天武天皇とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や謎、時代の流れも紹介】

天武天皇の宗教政策

天武天皇は、現在にも繋がる宗教観を確立させていきました。それぞれの宗教に対する政策をあげていきます。

神道

国家神道のイメージ(絵は明治時代のもの)

天武天皇は日本古来の神の祭りを重視して、今までは地方的な祭祀を国家の祭祀に引きあげていきました。元来あった神道の太陽神である天照大神を祖とする関係を、地方の神々と関連付けて天皇家の権威の向上に利用しました。地方の神社を保護し管理することにより、国家神道をすすめていったといいます。

伊勢神宮

天武天皇は特に伊勢神宮を重視し、この神社が日本の最高の神社と位置付けました。娘の大来皇女を斎王と定めて仕えさせたといいます。伊勢神宮を現在の五十鈴川沿いに建てたのは、天武天皇だと言われています。また、そもそも天照大神を作ったのは天武天皇だと言う説もあります。もともと伊勢地方にあった太陽神を、天皇家の神と合体させて作ったというものです。

仏教政策

川原寺跡

天武天皇は仏教保護にも力を入れました。673年には川原寺で、一切経写経の事業を起したといいます。679年には倭京の24寺と宮中で『金光明経』を説かせました。「金光明経」は、国王が天の子であり生まれたときから守護されており、人民を統治する資格を得ていると記すもので、天照大神の末裔による現人神思想と似たものでした。護国を目的として普及させていったのです。

また、680年に皇后の病気に際して薬師寺建立を祈願し、自らの病に際しても様々に仏教に頼って快癒を願ったといいます。この時期まで畿内を除く地方に寺院は少なく、天武朝には全国で氏寺が盛んに造営されました。遺跡から出る瓦からは、中央の少数の寺院が地域を分担して建設を指導したことがうかがわれ、政策的な後押しが想定されています。

天武天皇は仏教を国家事業として利用しました

天武が行ったのは、国家神道と並行しての国家仏教であり、僧侶に寺院に籠って天皇や国家のための祈祷に専念させることを求めて、国家に従属させていったといいます。僧侶の服装や威儀を規定し、全ての寺院や僧侶を国家の統制下に置くようにしたのです。

道教政策

仙人のイメージ

天皇の宗教観には道教の影響が色濃く見ることができます。神仙思想の仙人より上の存在として、天皇家を位置付けました。八色の姓の最高位・真人や天皇の和号にも天渟中原瀛真人と名乗っていますが、この「真人」が仙人の上位階級であり、天皇も道教の最高神であることを表しています。

八角墳

葬られた陵の八角墳は、東西南北に北東・北西・南東・南西を加えた八紘を指すもので、これも道教的な方角観が影響していると言われています。日本の道教は独立するというよりは神教に融合していくようになっていきました。

天武天皇の功績

功績1「日本の対外政策に力をいれたこと」

天武朝の時の日本の地図

天武朝は白村江の敗戦後、新羅が通交を求めてきていたのもあり、外交的な面は好転していました。日本は親新羅政策をとり、文化を摂取し唐には使者を送らず大国の対面を保っていたといいます。一説によると、新羅と親密になることにより、唐の侵略が来ないように対抗したといいます。

天智朝が親百済派だったのに対し、天武朝の親新羅派に変わったのは大きな功績となりました。また、朝鮮半島から帰化した人には、672年から681年のおよそ10年間まで課税を免除し、10年後には入国時に子供だった者にも免除を広げるという政策を行っています。大陸の先進的な知識を得る目的が考えられています。

功績2「皇親政治を行いつつ日本の先進に務めたこと」

当時は皇族も多く、要職を占めていた

天武天皇は、大きなカリスマ性で一人の大臣も置かずに、法官・兵政官を置かずに直属としたのが特徴です。要職に皇族で固めた皇親政治を特徴としました。しかし皇族も政権を掌握するわけでなく、権力は天皇一人に集中していました。重臣に政務を委ねることもなく、天皇自ら集中権力を手に入れたのでした。

飛鳥浄御原宮で天武天皇は改革を行った

天武天皇は皇親政治だけでなく、宮中改革も積極的に行いました。毎年官人の勤務評定を行って位階を進めることとし、官人に定期的・体系的な昇進機会を与える考選法の初めと言われています。族姓を最初の基準にしているため、貴賤の枠での官僚制度ではあるものの、貴族の中で実力があるものは出世できる体制が整ったのでした。

角髪は天武朝に正式に廃止された

冠位制度は、685年に新しい冠位48階制を定めました。今までは皇族は位が授けられていませんでしたが、皇族と臣下では異なる位階を用意し、親王にも位が授けられるようになりました。この時に服装も整備され、681年にはそれまでの日本独自の髪型である角髪を改めるように命じました。これ以後、冠を被るのにふさわしい形の髷になり、徐々に民衆まで広まっていったと考えられます。

天武天皇が確立したこれらの諸制度には、後の大宝律令と実質的な意義・内容は同じで、律令官人制の骨格をなすものです。これにより天武政権の時期に、日本律令体制の基礎が固まったのも、天武天皇の大きな功績といえるでしょう。

功績3「日本古来の文化の保全につとめたこと 」

「万葉集」この時代に保護されなければ令和という元号はなかったかも?

天武天皇は、日本古来の文芸・伝承の保護に力を入れました。飛鳥時代は大陸の文化が入ってきており、一説によると壬申の乱で天武が敗れていたら、土着の文化が大陸風の文化に浸食されていた可能性も指摘されています。

日本古来からの文学の代表は「古事記」「万葉集」です。稗田阿礼に帝紀と旧辞を詠み習わせて、後に筆録されて「古事記」となりました。これらの文学の保護の、後世に与えた影響は多大です。

また並行して、漢風の「日本書紀」の編集も命じています。681年に親王、臣下多数に命じて「帝紀及上古諸事」編纂の詔勅を出しました。後に完成した「日本書紀」編纂事業の開始と言われています。日本書紀の完成は天武の死後でしたが、現存する日本の最古の史記となりました。

天武天皇の名言

人妻である額田王に心惹かれるという心を送ったといいます

むらさきの にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 吾恋ひめやも

訳は「紫の色の美しく匂うような美しいあなたを憎いはずがありません。人妻になったゆえに心惹かれるのです。」となります。天皇が狩猟をしている時に、額田王に送った歌と言われています。この時には額田王は天智天皇の妃となっており、この歌から恋敵として、天智天皇と天武天皇の不和の原因と考える説もあります。

吉野山の様子

淑き人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ 良き人よく見

訳は「賢人が良いところをよく見てよしと言ったという吉野をよく見なさい。ここに来てよく見なさい」となります。「よし」という言葉を沢山使う言葉遊び的な要素もある和歌です。しかしこれは、天武天皇の帝王哲学や政治や部下の管理手法を纏めたものだと言われています。とても意味が深い歌なのです。

日本書紀にも記録される記録的な大雪だったという

我が里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後

訳は「我が里に大雪が降った。そなたの住む古ぼけた里に降るのはずっとあとだろう」となります。新妻である五百重娘に贈ったものです。この時の雪は、「日本書紀」にも記されるほどの大雪だったといいます。新妻の心配をする天武天皇の心遣いが、違った天皇の一面を見せる歌です。

天武天皇の人物相関図

天皇系図
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