「蘇」と呼ばれるチーズも口にしていたようです。

一方で下級役人は、貴族より質も品数も落ちますが、玄米ご飯に魚の煮つけ、カブの酢の物など7品目ほどありました。

庶民はかなり厳しい生活を送っていた

竪穴式住居。中にはかまどももうけられていた

農民は、租庸調といった税に雑徭(ぞうよう)といった労役などの義務も課せられ、重税にあえいでいました。そのため、庶民の衣服は麻など天然素材を利用し、男性は脇の下があいた上着を帯で結び、袴姿、女性は袖のある上着に長いスカート状のものをはいていました。

さらに貧しい農民の場合は、男女とも長いワンピース状のものをかぶり、腰紐を巻いていただけのようです。それすらボロボロでおしゃれどころではありませんでした。

建物は、掘立式もでき始めていましたが、地方の農民は竪穴式住居に住み、食事は1汁1菜。玄米ご飯、汁もの、塩を土器に盛り付け食べていました。ただ、それすら口にできない日があり、『貧窮問答歌』にあるように、かまどにクモの巣がはっているような貧しい生活をしていた人も少なくなかったようです。

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