徳川慶喜の名言
骨が折れるので、将軍になって失敗するより最初から将軍にならない方が大いに良い
慶喜は将軍職に就く前にこのように述べていました。周囲の薦めで望まない大役を務めたとしても、何かあれば責任を問われるのは自分です。声を上げて反対する事が後の自分を救うことになります。
現在の私達にも通ずる名言ではないでしょうか?
これからはお前の道を行きなさい
大政奉還後、留学から帰国した渋沢栄一に対して慶喜がかけた言葉です。いつか来る分かれ道で、労いの言葉や励ましの言葉をかけられる事で人は救われます。
渋沢栄一は後に様々な功績を成し遂げますが、慶喜の言葉を思い出す事があったのかもしれません。
長州は最初から敵対していたから許せるが、薩摩は裏切ってゆるせない
上記の言葉は晩年に慶喜が語った本音です。元々薩摩藩は幕府寄りの立場にいたものの、後に幕府を裏切り長州藩と同盟を組みました。裏切られた事への不信感は暗い影をその人に落とします。
晩年に多くを語らなかった慶喜ですが、心の奥では深い葛藤があったのかもしれません。
徳川慶喜の人物相関図
こちら徳川将軍家の家系図です。家康の直系は7代将軍家継で一度断絶し、御三家の紀州藩から吉宗が候補として迎え入れられます。吉宗は御三卿を作り、家茂までは御三卿の清水家と一橋家の子孫が将軍職を務めています。
慶喜は御三家の水戸藩出身であり、家茂と共通の先祖は家康の時代まで遡ります。非常に遠い親戚だった事が分かりますね。
徳川慶喜にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「幼き頃から聡明で、徳川幕府最後の切り札だった」
幕末を通じて聡明な慶喜でしたが、実は幼少期から注目されていたのです。父斉昭の子息達は次々と養子に出されていました。しかし慶喜だけは嫡男である慶篤の控えとして手許に置く事を決めました。
更に当時将軍だった徳川家慶も、慶喜の聡明さに注目していたようです。家慶の子は多くが早世し、唯一星人になった家定も病弱でした。家慶は実の息子の代わりに慶喜に将軍職を継がせたいと考えていたようです。
その後も家定の病状が悪化して、将軍継嗣問題が起こると慶喜は有力な後継候補になっています。常に慶喜は幕府における切り札的な存在だったのです。
ただ慶喜は早くから幕府が持たない事を予測していました。周りが慶喜を将軍候補として祭り上げる中、「自分は将軍になりたくない」と斉昭に手紙を送っています。趣味に生きる方が慶喜の性格的には合っていたのでしょう。
都市伝説・武勇伝2「水曜日のダウンタウンで証明されたとある”説”」
水曜日のダウンタウンは、お笑い芸人や芸能人が持ち寄った様々な説を立証する人気番組です。2015年に「徳川慶喜を生で見た事がある人まだギリこの世にいる説」が検証され、説が立証されました。
目撃証言は105歳だった女性で、東京の日本橋で慶喜が行列を連れて歩くのを見たというものです。専門家からはこの証言は歴史的価値があると証明されています。2015年の時点では、慶喜を生で見た人が存命だったのです。
なおこの回は、100歳以上の方々に取材をした為、慶喜以外にも大隈重信やマッカーサー、親が夏目漱石の教え子であったなど、非常な貴重な情報が得られており、非常に内容の濃いものでした。
結果的にこの回は、優れた番組を表彰するギャラクシー賞を受賞する事となりました。DVD化はされていないものの、再放送を待つか、paravi等で視聴出来るかもしれません。
都市伝説・武勇伝3「徳川慶喜が新政府軍に恭順した本当の理由とは?」
慶喜の最大の謎は鳥羽伏見の戦いにおける逃亡です。確かに慶喜が恭順の意を示した事で国内の争いは最小限に抑えられたものの、それは結果の話です。慶喜が逃亡した理由は未だに明らかになっていないのです。
理由は定かではないももの、慶喜が水戸藩出身という事は大きいと思います。水戸藩は勤皇精神に熱心で、父斉昭は「天皇を敬い、欧米列強を退ける」という尊王攘夷思想の急先鋒でした。水戸藩には以下の家訓がありました。
朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか、我等はたとえ幕府に反くとも、朝廷に向いて弓引くことあるべからず。これ義公(光圀)以来の家訓なり。
つまり朝廷に逆らうなら、幕府を裏切れという事ですね。鳥羽伏見の戦いで、新政府軍は「錦の御旗」という天皇に認められた証を掲げました。つまり新政府軍は官軍、幕府軍は朝敵という構図ができたのです。
水戸家の家訓が本当ならば、新政府軍が「錦の御旗」を掲げた時点で、慶喜は彼らに逆らう事は出来ません。水戸藩の人物を将軍に添えた時点で、徳川家の命運は尽きていたのかもしれませんね。
徳川慶喜の年表
1837年 – 0歳「徳川慶喜誕生」
徳川慶喜誕生
天保8年(1837年)9月に慶喜は江戸・小石川の水戸藩邸で生まれます。父は水戸藩主の徳川斉昭、母は吉子女王という皇族の女性です。慶喜は藩主だけでなく、皇族の血を受け継いだ人物でした。
斉昭は「江戸のような華美な場所で育つと、男の子はたくましく育たない」と考えていました。慶喜は生後7ヶ月で江戸から水戸に送られます。
斉昭の教育
慶喜が5歳の頃に藩校の弘道館が開校。慶喜は優秀な成績を収めました。ただ慶喜は学問より手裏剣等の武術を好み、度々斉昭から叱責されたようです。斉昭の厳しいしつけは以下の通りです。
- 衣食を質素にする(これは軽いです)
- 座敷牢に閉じ込め、食事を禁止する
- 火傷をする程お灸をすえる
- 寝相を治すため、枕の両端にカミソリを立てる。
カミソリのおかげで慶喜は寝相の寝相は治りました。慶喜は「どうせ自分が寝たらカミソリを取るんだろう」と考えており、聡明ながらどこか達観した人物だったようです。
1847年 – 11歳「一橋家の養子となる」
一橋家の養子になる
斉昭は慶喜の聡明さに注目し、嫡男慶篤の控えとして考えており、様々な家から養子の誘いがあっても断っていました。しかし弘化4年(1847年)に慶喜は遂に一橋家の養子となったのです。
一橋家は徳川吉宗が興した御三卿の1つで、当時の将軍徳川家慶の血筋でした。斉昭は一橋家に慶喜を養子に出せば、いつか慶喜が将軍になるかもしれないと考えたようです。
家慶に気に入られる
実は慶喜の名前は、幼少期が七郎麻呂で当時は昭致(あきむね)でした。慶喜という名前は、この年の12月に家慶から”慶”の名を貰った事で生まれた名前です。この頃の慶喜は徳川慶喜ではなく一橋慶喜と呼ぶのが正解です。
家慶は慶喜をとても可愛がり、後継にしたいと本気で考えていました。ですが時の老中首座阿部正弘に諌められいます。また斉昭も「七郎麻呂は英邁である」と噂をばらまいています。
慶喜が聡明であるという噂は、本人の知らぬところで一人歩きしていたので、慶喜にとっては気の毒な話ではありました。
1853年 – 17歳「黒船来航と将軍継嗣問題」
黒船来航
嘉永6年(1853年)6月にペリー率いる黒船が来航し、幕府に開国を迫りました。来航して3週間後に家慶は薨去し家定が第13代将軍となりました。脳性麻痺説もある家定には後継の見込みがなく、将軍継嗣問題が起こりました。
南紀派と一橋派の対立
この時に次期将軍候補になったのは以下の2人です。
- 一橋慶喜:水戸藩出身。家定との繋がりはほぼなし。一橋派と呼ばれる。
- 徳川慶福:御三家である紀州藩藩主。家定とは従兄弟。南紀派と呼ばれる。
一橋派の面々は老中首座の阿部正弘や徳川斉昭、薩摩藩主の島津斉彬等で、国難に対し聡明と誉れ高い慶喜を推挙したのです。南紀派の面々は井伊直弼等で、血筋に拘る事で幕府の権威を保とうとしました。
ただ慶福は1853年の時点で僅か7歳。とても将軍職は務まるはずがないと一橋派は主張し、両者は対立していくのです。ただ慶喜は前述した通り「将軍になりたくない」と述べており、迷惑に思っていたようです。
1858年 – 22歳「慶福の次期将軍が確定する」
一橋派の敗北
水面下で争いの続いていた継嗣問題ですが、1857年頃に家定の病状が悪化すると対立は激化します。阿部正弘・島津斉彬等の有力者が没し、南紀派の井伊直弼が大老になると、慶福が将軍になる事が決定しました。
安政5年(1858年)に直弼は天皇の勅許なく日米修好通商条約を調印。慶喜は斉昭や福井藩主の松平春嶽と共に、江戸城に登城し直弼に抗議しています。将軍職に興味はなくとも、天皇の許可なき条約調印は許せなかったようです。
安政の大獄
井伊直弼は条約調印や将軍継嗣問題に反対した者に対し、大規模な弾圧を断行。いわゆる安政の大獄です。斉昭は永蟄居(終身閉門)、慶喜も安政6年(1859年)に隠居謹慎処分が下ります。
なお慶喜の罪状はこれといってありません。登城停止を命じられたものの、一橋家は江戸城内にある為、矛盾しています。慶喜は身に覚えのない罪に立腹し、半ば意地になりながら進んで謹慎を受け続けました。
桜田問題の変
安政7年(1860年)3月に井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると、幕府は強硬論を改めます。慶喜は9月に謹慎が解かれるものの、面会や文通の制限は続きました。