「奈良時代はどんな時代なの?」
「奈良時代の主な出来事や歴史の流れを知りたい」
と思っている人も多いでしょう。
奈良時代とは飛鳥時代のあと、奈良(平城京)が首都になった時代を指します。奈良時代は飛鳥時代後半から進めてきた、天皇を中心とした中央集権体制の律令国家を本格的にスタートさせて日本国家を形成した時代です。
そんな奈良時代には鎮護国家を願い、仏教興隆も進めます。そして政治スタイルや文化に唐(中国)風を取り入れていたため、異国情緒に彩られた時代でもありました。
この記事では、日本国家が形成された奈良時代の歴史や特徴、出来事を追いつつ、人々の暮らしや活躍した人物などにもスポットをあててご紹介いたします。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
奈良時代とはどんな時代だった?
奈良時代はいつからいつまで?
奈良時代は、都が奈良・平城京が置かれた710年から、京都・平安京にうつった794年までの約85年間を指します。この間、途中の数年間と最後の10年間を除いて奈良(平城京)が首都だったため、平城時代とも呼ばれました。
奈良時代は、元明天皇から桓武天皇まで7人の天皇8代(孝謙天皇が称徳天皇として重祚)が国を治めます。そして唐の律令政治にならい、天皇を中心とした中央集権体制の律令国家が実施されました。
奈良時代はどうはじまったのか?
奈良時代は710年、元明天皇が飛鳥の藤原京から遷都して始まりました。
707年に遷都の審議が始まり、翌年遷都の詔を出して710年に飛鳥の藤原京から平城京にうつっています。あわただしい遷都だったためか、平城京に入った時には設備が整っておらず、このあとも造営が続きました。
平城京の前の藤原京は、永久の都として694年に完成した都でしたが、わずか10数年で平城京にうつることになりました。遷都の理由としては藤原京が手狭になったため、あるいはモデルにした中国・唐の長安をより忠実に模したためともいわれてきました。
一方で当時、政権のトップにいた藤原不比等(ふじわらのふひと)の意向が働いたという説もあります。不比等は天皇の外祖父になり、権力を独占しようと考えていました。そのために豪族や皇族たちが古来より勢力をもつ飛鳥を離れたかったようです。
そんな奈良時代は元明天皇という女帝からスタートしました。これは天武・持統両天皇の直系である文武天皇が若くして早世し、その遺児・首皇子(おびとのみこ)が幼かったため、その成長までのつなぎとして文武天皇の母である元明天皇が即位したためです。
この首皇子は不比等の孫でもありました。元明天皇、不比等はともに首皇子の即位を実現するためにも、他の豪族や皇族の勢力を排除したかったでしょう。こうした思惑のもと、平城京はスタートしました。
奈良時代の中心地であった「平城京」
新しい都・奈良は背後と左右に山と丘を控え、前面には平地が広がり、奈良盆地を見渡せる地でした。平城京はその場所で、中国・唐の都、長安をモデルに造営されたと言われています。
その規模は南北約4.8㎞、東西約4.3㎞で、中央には南北に朱雀大路が通り、北端に平城宮がおかれました。さらに東側には張り出すようにして外京が付属していました。これは中央に宮があり、長方形だった藤原京とは形態が異なっています。
都市は碁盤の目のように区画されており、貴族の邸宅や庶民の家のほか、大寺院もいくつか配されました。平城京の住民の数についてはさまざまな説がありますが、天皇、貴族から庶民まで10万人前が暮らしたとされています。
奈良には「あおによし」という枕詞があります。これは青丹よしと書き、現在の緑青色と朱色を意味するものです。奈良は青緑の連子窓や瓦、白壁に朱色の柱に彩られた宮や寺社が並ぶ極彩色の都でした。
奈良時代の主な出来事
大宝律令に基づいた律令国家へ
奈良時代は聖武天皇とその娘、孝謙天皇を中心に、大宝律令に基づいた国づくりが進められました。
奈良時代の始まる直前の701年、刑部親王(おさかべしんのう)や藤原不比等らによって日本で初めての本格的な律令となる大宝律令が制定されます。律は刑罰法、令は行政法です。つまり大宝律令は国を治めるための基本法にあたります。
このように律令の下で国を治める法治国家体制を「律令国家」と呼びました。
大宝律令では中央官庁の組織として行政担当の太政官と神祇担当の神祇官がもうけられています。太政官は太政大臣、左大臣、右大臣、大納言などの役職があり、その下に官僚機構となる8つの省(中務、式部、治部、民部、大蔵、刑部、宮内、兵部)がおかれ、2官8省制となりました。現在でいえば太政官が内閣、省が各省庁にあたります。
また、地方行政も整備し国、郡、里を定め、国を統括する国司を都から派遣しました。こうして本格的な中央集権体制が成立したのです。律令制の人民支配の根本は、人と土地は国のものという公地公民制でした。人々に口分田と呼ばれる一定の土地を支給し、代わりに租庸調といった税を課したのです。
和同開珎による貨幣流通へ
奈良時代の直前の708年に唐の「開元通宝」をモデルに和同開珎(わどうかいちん)と呼ばれる銅銭が鋳造されました。円形で中央に正方形の穴があり、表面に「和同開珎」と記された銭です。和同は調和、開珎は初めてのお金という意味とみなされています。
和同開珎はかつて日本最古の鋳造貨幣とされていましたが、いまではこれより古い貨幣が発見されています。ただし和同開珎は日本初の本格的な流通貨幣を目指した銭だったようです。
和同開珎は、平城京の費用をまかなう目的で鋳造されました。和同開珎1枚が平城京造営の人足1日分の日当として支払われ、当初はこの1枚で米2㎏を購入できたといいます。
また、流通貨幣をもつことは物の統一の価値観をもたらすことにつながり、律令国家には必要なアイテムでした。朝廷はこの和同開珎を広く流通させようと、田畑の売買に銭の使用を強制したり、銭を蓄えた者には位階を与えたり様々な策を講じます。しかし庶民は銭に価値を見出すことができず、一部の流通にとどまりました。
大仏造立など仏教興隆
奈良時代、仏教で国を安定させるという鎮護国家の思想のもと、仏教は国家の保護を受けて発展しました。多くの寺院が建立され、薬師寺、大安寺、元興寺(飛鳥寺)、興福寺、東大寺、西大寺、法隆寺はのちに南都七大寺と呼ばれます。
寺院では南都6宗と呼ばれる6つの仏教学派が生まれました。ただし当時の仏教は、個人を救うための宗教ではなく、あくまでも国家の安寧を願う国家仏教でした。
なかでも仏教に深く帰依し、仏教興隆につとめたのが聖武天皇です。聖武天皇の在位した時代、天然痘の流行や自然災害、政争と世の中は不安定でした。そこで天皇は仏教で国家を安定させる鎮護国家を願い、741年には各国に国分寺と国分尼寺を造ることを命じます。これは奈良時代末期までにほぼ実現されました。
さらに聖武天皇は、743年に金銅の大仏建立を発願します。巨大な大仏をつくるため、溶かした銅を型に流しいれる鋳造の作業だけで足かけ3年かけて計8回おこなわれたほどの大事業でした。そして頭部が完成した752年、開眼供養が行われます。
これが東大寺に今も安置されている廬舎那仏(るしゃなぶつ)の原型です。大半が後世の再建ですが、台座の一部分に当時のものが残されています。