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【年表付】古墳時代とは?当時の生活や服装、食事、主な出来事まとめ

「古墳時代は何年前の時代なの?」
「古墳時代の人たちはどんな暮らしぶりだったの?」
「古墳時代に起こった出来事や活躍した人物は?」

古墳時代に関して、以上のような疑問をお持ちの方も多いのではないでしょうか?

「古墳時代」とは、前方後円墳と呼ばれる巨大墳墓が日本各地に築造された時代です。前方後円墳は上から見ると鍵穴の形をした特徴的な墳墓として知られています。前方後円墳の一部は、朝鮮半島南部でも存在が確認されていますが、それらは日本の影響を受けて後年に築造されたものであり、あくまで日本発祥、日本オリジナルの墳墓です。

上石津ミサンザイ古墳

日本各地に大小様々な前方後円墳が築造された古墳時代とは、一体どのような時代だったのか?当時の人々はどんな生活を営んでいたのか?また、古墳時代に活躍した人物や出来事、そして現存している代表的な前方後円墳はどのようなものなのか?など、古墳時代に関してわかりやすくお伝えしていきます。

古墳時代とはどんな時代?

古墳時代に築造された前方後円墳は約4,700基で、北海道、東北地方北部、沖縄を除いて、日本各地に存在しています。前方後円墳の他にも、円墳や方墳なども合わせると約15万基という膨大な数に上ります。このようにたくさんの古墳が作られた古墳時代の基本情報を、まずは確認していきましょう。

古墳時代はいつからいつまで?

最初期に築造された巨大前方後円墳「箸墓古墳」

古墳時代の始まりと終わりには諸説あるものの、一般的には3世紀中ごろから6世紀末頃までとされています。時代区分で言うと、弥生時代の後、飛鳥時代の前にあたる約300数十年間となります。

3世紀前期頃、現在の奈良県桜井市に「纒向石塚古墳(まくむくいしづかこふん)」を含めた全長90メートル級の古墳が複数出現、さらに3世紀中期から後期にかけて278メートルという巨大な前方後円墳「箸墓古墳(はしはかこふん)」が出現、この辺りの時期を古墳時代の始まりとしています。

そして6世紀末頃には前方後円墳が作られなくなり、円墳や方墳、八角墳が主流となっていきました。さらに646年、墳墓の大きさを規制する「薄葬令」が発布され、古墳時代は完全に終焉したのです。

纏向遺跡と前方後円墳の登場

古墳時代の始まりを告げた「纏向遺跡」

前述の通り、纏向石塚古墳や箸墓古墳の登場によって古墳時代は幕を開けました。この古墳時代の始まりとなった古墳が築造された場所が、現在の奈良県桜井市にある「纏向遺跡(まきむくいせき)」です。纏向遺跡はまさに王都と呼ぶに相応しい古代遺跡で、その面積は三平方キロメートルに及ぶ大集落であったことが発掘調査の結果、明らかになっています。

また、第10代崇神天皇、第11代垂仁天皇、第12代景行天皇が、纏向遺跡のある三輪山の麓に宮殿を置いていたことが「日本書紀」に記されているため、纏向遺跡が当時の権力の中枢であったことがわかっています。そんな纏向遺跡の周辺に出現した古墳群は天皇の陵墓、もしくは天皇に近しい人物の墳墓ではないかと見られています。

なお、纏向遺跡は卑弥呼の邪馬台国ではないかとの説もありますが、真偽のほどは定かではありません。

謎の4世紀

3世紀の日本について記された「魏志倭人伝」

纏向遺跡を拠点とするヤマト王権は、徐々にその勢力を拡大、4世紀には北海道、東北地方北部、沖縄を除く日本各地に前方後円墳が築かれました。

独特な形をした前方後円墳の築造技術が全国に広まったということは、ヤマト王権の統治範囲が日本の大部分に及んでいた証となります。つまり、「前方後円墳の分布=ヤマト王権の統治範囲」です。こうしてヤマト王権は列島の大半を統治する政権へと成長していきました。

しかし、この時代は日本ではまだ文字が成立していなかったため、日本の4世紀に関する史料は、ほぼ皆無(七支刀の銘文、好太王碑文の2点のみ現存)となっています。ゆえに、どのようにしてヤマト王権が勢力を拡大し統一王権となっていったのか、明確なことはほとんどわかっていません。

3世紀の日本については大陸の歴史書「魏志倭人伝」である程度の様子をうかがい知ることができます。しかし、4世紀には大陸が動乱期に突入したため、日本に対する文字史料を残しておらず、次に日本が登場するのは5世紀を待たねばなりません。以上のようなことから、この時期を「謎の4世紀」「空白の100年」と呼んでいます。

古墳時代を代表する人物

以下より、古墳時代を代表する人物を5名ご紹介します。なお、この時代の人物情報に関しては不透明な部分が多く、様々な意見が錯綜していること、また神話的、伝説的要素も多分に含まれています。そういった要素も含めてのご紹介となることをご了承ください。

崇神天皇(すじんてんのう)

第10代崇神天皇

日本の第10代天皇。ヤマト王権の統治範囲を拡大した天皇として知られています。崇神天皇以前のヤマト王権は畿内を中心とした勢力でしたが、崇神天皇の御代にはその周辺諸国にまで統治範囲が及びました。ヤマト王権が日本列島各地へ統治範囲を広げていくための基盤を築いた天皇です。

日本武尊(やまとたける)

伊吹山頂の日本武尊像

南は九州、北は関東地方まで日本各地を飛び回り、ヤマト王権の統治範囲を大きく拡大した伝説的英雄。第12代景行(けいこう)天皇の息子であり、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の父親でもあります。戦闘能力に優れた武人である一方、父の景行天皇にその強さを警戒され遠ざけるために諸国へ派遣されたうえ、その道中で最愛の妻を失うなど、悲しき英雄としての一面も持っています。

神宮皇后(じんぐうこうごう)

神功皇后の肖像が採用された明治時代の1円紙幣

第14代仲哀天皇の皇后。仲哀天皇の崩御後、九州に兵を派遣し陣頭指揮を取ったり、妊娠しながらも海を越えて朝鮮半島をも服属(三韓征伐)させた女傑です。三韓征伐の後に出産した子供が、後に第15代応神天皇となります。明治時代にはお札の肖像にも採用されていました。

仁徳天皇(にんとくてんのう)

民のかまどの逸話で知られる
第16代仁徳天皇

第16代天皇。民の貧しさを改善するため徴税を停止し、自らも質素倹約に努めた「民のかまど」の逸話で知られ、その善政から「聖帝(ひじりのみかど)」とも呼ばれた名君。その他にも、治水や開墾などで民の暮らしを豊かにさせた古代日本を代表する天皇です。世界最大級の大仙陵古墳の被葬者とも言われています。

雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)

第21代雄略天皇

第21代天皇。武勇に優れ、反抗的な地方の豪族を蹴散らし、ヤマト王権の力を飛躍的に拡大させた天皇として知られています。以前のヤマト王権は地方豪族による連合体でしたが、雄略天皇の治世で天皇による中央政権体制が始まったとも言われています。

古墳時代の人々はどのような生活をしていたのか?

それでは以下より、古墳時代の衣食住を見ていきます。

当時の人々の服装は?

古墳時代の男性の服装(日本武尊像)

当時の人々の服装は、古墳から出土した人型の埴輪によってある程度推測できます。豪族などの一定以上の身分の者は、金色の装身具やきれいな玉を身に付けるなど、とてもオシャレに着飾っていました。

男女ともに衣(きぬ)と呼ばれる上衣を着用し、腰を帯で結んでいました。そして男性は褌(はかま)と呼ばれるゆったりしたズボンをはき、脛のあたりを足結(あしゆい)と呼ばれる紐で結んでいました。女性は裳(も)と呼ばれる長いスカートのようなものをはいていました。

また、男性は長髪を頭の両横で結んだ「美豆良(みづら)」という髪型、女性は長髪を頭のてっぺんで折りたたみ、リボンなどでまとめていました。

なお、当時の成人男性の平均身長は163センチ前後だったことが、出土した人骨などから判明しています。

食事は穀物が主食

古墳時代の人たちが食べていた粟

主食には米や稗、粟などの穀物を食べていました。古墳時代には竈(かまど)が導入されるようになり、竈の上に甕を設置してお湯を沸かしたり、穀物を蒸して食べていました。現代で言うところの「おこわ」のような状態にしていたようです。

おかずには、シカやイノシシの肉、タイやブリなどの海水魚からナマズやコイといった淡水魚、その他にも豆などの野菜類、スモモなどのフルーツ類も食べられていました。木の実を加工し、焼いてクッキーのようにして食べることもあったようです。

魏志倭人伝によると、古墳時代の人々は「高坏(たかつき)に食事を盛りつけ、手づかみで食べていた」と記されています。高坏とは、食事を盛るための脚つきの器です。多くの場合は、粘土を赤く焼いた土器(土師器)の高坏が使用されていました。

家は有名な竪穴式住居

竪穴式住居のイメージ

古墳時代の基本的な住まいは、いわゆる竪穴式住居でした。弥生時代の住まいとさほど大差はありません。屋根には草を葺き、低い穴を掘ってその上に住居を建てていました。竈を使う際に出る煙を排出するための煙突も完備していたようです。

なお竪穴式住居は、平安時代頃までは民衆の住まいとして活用されていました。また、纏向遺跡などからは高床式の建物も確認されています。これらは身分の高い人物が暮らしていた宮殿跡と見られています。

前方後円墳の特徴

葺石が施された前方後円墳(復元)

前方後円墳はその名が示す通り、手前側が方形(四角形)、後ろ側が円形(丸形)で構成された鍵穴のような形をした墳墓です。大量の土を盛り、表面を石で固めて(葺石)、周囲にはたくさんの埴輪(はにわ)を配していました。

横穴式石室の入口

内部には埋葬施設としての空間があり、ここに石棺を設え被葬者を埋葬していました。この空間は巨石で造られていることから「石室」と呼ばれています。

石室には、古墳上部が開いた竪穴式石室と、横から出入りできる横穴式石室の2種類が存在します。竪穴式石室は1人の埋葬を目的としていて、横穴式石室は出入りすることを目的としており、被葬者に近しい人物複数名を埋葬することができました。

被葬者はどんな人物?

被葬者をおさめた石棺

日本全国に存在する前方後円墳ですが、その被葬者はほとんどわかっていません。現在の大阪府や奈良県を中心に、宮内庁によって古代天皇、もしくは古代天皇に近しい人物の陵墓として治定されている前方後円墳もありますが、その人物が確実に埋葬されているかは判明していません。

また、宮内庁が管理している一部の巨大古墳は立ち入りが認められておらず、現状では発掘調査も不可能となっています。以上のようにそれぞれの被葬者を特定することは困難ですが、古代天皇か天皇に近しい人物、もしくは地方豪族の首長クラスに当たる人物やその身内など、身分の高い人物が埋葬されていることは間違いないとされています。

副葬品について

古墳時代の勾玉

故人を古墳に埋葬する際には、「副葬品」と呼ばれる品々も一緒に石室へと納められました。副葬品には太刀や甲冑などの武器防具、勾玉などの装飾品、馬具といったものまで様々なものがありました。これらは被葬者の持ち物であったり、あるいは被葬者を守護するための儀式に使われたものだったりと様々な意味を持っていました。

三角縁神獣鏡

また、副葬品のなかには「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」という鏡があります。数ある副葬品の中でも鏡は特に重要な意味を持っていて、被葬者はヤマト王権との強い繋がりを持った人物であったと考えられています。また、三角縁神獣鏡は日本国内でしか発見されておらず、日本独自の製法で造られたオリジナルの副葬品である可能性があります。

埴輪とは?

人型の埴輪

古墳時代を最も代表するものはもちろん前方後円墳ですが、埴輪(はにわ)の存在も欠かすことができません。

埴輪と一口に言っても、植木鉢にような形をした円筒埴輪を始め、壷や家など物の形をした形象埴輪、人の形をした埴輪、馬、鹿、水鳥など動物を模した埴輪など、実に様々な種類が発掘されています。このように、埴輪はとても個性的であり、古墳時代の文化を象徴するひとつの大事な要素でした。

墳丘上に復元配置された埴輪群

埴輪は古墳の全体を囲むように配置され、結界を作って古墳を守護するために用いられた、あるいは宗教的な儀式で用いられたなど、その用途には様々な意味があったとされています。特に円筒埴輪は、古墳の形状に合わせ列状にびっしりと配置されていました。

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