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天武天皇とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や謎、時代の流れも紹介】

天武天皇は第40代の飛鳥時代の天皇です。父は舒明天皇、母は皇極天皇、兄は天智天皇(中大兄皇子)という、天皇の地位が約束されているような系図です。しかし、実際は皇位までの道のりは平坦でもなく、甥の大友皇子と争い(壬申の乱)勝利して皇位につきました。

天武天皇の時代は、兄の天智天皇が手がけた大化の改新をさらに進化させ、日本を大陸に習った近代国家に発展させることにある程度成功した時代でした。官位を新たに定め、律令の基礎を築きました。文化面でも「日本書紀」、「古事記」といった史書を作成させたり文化的にも多大に貢献しています。

しかし反面、天武天皇は謎が多い天皇としても知られています。生まれた年が分からない天皇であり、昔から議論の対象になっています。そんな有名な天皇でありながら謎の多い天武天皇を、里中満智子さんの漫画「天上の虹」を読んで飛鳥時代が大好きな筆者が語っていきたいと思います。

天武天皇とはどんな人物か

名前天武天皇(大海人皇子)
誕生日不明
没日686年10月1日
生地大和国(奈良県)
没地大和国(奈良県)
配偶者持統天皇(鵜野讃良皇女)
埋葬場所檜隈大内陵

天武天皇の生涯をハイライト

前漢の武帝、漢の最盛期を築いた

天武天皇は、?(生年不明)~686年までの飛鳥時代に活躍した天皇です。諱は大海であり、壬申の乱で勝利し、即位しました。天武天皇の名前の由来は一説によると前漢の武王にならって、「天は武王を立てて悪しき王を滅ぼした」から名付けられたという説もあり、武勇で名高かった武王になぞらえられる程の人物だったと考えられています。

そんな天武天皇ですが、人生をダイジェストすると以下のようになります。

  • 6世紀頃:舒明天皇の皇子として生まれる
  • 664年:天智天皇の時代に皇太弟となる
  • 671年:出家し吉野に移る
  • 672年:壬申の乱が起こり近江朝に勝利する
  • 673年:天皇として即位する
  • 679年:吉野の盟約を皇子たちに結ばせる
  • 681年:律令を定め、日本の史記の編集を命じる・草壁皇子を皇太子にたてる
  • 686年:病により崩御

天武天皇に関連する人物

天武天皇に関係があった主だった人物を紹介していきたいと思います。

天智天皇(中大兄皇子)

天智天皇

第39代の天皇であり、天武天皇の兄です。中臣鎌足と共に大化の改新を推し進めました。天武天皇は天智天皇の皇太弟だったとされています。しかし天智天皇は、自分の息子である大友皇子を天皇にしたいと考え、次第に大海人皇子を疎外していきました。

そして病気の際に、病床に大海人皇子を呼び寄せ後事を託そうとしたそうです。そこで大海人皇子は、皇后の倭姫王が即位し大友皇子が執政することを薦めて、出家し吉野に下ったといいます。その後崩御し、翌年に壬申の乱が起きました。

持統天皇(鵜野讃良皇女)

持統天皇

天武天皇の皇后であり、天武の死後に天皇の位についた女性です。天武との間に草壁皇子をもうけました。大海人皇子が冷遇され出家して吉野に下った時は、草壁皇子や他の皇子を連れて共に吉野に下ったといいます。壬申の乱の際には、大海人皇子と共に乱の計画に加わったとされています。

壬申の乱後は、皇后の位につき、天武天皇の政事の助言をしました。皇后が病にかかった時に天武天皇は、薬師寺を建てています。天武天皇が病気がちになった時は、皇后と草壁皇子が共同で政務を行うようになっていったといいます。

大友皇子(弘文天皇)

弘文天皇(明治3年に天皇を追贈されました)

天智天皇の息子で、天武天皇の甥にあたります。壬申の乱で大海人皇子と争いました。天智天皇の時代に、太政大臣になり政務を補佐していました。天智天皇の死後、半年間政務をとったといいます。672年壬申の乱が起き、敗れて首を括り薨去しました。

治世は半年と短く、即位の礼も執り行っていなかったため歴代天皇に数えられていませんでしたが、明治三年に「弘文天皇」が送られ、歴代の天皇に数えられるようになりました。天武が壬申の乱で勝利した背景には、大友皇子の母が皇族出身ではなく身分が低いため、正式な後継者として天武の方が相応しいと考えているものも多かったと考えられています。

額田王

額田王の歌碑

飛鳥時代の歌人であり、天武天皇の妃でした。天武天皇との間に十市皇女を出産しますが、後に天智天皇に寵愛されたといいます。天智天皇と天武天皇の不和に理由に、一説には額田王を巡った三角関係が原因という説もあります。

皇位継承問題で起こった壬申の乱について

天武天皇が兜をかけたとされる兜掛石

672年に皇位継承権争いのために壬申の乱が起きました。この乱に勝利し、大海人皇子は即位して天武天皇となったのです。結果として反乱者である大海人皇子が勝利するという、日本では前例のない内乱となりました。

壬申の乱とは、天智天皇の皇子、大友皇子(明治時代に弘文天皇と追贈)に対して、皇弟の大海人皇子が兵を挙げて勃発しました。戦いの経緯は吉野にいた大海人皇子が、挙兵後に美濃・伊勢・伊賀・熊野などの地域の豪族の信を得ることに成功し、美濃の東国の兵も集めて息子の武市皇子と二手に別れて進軍しました。

壬申の乱の地図

近江王朝の大友皇子は、吉備と筑紫に兵を挙げるように使者を送りますが、東国への道は反乱軍に閉鎖されており、吉備と筑紫では現地の軍を動かすことが出来なかったといいます。結果的に近江周辺の兵が主力でしたが、大海人皇子側の兵は「瀬田橋の戦い」で近江軍に大勝し、翌日に大友皇子が首を吊って自決し、乱は収束しました。

天武天皇の人物像

天武天皇はシャーマン性があったという

天武天皇は宗教や超自然的な物に対する関心が強く、神仏への信仰心も厚かった言われています。「日本書紀」によると、自ら式をとって将来を占ったり、天神地祇に祈って雷雨をやませたりしたといいます。予言者的な能力を発揮して、天皇は神と仰がれるようなカリスマ性を帯びたといえます。

このシャーマン的な素質は、天皇の即位後も発揮され宗教・儀式への関心強く、占いの活用や神仏への祈願で自らの目的を達しようとする姿勢が強く現れているのが特徴です。

五節の舞の衣装

また民間習俗を祭事に積極的に盛り込んでいったといいます。代表的なものとして五節の舞があります。そして、畿内とその周辺から歌が上手な男女、侏儒、伎人を宮廷に集めるよう命じ、彼ら才芸者に禄を与えたといいます。

685年には優れた歌と笛を子孫に伝えるよう命じ、686年には俳優と歌人に褒賞を与えました。こういった芸能者への厚遇は、天皇自身の好みと無関係ではないだろうと言われています。

天武天皇の宗教政策

天武天皇は、現在にも繋がる宗教観を確立させていきました。それぞれの宗教に対する政策をあげていきます。

神道

国家神道のイメージ(絵は明治時代のもの)

天武天皇は日本古来の神の祭りを重視して、今までは地方的な祭祀を国家の祭祀に引きあげていきました。元来あった神道の太陽神である天照大神を祖とする関係を、地方の神々と関連付けて天皇家の権威の向上に利用しました。地方の神社を保護し管理することにより、国家神道をすすめていったといいます。

伊勢神宮

天武天皇は特に伊勢神宮を重視し、この神社が日本の最高の神社と位置付けました。娘の大来皇女を斎王と定めて仕えさせたといいます。伊勢神宮を現在の五十鈴川沿いに建てたのは、天武天皇だと言われています。また、そもそも天照大神を作ったのは天武天皇だと言う説もあります。もともと伊勢地方にあった太陽神を、天皇家の神と合体させて作ったというものです。

仏教政策

川原寺跡

天武天皇は仏教保護にも力を入れました。673年には川原寺で、一切経写経の事業を起したといいます。679年には倭京の24寺と宮中で『金光明経』を説かせました。「金光明経」は、国王が天の子であり生まれたときから守護されており、人民を統治する資格を得ていると記すもので、天照大神の末裔による現人神思想と似たものでした。護国を目的として普及させていったのです。

また、680年に皇后の病気に際して薬師寺建立を祈願し、自らの病に際しても様々に仏教に頼って快癒を願ったといいます。この時期まで畿内を除く地方に寺院は少なく、天武朝には全国で氏寺が盛んに造営されました。遺跡から出る瓦からは、中央の少数の寺院が地域を分担して建設を指導したことがうかがわれ、政策的な後押しが想定されています。

天武天皇は仏教を国家事業として利用しました

天武が行ったのは、国家神道と並行しての国家仏教であり、僧侶に寺院に籠って天皇や国家のための祈祷に専念させることを求めて、国家に従属させていったといいます。僧侶の服装や威儀を規定し、全ての寺院や僧侶を国家の統制下に置くようにしたのです。

道教政策

仙人のイメージ

天皇の宗教観には道教の影響が色濃く見ることができます。神仙思想の仙人より上の存在として、天皇家を位置付けました。八色の姓の最高位・真人や天皇の和号にも天渟中原瀛真人と名乗っていますが、この「真人」が仙人の上位階級であり、天皇も道教の最高神であることを表しています。

八角墳

葬られた陵の八角墳は、東西南北に北東・北西・南東・南西を加えた八紘を指すもので、これも道教的な方角観が影響していると言われています。日本の道教は独立するというよりは神教に融合していくようになっていきました。

天武天皇の功績

功績1「日本の対外政策に力をいれたこと」

天武朝の時の日本の地図

天武朝は白村江の敗戦後、新羅が通交を求めてきていたのもあり、外交的な面は好転していました。日本は親新羅政策をとり、文化を摂取し唐には使者を送らず大国の対面を保っていたといいます。一説によると、新羅と親密になることにより、唐の侵略が来ないように対抗したといいます。

天智朝が親百済派だったのに対し、天武朝の親新羅派に変わったのは大きな功績となりました。また、朝鮮半島から帰化した人には、672年から681年のおよそ10年間まで課税を免除し、10年後には入国時に子供だった者にも免除を広げるという政策を行っています。大陸の先進的な知識を得る目的が考えられています。

功績2「皇親政治を行いつつ日本の先進に務めたこと」

当時は皇族も多く、要職を占めていた

天武天皇は、大きなカリスマ性で一人の大臣も置かずに、法官・兵政官を置かずに直属としたのが特徴です。要職に皇族で固めた皇親政治を特徴としました。しかし皇族も政権を掌握するわけでなく、権力は天皇一人に集中していました。重臣に政務を委ねることもなく、天皇自ら集中権力を手に入れたのでした。

飛鳥浄御原宮で天武天皇は改革を行った

天武天皇は皇親政治だけでなく、宮中改革も積極的に行いました。毎年官人の勤務評定を行って位階を進めることとし、官人に定期的・体系的な昇進機会を与える考選法の初めと言われています。族姓を最初の基準にしているため、貴賤の枠での官僚制度ではあるものの、貴族の中で実力があるものは出世できる体制が整ったのでした。

角髪は天武朝に正式に廃止された

冠位制度は、685年に新しい冠位48階制を定めました。今までは皇族は位が授けられていませんでしたが、皇族と臣下では異なる位階を用意し、親王にも位が授けられるようになりました。この時に服装も整備され、681年にはそれまでの日本独自の髪型である角髪を改めるように命じました。これ以後、冠を被るのにふさわしい形の髷になり、徐々に民衆まで広まっていったと考えられます。

天武天皇が確立したこれらの諸制度には、後の大宝律令と実質的な意義・内容は同じで、律令官人制の骨格をなすものです。これにより天武政権の時期に、日本律令体制の基礎が固まったのも、天武天皇の大きな功績といえるでしょう。

功績3「日本古来の文化の保全につとめたこと 」

「万葉集」この時代に保護されなければ令和という元号はなかったかも?

天武天皇は、日本古来の文芸・伝承の保護に力を入れました。飛鳥時代は大陸の文化が入ってきており、一説によると壬申の乱で天武が敗れていたら、土着の文化が大陸風の文化に浸食されていた可能性も指摘されています。

日本古来からの文学の代表は「古事記」「万葉集」です。稗田阿礼に帝紀と旧辞を詠み習わせて、後に筆録されて「古事記」となりました。これらの文学の保護の、後世に与えた影響は多大です。

また並行して、漢風の「日本書紀」の編集も命じています。681年に親王、臣下多数に命じて「帝紀及上古諸事」編纂の詔勅を出しました。後に完成した「日本書紀」編纂事業の開始と言われています。日本書紀の完成は天武の死後でしたが、現存する日本の最古の史記となりました。

天武天皇の名言

人妻である額田王に心惹かれるという心を送ったといいます

むらさきの にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 吾恋ひめやも

訳は「紫の色の美しく匂うような美しいあなたを憎いはずがありません。人妻になったゆえに心惹かれるのです。」となります。天皇が狩猟をしている時に、額田王に送った歌と言われています。この時には額田王は天智天皇の妃となっており、この歌から恋敵として、天智天皇と天武天皇の不和の原因と考える説もあります。

吉野山の様子

淑き人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ 良き人よく見

訳は「賢人が良いところをよく見てよしと言ったという吉野をよく見なさい。ここに来てよく見なさい」となります。「よし」という言葉を沢山使う言葉遊び的な要素もある和歌です。しかしこれは、天武天皇の帝王哲学や政治や部下の管理手法を纏めたものだと言われています。とても意味が深い歌なのです。

日本書紀にも記録される記録的な大雪だったという

我が里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後

訳は「我が里に大雪が降った。そなたの住む古ぼけた里に降るのはずっとあとだろう」となります。新妻である五百重娘に贈ったものです。この時の雪は、「日本書紀」にも記されるほどの大雪だったといいます。新妻の心配をする天武天皇の心遣いが、違った天皇の一面を見せる歌です。

天武天皇の人物相関図

天皇系図
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