奈良時代の人々の暮らし
貴族は広大な敷地で華やかな暮らしをしていた
当時の生活は身分によって全く違います。貴族は豪華で華やかな暮らしをしていました。
平城京の貴族は、広大な敷地に建てられた屋敷を住居としました。位によって敷地は違いますが、長屋王の場合は6万平方メートル以上の敷地があったようです。建物は赤い柱に白い壁の立派な造りで、一部の貴族の邸宅には瓦もふかれていました。
また、衣服については衣服令が定められていて、貴族が重要な儀式に着用する「礼服(らいふく)」、官人の勤務服「朝服(ちょうふく)」、一般庶民が公務の時に借りて着用する「征服(せいふく)」 ときっちり分けられていました。
貴族の衣服は絹など高級素材が用いられ、色や形で身分がわかるようになっていました。このうち朝服はロング丈の上着を着て腰帯をしめ、袴をはいたスタイルです。くつをはき、刀や笏をもっていました。
貴族の女性は、筒袖のブラウスのような上着にベストのような背子(からぎぬ)を重ね、巻きスカートである裳(も)をはいて、時には肩に領布(ひれ)をストールのようにかけていました。
そして、貴族の食事は15品。全国各地から特産品も届けられるようになり、金属器や漆器といった食器に、ご飯、鮎の醤煮、鹿のなます、焼きエビ、焼きアワビなど豪華な素材の食事が並びました。「蘇」と呼ばれるチーズも口にしていたようです。
一方で下級役人は、貴族より質も品数も落ちますが、玄米ご飯に魚の煮つけ、カブの酢の物など7品目ほどありました。
庶民はかなり厳しい生活を送っていた
農民は、租庸調といった税に雑徭(ぞうよう)といった労役などの義務も課せられ、重税にあえいでいました。そのため、庶民の衣服は麻など天然素材を利用し、男性は脇の下があいた上着を帯で結び、袴姿、女性は袖のある上着に長いスカート状のものをはいていました。
さらに貧しい農民の場合は、男女とも長いワンピース状のものをかぶり、腰紐を巻いていただけのようです。それすらボロボロでおしゃれどころではありませんでした。
建物は、掘立式もでき始めていましたが、地方の農民は竪穴式住居に住み、食事は1汁1菜。玄米ご飯、汁もの、塩を土器に盛り付け食べていました。ただ、それすら口にできない日があり、『貧窮問答歌』にあるように、かまどにクモの巣がはっているような貧しい生活をしていた人も少なくなかったようです。
奈良時代に活躍した人物
聖武天皇(701~756、在位724~749)
聖武天皇は、文武天皇と藤原不比等の娘との間に誕生しました。幼いころから天武系の直系にして藤原氏の孫として、その即位を期待されていました。
724年に即位し長屋王が横死したあとは、藤原不比等の4人の息子、その死後は橘諸兄に政権を委ねます。
聖武天皇は、打ち続く災害や政変に悩み、仏教を深く信仰して鎮護国家を願い、国分寺、国分尼寺の建立を命じ、東大寺を建立して大仏を鋳造しました。これらの事業に加えて、遷都を繰り返したため国家財政が窮乏したことも宮廷内の混乱を招く一因になりました。
光明皇后(701~760)
光明皇后は、藤原不比等の娘で名は光明子です。聖武天皇の妃となり阿倍内親王と皇子を生みます。皇子はすぐに皇太子に立てられましたが夭折。やがて藤原氏の後押しにより臣下で初めて皇后となりました。
以降絶大な権力を持ち、阿倍内親王が孝謙天皇として即位すると、天皇を補佐するため新たな機関まで設けて甥の藤原仲麻呂を引き立てます。そのほか、聖武天皇と同じく仏教を崇敬し、寺院創建にかかわり、貧しい人々のための施設「悲田院」、医療施設の「施薬院」を設置するなど慈善事業を行いました。
日本で最も有名な皇后のひとりです。
長屋王(?~729)
長屋王は、天武天皇の長男で太政大臣をつとめた高市皇子の子です。天武天皇の皇孫という血筋に加え、能力を期待され、若くして異例の出世を遂げます。そして不比等の亡き後、右大臣、さらに左大臣として政界の主導者となりました。
長屋王は律令制度維持と社会の安定を図る諸政策を打ち出し、3世代の間土地の私有を認める三世一身の法も制定しています。しかし藤原4兄弟と対立を深め、729年に謀反の疑いをかけられ、妻の吉備内親王(きびないしんのう)ともども自害しました。
近年、長屋王邸宅跡が判明し、そこから出土した多数の木簡に記された内容から、長屋王は親王並みの待遇を受けていたことが分かっています。
藤原仲麻呂(706~764)
藤原仲麻呂は、藤原武智麻呂の子で秀才肌の人物として知られました。おばの光明皇后に見いだされ、その引き立てで異例の出世を遂げます。
孝謙天皇の時代には紫微中台という皇太后直結の組織が創設され、その長官に就任。757年には橘奈良麻呂の乱を鎮圧して政敵を一掃し権力を独占しました。
思いのままに動かせる淳仁天皇の擁立にも成功し、恵美押勝という名前も賜ります。しかし、孝謙上皇が僧の道鏡を重用したため、勢力挽回を図りクーデターを計画します。ですが失敗して、最期は斬首されました。