さまざまな政変・事件が起きた
長屋王の変
奈良時代の政治の特徴は藤原氏の台頭です。藤原不比等は文武天皇、続いて聖武天皇に娘を嫁がせ、天皇の外戚となることで勢力を伸ばします。
その結果、天武天皇から続いてきた天皇を中心とする皇族支配の体制が、藤原氏の権力独占へと大きく変わりました。この過程で旧勢力の皇族との間に熾烈な政争が生まれ、数々の政変や事件が起きます。
そのなかでも最も時代を象徴するのが長屋王の変です。
長屋王の変は729年、当時政権の主導者だった長屋王が謀反の疑いをかけられて兵に屋敷を包囲され、妻子ともども自害した事件です。これは藤原氏による政治的陰謀とみなされています。
720年に藤原不比等が亡くなった後、その4人の息子たち(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)は、権力拡大をもくろみ、姉妹である聖武天皇妃の光明子を皇后に格上げしようと画策します。そのため反対派である長屋王を葬り去ったのです。
この事件の後、光明子は皇后になります。そして長屋王なきあとの政界の中心に藤原氏が躍り出て権力を独占しました。
藤原仲麻呂の乱
長屋王のあと、政権は藤原不比等の4人の息子→橘諸兄→藤原仲麻呂と移り変わります。藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の子・藤原仲麻呂は、おばの光明皇后の引き立てで孝謙天皇、次の淳仁天皇(じゅんにんてんのう)の時代に絶大な権力を誇りました。
しかし、やがて孝謙上皇と対立。764年これに危機感を覚えた仲麻呂は権力奪回を図り蜂起しましたが、朝廷軍に追い詰められ、斬首されました。
この結果、孝謙天皇に寵愛された僧の道鏡が権力を独占します。藤原氏は一時衰退したかに見えますが、孝謙天皇の死後、再び盛り返していきます。
奈良時代の政治・経済
行き詰まる公地公民制「墾田永年私財法」制定
奈良時代は大宝律令のもと、律令にのっとった中央集権体制が敷かれました。中央には太政官の下、2官8省の官僚制度が置かれ、各国には中央から国司が派遣され、現地有力者の郡司などを使い支配しました。
支配の基本はすべての土地を国の物と定め、それを人民に口分田として支給し、代わりに租庸調の税を取り立てる仕組みです。6歳以上の男子に2段、女子にはその3分の2の口分田が支給されました。この班田収授法により、朝廷は効率的に税収入を得ることができ、農民も最低限の生活を保証されたわけです。
しかしじきに公地公民制は行き詰まります。人民に支給する口分田が不足する一方で、重税の負担に耐えかねた農民たちが土地から逃げ出すようになったのです。
そこで朝廷は722年に「三世一身の法」(開墾した土地を3世代のみ所有を認める)、さらに743年には開墾した土地の私物化を認める「墾田永年私財法」を出して開墾を奨励します。
もちろん一定の税は課しますが、働けばそれだけ収穫が増え、新しく開墾した土地は自分の物になるため、農民たちの労働意欲も高まると考えたのです。ただこれは公地公民制という律令体制の根幹を覆す一大転換でした。
この法律によって寺社や貴族らの土地の開墾が進みます。そして彼らは広大な土地を所有するようになり、のちに荘園へと発展することになりました。
遣唐使が盛んだった対外関係
奈良時代の対外関係は唐を中心に展開します。唐の律令制度を基本にした日本は唐の都の形態、制度、衣装など唐風を取り入れました。こうした情報を入手するために、702年には遣唐使を約30年ぶりに復活。奈良時代に入っても15~20年周期で遣唐使を派遣しています。
そして、唐の進んだ文化や法制、儀礼を学んで帰国した留学生らが日本で活躍しました。とくに吉備真備(きびのまきび)と玄昉(げんぼう)は政界の中枢に参画し重要な役割を果たしています。
また、唐の都長安は国際都市として栄え、シルクロードを経由して西域の文物が多く運ばれていた地域でした。日本にも唐を通じて楽器や陶器など国際色豊かな品々がもたらされ、今では正倉院におさめられています。
一方、朝鮮半島の新羅(しらぎ/しんら)とは再び緊張関係に入っていました。新羅が唐と結び、日本との朝貢関係を解消しようとしたためです。日本は各地に兵士などを挑発する節度使を置いて、一時は新羅遠征を計画するなど一触即発になりました。
さらに新羅をけん制するために、中国東北部に新しくできた渤海(ぼっかい)と交流を深めます。渤海から高級毛皮やはちみつ、人参など貴重な品々がもたらされました。
奈良時代の文化
仏教を中心とした文化
奈良時代は平城京を中心に天平文化が花開き、聖武天皇の頃に最盛期を迎えます。
天平文化は鎮護国家の思想に基づいて、仏教建築や仏教美術などの仏教色が強いこと、唐(中国)の影響を受けてインドやペルシアなどの影響を受けた豊かな国際色が特徴です。
建築は均整のとれた美しさを見せ、唐招提寺金堂、校倉造の正倉院、法隆寺夢殿、東大寺法華堂などの建築が有名です。また、仏像は豊かな表情のものが多く、興福寺の阿修羅像、東大寺の廬舎那仏などがつくられました。
国史編さんと万葉集
奈良時代は律令国家の成立に伴い国家というものが意識されたため、国の歴史をまとめた国史編さんも行われるようになります。
飛鳥時代から始まっていた『古事記』は712年、『日本書紀』は720年に完成し、地方の特産や地理、伝説などをまとめた『風土記』の編さんが各地方に命じられました。これは現在でも5つの国の風土記が残されていますが、完本として残るのが島根県の『出雲国風土記』です。
また、日本最古の歌集とされる『万葉集』も成立しました。これは8世紀後半、大伴家持によってまとめられたとされます。その数は天皇から無名の庶民、さらによみ人しらずの歌も含めて7~8世紀に読まれた約4500首。その多種多様な内容が特徴です。
このように、奈良時代は国際色豊かな一方で、日本的な文化も着目された時代でした。