天武天皇は第40代の飛鳥時代の天皇です。父は舒明天皇、母は皇極天皇、兄は天智天皇(中大兄皇子)という、天皇の地位が約束されているような系図です。しかし、実際は皇位までの道のりは平坦でもなく、甥の大友皇子と争い(壬申の乱)勝利して皇位につきました。
天武天皇の時代は、兄の天智天皇が手がけた大化の改新をさらに進化させ、日本を大陸に習った近代国家に発展させることにある程度成功した時代でした。官位を新たに定め、律令の基礎を築きました。文化面でも「日本書紀」、「古事記」といった史書を作成させたり文化的にも多大に貢献しています。
しかし反面、天武天皇は謎が多い天皇としても知られています。生まれた年が分からない天皇であり、昔から議論の対象になっています。そんな有名な天皇でありながら謎の多い天武天皇を、里中満智子さんの漫画「天上の虹」を読んで飛鳥時代が大好きな筆者が語っていきたいと思います。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
天武天皇とはどんな人物か
名前 | 天武天皇(大海人皇子) |
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誕生日 | 不明 |
没日 | 686年10月1日 |
生地 | 大和国(奈良県) |
没地 | 大和国(奈良県) |
配偶者 | 持統天皇(鵜野讃良皇女) |
埋葬場所 | 檜隈大内陵 |
天武天皇の生涯をハイライト
天武天皇は、?(生年不明)~686年までの飛鳥時代に活躍した天皇です。諱は大海であり、壬申の乱で勝利し、即位しました。天武天皇の名前の由来は一説によると前漢の武王にならって、「天は武王を立てて悪しき王を滅ぼした」から名付けられたという説もあり、武勇で名高かった武王になぞらえられる程の人物だったと考えられています。
そんな天武天皇ですが、人生をダイジェストすると以下のようになります。
- 6世紀頃:舒明天皇の皇子として生まれる
- 664年:天智天皇の時代に皇太弟となる
- 671年:出家し吉野に移る
- 672年:壬申の乱が起こり近江朝に勝利する
- 673年:天皇として即位する
- 679年:吉野の盟約を皇子たちに結ばせる
- 681年:律令を定め、日本の史記の編集を命じる・草壁皇子を皇太子にたてる
- 686年:病により崩御
天武天皇に関連する人物
天武天皇に関係があった主だった人物を紹介していきたいと思います。
天智天皇(中大兄皇子)
第39代の天皇であり、天武天皇の兄です。中臣鎌足と共に大化の改新を推し進めました。天武天皇は天智天皇の皇太弟だったとされています。しかし天智天皇は、自分の息子である大友皇子を天皇にしたいと考え、次第に大海人皇子を疎外していきました。
そして病気の際に、病床に大海人皇子を呼び寄せ後事を託そうとしたそうです。そこで大海人皇子は、皇后の倭姫王が即位し大友皇子が執政することを薦めて、出家し吉野に下ったといいます。その後崩御し、翌年に壬申の乱が起きました。
持統天皇(鵜野讃良皇女)
天武天皇の皇后であり、天武の死後に天皇の位についた女性です。天武との間に草壁皇子をもうけました。大海人皇子が冷遇され出家して吉野に下った時は、草壁皇子や他の皇子を連れて共に吉野に下ったといいます。壬申の乱の際には、大海人皇子と共に乱の計画に加わったとされています。
壬申の乱後は、皇后の位につき、天武天皇の政事の助言をしました。皇后が病にかかった時に天武天皇は、薬師寺を建てています。天武天皇が病気がちになった時は、皇后と草壁皇子が共同で政務を行うようになっていったといいます。
大友皇子(弘文天皇)
天智天皇の息子で、天武天皇の甥にあたります。壬申の乱で大海人皇子と争いました。天智天皇の時代に、太政大臣になり政務を補佐していました。天智天皇の死後、半年間政務をとったといいます。672年壬申の乱が起き、敗れて首を括り薨去しました。
治世は半年と短く、即位の礼も執り行っていなかったため歴代天皇に数えられていませんでしたが、明治三年に「弘文天皇」が送られ、歴代の天皇に数えられるようになりました。天武が壬申の乱で勝利した背景には、大友皇子の母が皇族出身ではなく身分が低いため、正式な後継者として天武の方が相応しいと考えているものも多かったと考えられています。
額田王
飛鳥時代の歌人であり、天武天皇の妃でした。天武天皇との間に十市皇女を出産しますが、後に天智天皇に寵愛されたといいます。天智天皇と天武天皇の不和に理由に、一説には額田王を巡った三角関係が原因という説もあります。
皇位継承問題で起こった壬申の乱について
672年に皇位継承権争いのために壬申の乱が起きました。この乱に勝利し、大海人皇子は即位して天武天皇となったのです。結果として反乱者である大海人皇子が勝利するという、日本では前例のない内乱となりました。
壬申の乱とは、天智天皇の皇子、大友皇子(明治時代に弘文天皇と追贈)に対して、皇弟の大海人皇子が兵を挙げて勃発しました。戦いの経緯は吉野にいた大海人皇子が、挙兵後に美濃・伊勢・伊賀・熊野などの地域の豪族の信を得ることに成功し、美濃の東国の兵も集めて息子の武市皇子と二手に別れて進軍しました。
近江王朝の大友皇子は、吉備と筑紫に兵を挙げるように使者を送りますが、東国への道は反乱軍に閉鎖されており、吉備と筑紫では現地の軍を動かすことが出来なかったといいます。結果的に近江周辺の兵が主力でしたが、大海人皇子側の兵は「瀬田橋の戦い」で近江軍に大勝し、翌日に大友皇子が首を吊って自決し、乱は収束しました。
天武天皇の人物像
天武天皇は宗教や超自然的な物に対する関心が強く、神仏への信仰心も厚かった言われています。「日本書紀」によると、自ら式をとって将来を占ったり、天神地祇に祈って雷雨をやませたりしたといいます。予言者的な能力を発揮して、天皇は神と仰がれるようなカリスマ性を帯びたといえます。
このシャーマン的な素質は、天皇の即位後も発揮され宗教・儀式への関心強く、占いの活用や神仏への祈願で自らの目的を達しようとする姿勢が強く現れているのが特徴です。
また民間習俗を祭事に積極的に盛り込んでいったといいます。代表的なものとして五節の舞があります。そして、畿内とその周辺から歌が上手な男女、侏儒、伎人を宮廷に集めるよう命じ、彼ら才芸者に禄を与えたといいます。
685年には優れた歌と笛を子孫に伝えるよう命じ、686年には俳優と歌人に褒賞を与えました。こういった芸能者への厚遇は、天皇自身の好みと無関係ではないだろうと言われています。