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徳川慶喜とはどんな人物?生涯・年表まとめ【大政奉還やその他功績、子孫や死因についても紹介】

徳川慶喜は徳川家第15代目の将軍であり、日本史上最後の征夷大将軍となった人物です。慶喜が将軍に就任した時点で江戸幕府は弱体化が進み、存続は不可能でした。慶喜は実権が徳川将軍家にある事を予想した上で、慶応3年(1867年)10月14日に政権を天皇家に返上。260年続いた江戸幕府を終わらせたのです。

詳しい事は後から話しますが、新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争が勃発した時、慶喜は形勢が不利になると戦地から退却。慶喜は幕府に忠誠を誓った人達から、裏切り者の烙印を押されたのでした。戊辰戦争後の慶喜は政務を執ることはなく、趣味に没頭する日々を送ったのです。

将軍に就任した頃の徳川慶喜

評価の難しい慶喜ですが、近年では「優れた人物だった」と再評価も進んでいます。確かに慶喜は幕府側の人間から見れば裏切り者かもしれません。しかし新しい時代を待ち望む人達からは、「国内の争いを最小限にとどめた人物」と評価できます。慶喜は立場の違いにより評価が大きく変わる為、歴史の解釈が1つではない事を知るのに良い人物なのです。

また慶喜は「家康の再来」と呼ばれる等、非常に聡明な人物でした。彼が幕末に行った政策は明治政府にも活かされています。明治を迎えた慶喜は、幕末の頃の事を多くは語りませんでした。だからこそ慶喜の真意は、残された資料や歴史から考察していくしかないのです。

今回は徳川慶喜に興味を持つあまり図書館に通い詰めてしまった筆者が、徳川慶喜の激動の生涯について紹介していきます。

徳川慶喜とはどんな人物か

名前徳川慶喜(一橋慶喜)
誕生日1837年10月28日
没日1913年11月22日
生地江戸・小石川の水戸藩邸
(東京都文京区)
没地文京区にある徳川慶喜公屋敷
(現在の国際仏教学大学院大学の敷地内)
配偶者一条美賀子
他側室が数名
埋葬場所谷中霊園(東京都台東区)

徳川慶喜の生涯をダイジェスト

軍服を着用した徳川慶喜

徳川慶喜の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1837年 小石川の水戸藩邸で誕生
  • 1847年 一橋家を相続する
  • 1853年頃 徳川家の後継問題が起こる
  • 1862年 文久の改革で将軍後見職に任命される
  • 1864年 禁門の変で守備軍を指揮する
  • 1866年 第15代徳川将軍に就任
  • 1867年 大政奉還により政権を返上。その後王政復古の大号令
  • 1868年 鳥羽伏見の戦いで逃亡し、その後謹慎
  • 1869年 謹慎を解除され、静岡に居住
  • 1902年 徳川慶喜家を興し、貴族院議員となる
  • 1910年 家督を七男・慶久に譲り隠居
  • 1913年 急性肺炎にて死去(享年77歳)

徳川慶喜が決断した大政奉還とは?その後幕府の行方

大政奉還図

大政奉還とは、政権を徳川家から朝廷に返上する事です。徳川慶喜は慶応3年(1867年)10月14日に政権を明治天皇に返上。幕末にかけて薩摩藩や長州藩は倒幕を主張し、天皇家の権威も大きくなっていました。

土佐藩の後藤象二郎は前藩主の山内容堂を通じ、「大政奉還建白書」を慶喜に提出。慶喜もこの案を採用します。政権を朝廷に返上しても、朝廷に政治能力はなく、徳川家が実質的な政治を行うと考えた為です。

同時に倒幕対象の幕府を先手を打って消滅させて、倒幕の大義を失わせる目的がありました。大政奉還後、慶喜は天皇の下に武家中心の議会を作り、三権分立等の制度も作るつもりだったようです。

大政奉還は国内の内乱を抑え、徳川家の権威を保つ為に効果的な策であり、慶喜の聡明さが伺えました。しかし薩長や一部の公家は自分達が政権を徳川家から奪いたいと画策し、王政復古の大号令を宣言。

慶喜は将軍職から引きずり降ろされます。慶喜の狙いは惜しくもクーデターという形で外れてしまい、幕府は完全に消滅します。そして明治という新しい時代がやってくるのでした。

徳川慶喜の家族構成や子孫は?子だくさんだった徳川慶喜

側室の一人である新村信

慶喜は水戸藩第9代藩主徳川斉昭の七男として誕生。斉昭は37人もの子をもうけた為、慶喜にはそれだけ兄弟がいます。慶喜は正室や数名の側室がおり、生涯を通じ10男12女をもうけています。妻達の関係は以下の通りです。

  • 一条美賀子(正室):本来結婚する予定の照姫が天然痘となり、代役として婚約。慶喜と不仲と言われ、授かった女子も夭折しています。
  • 一色須賀(側室):美賀子の女中を経て側室になりました。子は授かっていません。
  • 新村信(側室):明治維新後も慶喜の側室として仕え、五男五女をもうけます。
  • 中根幸(側室):同じく明治維新後に慶喜に仕えます。五男六女をもうけます。
  • お芳(妾):慶喜が戊辰戦争で大阪城から脱出した時に共に江戸に帰ったと伝わります。

慶喜の子の多くは夭逝し、成長したのは6男8女でした。慶喜は1902年に徳川慶喜家を興し、七男の慶久が跡を継ぎます。しかし慶久の孫である慶朝が2017年に死去した為、徳川慶喜家は断絶しました。

徳川慶喜の直系は断絶したものの、九男・誠の家系は現在にも続いています。更に娘達は勝海舟や松平春嶽の子息のもとに嫁いでおり、慶喜の血筋は多くの名門の家系に引き継がれていきました。

第16代当主家達と慶喜の血の繋がりはほとんどなかった!

徳川家宗家16代目当主の徳川家達

慶応4年(1868年)4月に慶喜は徳川家宗家の座を徳川家達に譲ります。宗家は一門の正嫡の家系であり、歴代将軍達を指します。ただ慶喜と家達の共通の先祖は家康の時代まで遡る為、2人は血の繋がりはほぼありません。

家達は、慶喜の前の将軍である家定や家茂と従弟関係にありました。血縁的には慶喜よりも将軍家に近く、後継の最有力候補でした。ただ家茂が亡くなった時、家達は僅か4歳。国難を乗り切る為に慶喜が将軍となったのです。

慶喜は後に多くの子をもうけるものの、将軍職を退く時には後継に出来る子はいませんでした。仮に子がいても、血縁的には歴代将軍より遠く、薩長からの圧力もあった情勢では、実子を宗家に継がせるのは難しかったでしょう。

結果的に徳川家宗家は家達が継ぎ、現在にも続いています。そして慶喜は後に自らの血筋である徳川慶喜家を興した事は先程述べた通りです。

写真撮影が趣味だった?地元ではケイキ様と呼ばれ親しまれる

徳川慶喜の撮影した写真

将軍職を退いた慶喜は悠々自適の生活を送り、特に写真撮影が趣味でした。写真雑誌にも投稿したものの、評価されなかったそうです。ただ当時はカメラが珍しく、(資料的価値として)慶喜の写真の再評価が進んでいます。

ちなみに「トリビアの泉」という番組で慶喜の写真をプロの写真家に批評してもらう企画がありましたが、そちらでも良い評価を得ていません。慶喜の写真は下手の横好きだったようですね。

また慶喜は写真撮影以外に本当に多くの趣味を持っていました。インドアとしては油絵・囲碁将棋・能楽・小鼓・手芸・弓術など。アウトドアとしては狩猟・釣り・鷹狩り・馬術・自転車などが知られています。

江戸と明治で慶喜は全く異なる生き方をしています。地元の人達からの信頼も厚く、慶喜の字を音読みにした「ケイキ」という名称で呼ばれていたそうです。趣味に生きる日々の方が慶喜には性に合っていたのかもしれません。

徳川慶喜の功績

功績1「禁門の変で幕府軍を指揮し、長州藩の勢力を壊滅させる」

禁門の変

1864年に長州藩は、薩摩藩・会津藩・桑名藩と京都御所周辺で武力衝突を起こします。この争いを禁門の変と呼び、慶喜は御所の守備軍の指揮を任されていました。

慶喜は長州の軍勢に対し、乗馬もせずに徒歩で勇猛果敢に斬り込みました。歴代徳川将軍で徒歩で斬り込んだのは慶喜が唯一です。その成果もあり、長州軍は壊滅し、しばらくの間勢力は衰えます。

慶喜の育った水戸藩も、禁門の変を起こした長州藩も、天皇を敬う勤皇精神を持っていました。しかし長州藩は過激な計画を次々と計画していた為、8月18日の政変で京都から追い出されてしまいます。

禁門の変とは京都を追い出された長州藩による抗議でしたが、彼らは御所に向けて発砲した為、朝廷の敵とみなされたのです。慶喜は勤皇精神を持っていたからこそ、長州藩が許せず果敢な行動に出たのでしょう。

功績2「江戸幕府最後の改革である「慶応の改革」を推進」

明治政府でも活躍する大鳥圭介

慶喜は1866年に将軍に就任し、江戸幕府最後の大規模な改革である慶応の改革に着手。以下の改革を行います。

  • 海軍・陸軍・会計・国内事務・外国事務の各総裁に老中を任命する五局体制を発足。それらを統括する老中を任命する事で、日本初の内閣制度を樹立。
  • 横須賀造船所をフランスの支援のもとで造設。後に数々の軍艦を作り、日本の軍事を支えた。
  • フランス軍事顧問官を招いて、新制陸軍の整備を行う。

慶応の改革は幕府を頂点とした中央集権国家体制を目指していました。1年で慶応の改革は頓挫するものの、内閣制度の構想の他、新制陸軍の中には大鳥圭介など明治政府に取り立てられた人材も多くいました。

横須賀造船所は1903年に横須賀海軍工廠と名前を変えます。この場所で作られた軍艦は日清戦争や日露戦争における日本の勝利に貢献しました。慶喜の改革は明治政府にも確実に活かされているのです。

功績3「新政府軍に恭順し、国内の争いを最小限に抑えた」

戊辰戦場址碑

鳥羽伏見の戦いにおいて慶喜は、幕府軍が不利になると、僅かな側近や妾を連れて京都から江戸へ敵前逃亡しています。その後も慶喜を朝廷の敵とする追討令が正式に下る中、慶喜はあくまでも恭順の意を示したのです。

慶喜の逃亡や恭順の姿勢は賛否が分かれるものの、仮に慶喜が徹底抗戦を唱えていればどうでしょうか?徳川家の城のある江戸は火の海となり、幕臣や民衆の犠牲は甚大だったと考えられます。

会津藩などの東北諸藩は戊辰戦争に巻き込まれるものの、江戸や京都の街は混乱は少ないままでした。

当時の日本は欧米列強の脅威に晒されており、一刻も早く、国内の意見を統一して国力の強化を図る必要がありました。国内で争っていては欧米につけ込まれる可能性があったからです。

慶喜は「裏切り者」の汚名を着せられるものの、あっさりと敗北を認めた事でスムーズに明治維新を迎えられました。もし全てを受け入れて逃亡したのなら、慶喜は日本における大恩人と言えるでしょう。

徳川慶喜の名言

骨が折れるので、将軍になって失敗するより最初から将軍にならない方が大いに良い

慶喜は将軍職に就く前にこのように述べていました。周囲の薦めで望まない大役を務めたとしても、何かあれば責任を問われるのは自分です。声を上げて反対する事が後の自分を救うことになります。

現在の私達にも通ずる名言ではないでしょうか?

これからはお前の道を行きなさい

大政奉還後、留学から帰国した渋沢栄一に対して慶喜がかけた言葉です。いつか来る分かれ道で、労いの言葉や励ましの言葉をかけられる事で人は救われます。

渋沢栄一は後に様々な功績を成し遂げますが、慶喜の言葉を思い出す事があったのかもしれません。

長州は最初から敵対していたから許せるが、薩摩は裏切ってゆるせない

上記の言葉は晩年に慶喜が語った本音です。元々薩摩藩は幕府寄りの立場にいたものの、後に幕府を裏切り長州藩と同盟を組みました。裏切られた事への不信感は暗い影をその人に落とします。

晩年に多くを語らなかった慶喜ですが、心の奥では深い葛藤があったのかもしれません。

徳川慶喜の人物相関図

こちら徳川将軍家の家系図です。家康の直系は7代将軍家継で一度断絶し、御三家の紀州藩から吉宗が候補として迎え入れられます。吉宗は御三卿を作り、家茂までは御三卿の清水家と一橋家の子孫が将軍職を務めています。

慶喜は御三家の水戸藩出身であり、家茂と共通の先祖は家康の時代まで遡ります。非常に遠い親戚だった事が分かりますね。

徳川慶喜にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「幼き頃から聡明で、徳川幕府最後の切り札だった」

徳川慶喜の父斉昭

幕末を通じて聡明な慶喜でしたが、実は幼少期から注目されていたのです。父斉昭の子息達は次々と養子に出されていました。しかし慶喜だけは嫡男である慶篤の控えとして手許に置く事を決めました。

更に当時将軍だった徳川家慶も、慶喜の聡明さに注目していたようです。家慶の子は多くが早世し、唯一星人になった家定も病弱でした。家慶は実の息子の代わりに慶喜に将軍職を継がせたいと考えていたようです。

その後も家定の病状が悪化して、将軍継嗣問題が起こると慶喜は有力な後継候補になっています。常に慶喜は幕府における切り札的な存在だったのです。

ただ慶喜は早くから幕府が持たない事を予測していました。周りが慶喜を将軍候補として祭り上げる中、「自分は将軍になりたくない」と斉昭に手紙を送っています。趣味に生きる方が慶喜の性格的には合っていたのでしょう。

都市伝説・武勇伝2「水曜日のダウンタウンで証明されたとある”説”」

2015年の時点では、徳川慶喜を生で見た事がある人がいた!

水曜日のダウンタウンは、お笑い芸人や芸能人が持ち寄った様々な説を立証する人気番組です。2015年に「徳川慶喜を生で見た事がある人まだギリこの世にいる説」が検証され、説が立証されました。

目撃証言は105歳だった女性で、東京の日本橋で慶喜が行列を連れて歩くのを見たというものです。専門家からはこの証言は歴史的価値があると証明されています。2015年の時点では、慶喜を生で見た人が存命だったのです。

なおこの回は、100歳以上の方々に取材をした為、慶喜以外にも大隈重信やマッカーサー、親が夏目漱石の教え子であったなど、非常な貴重な情報が得られており、非常に内容の濃いものでした。

結果的にこの回は、優れた番組を表彰するギャラクシー賞を受賞する事となりました。DVD化はされていないものの、再放送を待つか、paravi等で視聴出来るかもしれません。

都市伝説・武勇伝3「徳川慶喜が新政府軍に恭順した本当の理由とは?」

天皇から官軍の大将に与えられる錦の御旗

慶喜の最大の謎は鳥羽伏見の戦いにおける逃亡です。確かに慶喜が恭順の意を示した事で国内の争いは最小限に抑えられたものの、それは結果の話です。慶喜が逃亡した理由は未だに明らかになっていないのです。

理由は定かではないももの、慶喜が水戸藩出身という事は大きいと思います。水戸藩は勤皇精神に熱心で、父斉昭は「天皇を敬い、欧米列強を退ける」という尊王攘夷思想の急先鋒でした。水戸藩には以下の家訓がありました。

朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか、我等はたとえ幕府に反くとも、朝廷に向いて弓引くことあるべからず。これ義公(光圀)以来の家訓なり。

つまり朝廷に逆らうなら、幕府を裏切れという事ですね。鳥羽伏見の戦いで、新政府軍は「錦の御旗」という天皇に認められた証を掲げました。つまり新政府軍は官軍、幕府軍は朝敵という構図ができたのです。

水戸家の家訓が本当ならば、新政府軍が「錦の御旗」を掲げた時点で、慶喜は彼らに逆らう事は出来ません。水戸藩の人物を将軍に添えた時点で、徳川家の命運は尽きていたのかもしれませんね。

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