天武天皇とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や謎、時代の流れも紹介】

天武天皇にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「天武天皇は実は忍者だった?」

天武天皇は忍術を操った!?

あくまで都市伝説ですが、昔からある噂です。理由は日本書紀に「天文遁甲を良くする」と書かれているためです。「天文」とは占星術、「遁甲」とは忍術のことです。天武天皇が占術と忍術を身につけていると史書に書かれているのです。

ただしあまりに現実性がかけ離れているために、最近は奇門遁甲と呼ばれる、中国の占術を表すという説が一般的です。ただし天武天皇は壬申の乱の際に多くの忍者を従え、中でも「多胡弥」という優秀な忍者が敵陣に忍び込んで火を放ったり、夜討ちをかけたりしたといいます。壬申の乱時代には忍者は存在しており、全く否定できないのも噂がなくならない理由と考えられます。

都市伝説・武勇伝2「実は天智天皇のお兄さんだったという説も…」

「日本書記」にはなぜか天武天皇の生年の記載がない…

天武天皇は、生年が不明となっています。理由は日本書紀に生まれの年が書かれておらず、後年の鎌倉時代に書かれた「一代要記」や「皇年代略起」が記す没年65歳を採用すると、生年が622年か623年になり、天智天皇より4歳年上ということになってしまうためです。

これは56歳を65歳と記入し間違えたのではないかと言われていましたが、元々天武天皇は天智天皇より年上であり、皇極天皇の前夫との間の漢皇子なのではないかという説があります。この場合は、皇極天皇が舒明天皇と結婚する前の夫、高向王との子供であり天智天皇の異父兄ということになります。

高向王は用明天皇の孫にあたります(絵は用明天皇)

このことについては昔から議論がなされていますが、天智天皇と天武天皇の没年による年齢の逆転が計算される「皇年代略記」なども天智は兄と本には記載されていることから、後年の年式記載のずれではないかと指摘されています。しかし、65歳と56歳の書き間違えというのもいささか強引であると批判もあり、故に現在でも生年は不明とされているのが現状です。都市伝説の域を出ません。

都市伝説・武勇伝3「身長は175センチくらいあった」

(高いイメージ)6世紀の平均身長よりもかなり高かったと推測されています

1235年に天武天皇陵は盗掘を受け、その際の調査『阿不之山陵記』に、天武天皇の骨について記載があります。首は普通より少し大きく、脛の骨の長さは1尺6寸(48センチメートル)、肘の長さ1尺4寸(42センチメートル)あったとされています。ここから身長175センチメートルくらいと言われ、当時としては背が高いほうであったと推定されています。

天武天皇の時代・生涯年表

6世紀頃 – 0歳「大和で出生」

現在の奈良県にある薬師寺

先述の通り生年は不明ですが、舒明天皇を父に皇極天皇を母として、大和に生を受けました。同母兄は中大兄皇子(後の天智天皇)であり、同母姉か妹として後に孝徳天皇の皇后となった間人皇女がいます。

鵜野讃良皇女(後の持統天皇)を妻とする

百人一首に描かれた持統天皇

657年に鵜野讃良皇女を妻としました。そして662年に鵜野讃良皇女は、筑紫国の娜大津(現在の博多)で草壁皇子が生まれたといいます。鵜野讃良皇女の姉の大田皇女も天武天皇に嫁いでいましたが、壬申の乱の前には亡くなっていたため、鵜野讃良皇女は大海人皇子の妻の中で、一番高い地位にいました。

668年 – 30代頃「皇太弟になる」

大海人皇子は長槍を床に刺したという

668年に中大兄皇子が即位するにあたって、大海人皇子も皇太弟となったとされています。しかし、徐々に天智天皇との仲がギクシャクし始めたらしく、「藤氏家伝」によると、ある日の宴会で激した大海人皇子が長槍で床板を貫き、怒った天智天皇が皇子を殺そうとしたという話を伝えられています。

藤原鎌足が取りなして事なきを得たといい、これが668年のことと推測されています。皇太弟の立場の時には、仲たがいしていたことが伺えるエピソードです。

671年 – 40代頃「政界を疎外され吉野に移る」

出家し吉野に下ったといいます

天智天皇は息子の大友皇子を後継者としたいと考え、また大海人皇子と険悪な雰囲気になってきていたこともあり、天武天皇を段々政界から疎外していったようです。息子の大友皇子を太政大臣に任命しました。大友皇子を次の天皇にするための意図があったと考えられています。

そして天智天皇はいよいよ病が深くなってきたときに、大海人皇子を枕元に呼んだといいます。そこで後事を託そうとした時に、大海人皇子は皇后の倭姫王に皇位を、執権を大友皇子にと進言しました。そしてその日に自らは出家し、吉野に下って行ったのです。その時人々は「まるで虎に羽をつけて解き放つようだ」と噂をしたといいます。

壬申の乱が起こる

白山神社古墳、大友皇子の陵という伝承がある

半年後に大海人皇子は僅かな兵を連れて挙兵しました。天皇は得意の天文遁甲をを使い、自ら式をとって占い天下二部の兆しと占い、雷雨をやませたといいます。そのカリスマ性も相まって、畿内の多くの豪族が大海人皇子の味方をし、最終的に大友皇子が自殺したため乱は大海人皇子の勝利に終わりました。

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