1962年 – 26歳「将軍後見役に任命される」
文久の改革が行われる
文久2年(1862年)、薩摩藩主である島津茂久の父久光が、兵を率いて上京。朝廷から勅使を出させて幕府に政治改革を強要する計画が持ち上がります。
幕府はそれを察知し、安政の大獄に連座した人々の完全な赦免を実施します。慶喜の今までの制限も解除されました。結果的に薩摩の上洛を止める力が幕府にはなく、久光の要望をおおむね呑む事になりました。
久光は「徳川慶喜を将軍後見役に、松平春嶽を京都守護職に任命する事」を要求。慶喜は家茂の将軍後見役として表舞台に復活しました。また新たに京都守護職が任命され、会津藩主の松平容保が就任しています。
1862年 – 26歳「文久の改革を推進」
松平春嶽との協力体制を築く
将軍後見役となった慶喜は春嶽と文久の改革を実施。以下の改革を行います。
- 参勤交代を緩和。江戸に住む妻子の帰国を許可する
- 洋学研究の推進を図り、榎本武揚や西周を留学させる
- 軍事改革として幕府陸軍の設置と、西洋式兵制を導入する
ただこれらの改革を経て慶喜や春嶽、久光との意見の相違が浮き彫りとなり、両者は対立。また幕府は久光の上京を止める事が出来なかったため、幕府の権威は更に失墜したのです。
文久3年(1863年)、家茂は攘夷の実行について朝廷と協議する為に、徳川将軍家としては229年ぶりに入京する事が決まります。これも幕府の権威が衰えていた事を意味していました。
1863年 – 27歳「家茂に先駆けて上洛」
朝廷との直接交渉
攘夷について幕府は「出来るはずがない」という認識であり、慶喜は家茂より先に上洛し交渉を行います。慶喜は「攘夷を含めた国政全般を幕府に委任する」「政権を朝廷に返上し攘夷を朝廷に任せる」の二択を迫ります。
朝廷は「委任を幕府に委ねつつも、諸藩に直接命令をする事がある」と見解を表明。更に幕府は攘夷を命じられる等、交渉は失敗に終わります。
ただ家茂が朝廷から節刀(任命の印としての刀)を受け取ってしまうと、幕府は攘夷を約束させられます。慶喜は「家茂は風邪」と偽って上洛を中止させますが、文久4年(1864年)に上洛は行われ、攘夷を約束させられるのです。
久光・春嶽との対立
八月十八日の政変で過激派の長州藩が京都から一掃されると、朝廷の任命による参預会議が開かれます。慶喜は薩摩が徐々に力をつけている事を警戒。横浜港の鎖国を宣言し久光と対立します。
後に開かれた酒席で慶喜はわざと泥酔し「久光・春嶽・伊達宗城は天下の大愚物」と暴言を吐き、結果的に参預会議体制は崩壊しました。慶喜は徳川家の主導権を保持する為、手段を選ばぬ行動に出る事もありました。
1864年 – 28歳「禁裏御守衛総督に就任」
将軍後見役を辞任
参預会議体制崩壊後、慶喜は元治元年(1864年)3月に将軍後見役を辞任して禁裏御守衛総督に就任します。この役職は京都の御所を警備するものであり、慶喜は京都にいる幕府勢力の指導的役割となりました。
7月には禁門の変が起こり、功績1「禁門の変で幕府軍を指揮し、長州藩の勢力を壊滅させる」で述べた通り、抜刀して鎮圧にあたっています。
天狗党の鎮圧へ
この時期尊王攘夷運動は激化しており、3月には水戸藩では天狗党が結成。天狗党は各地で放火や金品の強奪をして周り、北関東を恐怖に陥れます。やがて幕府の追討軍が天狗党を鎮圧し、各地で争いが起きました。
天狗党は禁裏御守衛総督であり同郷の慶喜を通じて、尊王攘夷の志を朝廷に訴える事を決意。京都に向かうものの、慶喜は討伐軍として出動しています。慶喜は京都を守る立場であり、同郷でも天狗党とは相入れませんでした。
天狗党は慶喜を支持し、慶喜の後ろ盾でもありました。しかし慶喜は天狗党を見限る等、情勢を見抜く冷静さを持っていました。天狗党は首脳者352人が斬首され、水戸藩の勢力は壊滅。水戸での慶喜の信頼も失墜しました。
1866年 – 30歳「家茂死去」
2度の長州征伐
禁門の変の処分の為、幕府は第一次長州征伐を断行。征伐後に慶喜は条約調印の勅許を孝明天皇から得る為に奔走します。この時の交渉のお陰で、幕府は神戸以外の開港の勅許を得る事に成功しています。
慶応2年6月に第二次長州征伐が行われるものの、この時点で薩摩は長州と秘密裏に薩長同盟を締結しています。薩摩は出兵を拒否したため、幕府は長州に連敗します。
家茂死去
間の悪い事に7月に家茂は大阪城で薨去します。慶喜は朝廷から休戦の勅許を得て、休戦協定の締結に成功します。戦いは終わったものの幕府の事実上の敗退であり、幕府の滅亡をほぼ決定づけました。
次期将軍には家茂の推した田安亀之助(後の家達)を支持する声も多く、慶喜は同郷の水戸藩からも支持を失っていました。結果的に老中達は慶喜を推すものの、慶喜は再三拒否。12月にようやく将軍になったのです。
1866年 – 30歳「第15代将軍に就任」
四侯会議
ようやく将軍になった慶喜ですが、同年に後ろ盾だった孝明天皇が崩御します。それでも慶喜は朝廷との連携を重視し、江戸ではなく畿内に幕臣を呼び寄せる等の行動を見せています。
慶喜は 功績2「江戸幕府最後の改革である「慶応の改革」を推進」で挙げた改革を実施し、幕府の立て直しを図ります。更に慶喜は、一刻も早い神戸開港の許可を朝廷から得る必要があると考えていました。
慶応3年(1867年)5月、慶喜は島津久光・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城と四侯会議を開催。慶喜以外の4人は長州に穏便な態度を幕府に取らせ、諸藩の賛同を得る事で神戸の開港をスムーズに運ぶ事を考えていました。
しかし慶喜はあくまでも神戸の開国の勅許を優先し、徹夜で会議に望んでいます。会議は慶喜の大勝利に終わりますが、朝廷は慶喜に不信感を持ち、薩摩は武力による倒幕に路線を変更。朝廷と薩摩は距離を縮めていきます。
慶喜の聡明さと頑固さが逆に幕府の寿命を縮めたのでした。
1867年 – 31歳「大政奉還と王政復古の大号令」
山内容堂からの進言
倒幕路線に傾いた薩摩と違い、土佐藩はあくまでも徳川家に歩み寄ります。6月に後藤象二郎は坂本龍馬の進言した大政奉還を容堂に進言。容堂は妙案と考え、後日慶喜に大政奉還を建白しました。
その頃、薩摩長州の不審な動きを慶喜は察知していました。慶喜は「倒幕すべき幕府はもうない」と薩長の攻撃をかわす為、大政奉還を受け入れます。10月14日に大政奉還が実現し、政権は朝廷に返上されました。
王政復古の大号令
政権が朝廷に返上されても徳川家が事実上政権を担う事は明白でした。自分達が政権を担いたい薩長は朝廷を制圧し、12月に王政復古の大号令を宣言。慶喜の辞官納地(内大臣辞任と幕府領の返納)を取り決めます。
ですがこの時点では薩長の行動が強引と批判する声も多く、年末には慶喜の新政府への参画は確定します。薩摩は旧幕府軍を挑発して武力衝突に持ち込み、慶応4年(1868年)1月には鳥羽伏見の戦いが勃発したのです。
1868年 – 32歳「敵前逃亡と旧幕府軍の敗北」
鳥羽伏見の戦い
慶喜はこの戦いを「徳川家と薩摩藩の私戦」と考えていました。しかし旧幕府軍は新政府軍に敗北。更に新政府軍は「錦の御旗」を掲げました。新政府軍が官軍、旧幕府軍が朝敵という構図ができたのです。
慶喜は以下の言葉を旧幕府軍に伝えました。
千兵が最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ
しかし慶喜は側近や妾を連れて、陣中から逃亡し江戸城に逃げ帰ります。旧幕府軍は継戦意欲を失い総崩れとなりました。
朝敵の汚名を着せられる
西郷隆盛ら一部の過激派は慶喜を処刑するつもりであり、慶喜を朝敵とする追討令が出されました。2月には勝海舟に事態収束を任せ、慶喜は寛永寺に謹慎。宗家の座も田安亀之助に譲りました。
4月には西郷隆盛と勝海舟の間で交渉が行われ、江戸総攻撃は回避。江戸城は無血開城となり、慶喜の処刑も回避されます。慶喜はその後も5月には水戸、7月には駿府(現静岡)で謹慎を続けました。
1869年 – 33歳「謹慎が解除され、静岡に居住する」
明治時代の幕開け
明治2年(1869年)9月に戊辰戦争は終結し、慶喜の謹慎も解除されます。その後も慶喜は静岡で住み続けました。隠居手当を元手に、前述した通り写真撮影などの趣味に没頭する日々を送りました。
ただ旧家臣達の困窮にも無関心で、渋沢栄一など一部の家臣にしか会う事はなく、慶喜を怨む声も少なくありませんでした。慶喜は不平士族による内乱に担ぎ上げられないよう、野心のない姿を示していたのです。
お茶目な慶喜
明治期の慶喜は幕末の切れ者だった頃とは違い、お茶目なエピソードも数多く残されています。
- 自転車に乗っている時に美人に見とれて電柱にぶつかる
- 顕微鏡で大好きなきな粉を覗くと虫だらけでトラウマになる
なお、静岡の地では正妻の美賀子の他、側室2人も招かれています。側室2人は21人の子を産み、生まれた子は美賀子が母親として育てたそうです。
1902年 – 66歳「徳川慶喜家を興す」
明治天皇に謁見する
明治30年(1897年)には静岡から東京巣鴨に移り住み、翌年には明治天皇にも謁見しています。その後は1901年に小石川区(現文京区)にある高台の屋敷に転居し、そこが慶喜の終の住処となりました。
徳川慶喜家を興す
明治35年(1902年)に慶喜は爵位の第1位である公爵となります。爵位を得ると当時は貴族院議員に就任できた為、慶喜は30年以上経ち、政治の場に関与すると事が出来ました。
更には徳川家宗家とは別に「徳川慶喜家」を興す事が認められます。更に慶喜は正式に「維新の功労者」と明治天皇から認められたのでした。
1913年 – 77歳「徳川慶喜死去」
政界から引退し、再度隠居する
政界には興味がなかったのか、これといった事はせぬまま明治43年(1910年)に慶喜は家督を七男の慶久に譲り、貴族院議員を辞職します。再び慶喜は隠居生活に入り、趣味に没頭する日々を送っています。
徳川慶喜死去
大正2年(1913年)11月22日、慶喜は急性肺炎を併発した風邪にて77歳で死去します。時は既に大正時代を迎えていました。
この頃には島津久光や松平春嶽、山内容堂等の藩主やご隠居達も亡くなり、幕末志士達の多くも世代交代が進んでいました。慶喜は長生きをする事で、自らの汚名を返上出来たのかもしれませんね。