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張作霖爆殺事件とは?起こった背景やその後の影響までわかりやすく解説

張作霖爆殺事件は、今から100年ほど前に中国で起きた事件です。日本近現代史には数多くの事件が起こりましたが、この事件はその中でも特筆すべきものでした。なぜなら、この事件が日中戦争、そして太平洋戦争へと続くきっかけになってしまった事件だからです。

張作霖爆殺現場

死者数で事件の重さを決めるべきではありませんが、この事件は張作霖を含めて数名の死者が出ただけであり、甚大な死傷者が出た事件は他にもたくさんありました。では、なぜこの事件がそれほど日本の近現代史に大きな影響をもたらす事件になったのでしょうか?

この記事では、事件についての概要を解説するとともに、歴史的な背景やこの事件によるその後の影響、そして最新の首謀者説についても紹介していきます。

謎を呼ぶ張作霖爆殺事件とは

張作霖

張作霖爆殺事件の概要

爆破が起きた地点

張作霖爆殺事件とは、1928年6月4日、汽車で移動中の張作霖が奉天郊外で爆殺された事件のことです。張作霖たち軍閥を中心とした北京政府を倒そうと、蒋介石が各地にいた軍閥と戦い、統合しようとする「北伐」軍が北に進軍してきたため、張作霖は奉天(現在の瀋陽)に引き揚げる最中に事件は起こりました。

満州国時代の奉天駅(東京駅をデザインした辰野金吾の学生が設計にあたったので東京駅と似ている)

張作霖は瀕死の状態で助け出されましたが、二時間後に息を引き取ります。張作霖の事件直後の状況を伝える当時の中国の新聞には、「口と鼻を全部爆発で失い、顔から血肉が垂れ下がって」いたとあります。これでは救命処置も難しかったことでしょう。享年56歳でした。

張作霖爆殺事件地図

首謀者とされる関東軍参謀河本大作大佐らへの処分は甘いものでした。真相は隠され、太平洋戦争終結までは満洲某重大事件と呼ばれていました。日本の国民に真相が明らかになったのは、太平洋戦争後の東京裁判においてでした。

事件が起こった背景

張作霖爆殺事件を伝える当時の新聞

協調外交から強硬外交へ

1924年以降の日本の外交政策は、外務大臣を務めた幣原喜重郎の名前からとった「幣原外交」と呼ばれる協調外交でした。ワシントン会議以降、イギリス・アメリカとの武力対立を避け、中国の内政には不干渉とする方針を掲げた外交政策です。しかしこの方針は「軟弱外交」であるとして不満の声が強く、世論も軍事行動を支持するようになります。

山東出兵の兵士のために募金を募る様子

そして成立した田中義一内閣では、田中首相が外務大臣を兼任し、中国への武力行使へと舵を切る強硬外交へと方針を転換しました。具体的には、蒋介石率いる国民革命軍の北伐に対し、中国にいる日本人を守るという目的に加えて張作霖を支援するという意図もあり、山東省へ軍隊を派遣する山東出兵を行います。

邪魔者扱いされ始めた張作霖

押さえておきたいのは、日本政府の方針はあくまで張作霖の勢力を守ることであった、ということです。そこで張作霖が率いる軍の敗色が濃くなると、田中内閣は張作霖に奉天に戻るように指示を出し、張作霖もそれに従うために列車に乗って奉天へと向かったのです。

政治家時代の田中義一

しかし関東州と南満州鉄道の警備を任務としていた関東軍と、北京政界に進出した頃から権力を持ち始めた張作霖との間では、満洲権益をめぐって関係が悪化していました。張作霖によって満洲の権益が脅かされるなら、張作霖を排除して満洲を関東軍の支配下に置いた方が良いと、関東軍は考えるようになったのです。

一般的な「河本大作首謀説」

関東軍高級参謀として司令部のある奉天に赴任していた河本大作

張作霖爆殺事件については、今日では一般的に、関東軍高級参謀であった河本大作が首謀者であったと考えられています。事件が起きた当初も、日本政府では河本による犯行ではないかと考えられていましたが、決定的な証拠がありませんでした。

戦後になって河本の犯人説が大きく取り沙汰されるようになったきっかけの一つが、1954年に発表された「河本大佐の手記」です。これは河本大作の義弟にあたる作家・平野零児が河本の口述を元に記したものと考えられ、現在は青空文庫で自由に読むことができます。

もう一つが、極東国際軍事裁判(東京裁判)における田中隆吉陸軍少将の証言です。田中隆吉は東京裁判で天皇の戦争責任回避のためとして、数々の重要な証言をした人でした。彼の張作霖爆殺事件に関する証言は、爆発の方法や関係した人物名などが具体的で信憑性があると言われています。そしてこの事件に関しては、河本大作が首謀者であるという一貫した証言でした。

事件当時は北京大使館付武官補であった田中隆吉大尉

そして1990年に公表された「昭和天皇独白録」と、2019年に一部が公開された、初代宮内庁長官田島道治が昭和天皇との対話を書き残した「拝謁記」では、昭和天皇が太平洋戦争敗戦のきっかけとして張作霖爆殺事件を挙げていました。そしてそこには、「首謀者である河本を処罰」するべきだという昭和天皇の考えがはっきり書かれていました。

昭和天皇独白録

また、河本大作の子孫の方々も、首謀者が河本大作であることを疑っていません。家に伝わっている話として、事件の頃、河本が盲腸の手術をする際に、麻酔をするとうわ言で何か話してしまうと怖いので、麻酔をせずに手術を受けたというエピソードがあるそうです。ひどく生々しく、張作霖爆殺事件が河本の手によるものだったことを想起させられます。

事件の影響

張作霖爆殺事件から4年後に建国された満州国

張学良は日本から離れて国民政府軍に合流

関東軍は張作霖を殺害することで満洲を占領できると考えていましたが、奉天軍閥を継いだ張作霖の息子・張学良は、中国は統一されるべきという考えを持っており、対立していた蒋介石との提携を決めたため、事態は思わぬ方向へ進みました。結局満洲は国民政府の一部となります。

張学良

さらに張学良は、満洲の支配を強めるため、南満州鉄道などの権益を中国へ取り戻そうと活動を始めます。いわゆる国権回復運動です。「満蒙は日本の生命線」と主張する関東軍はこれに強く反発し、1931年9月18日に南満州鉄道線路を奉天郊外で爆破する柳条湖事件を引き起こします。そして奉天における張学良の拠点を攻撃するのです。

柳条湖事件直後の現場

そして1932年3月、関東軍参謀石原莞爾らの計画によって、事実上の日本の傀儡国家として満州国が建国されるに至りました。

中国国内での抗日運動の激化

関東軍が意を決して実施した張作霖爆殺事件でしたが、結果的に日本にメリットのないものとなりました。そればかりか、張学良が日本の意思と反して国民政府側についたため、抗日運動が激化していきます。父・張作霖の爆殺事件は関東軍の仕業と知っていた張学良が、日本憎しの思いからこのような行動にでたと考えられます。

中華民国の国旗「青天白日旗」

張学良が、これまで使っていた軍閥の旗の代わりに、中華民国の国旗「青天白日旗」を掲げたことで(これを「易幟」といいます)抗日運動はさらに熱を帯びたようです。この状況が、さらに関東軍を焦らせ、暴走させてしまうきっかけになったと言えるでしょう。

田中義一内閣の総辞職

張作霖爆殺事件当時旅順にあった関東軍司令部跡(現・関東軍旧蹟博物館)

事件で爆殺された張作霖は当時の国家元帥です。重大事件であったためすぐに調査が入り、当時の首相・田中義一に報告が入ります。田中は、関東軍が起こした事件である可能性が高いことを昭和天皇に上奏し、詳しい調査の内容が分かり次第また天皇に報告するつもりでいました。この時点で田中は、首謀者を軍法会議にかけて処罰し、支那には遺憾の意を表すつもりだったようです。

1928年に実施された、普通選挙法に基づく初の選挙で使われた立憲政友会のポスター

ところが、田中が総裁を務めていた立憲政友会からは、軍隊は天皇のものなので、事件を起こしたのが関東軍とわかれば天皇の名を汚すことになるから、この事件はうやむやにしてほしいという意見が出ます。また、陸軍からも、勝手にやったことは良くないが志は立派だから厳罰に処すべきではないといった声が上がりました。

元帥会議のメンバーの一人であった上原勇作

閣議でも、天皇の最高軍事顧問として機能していた元帥会議でも、陸軍と同様の趣旨の意見が上がります。一方、元老として大きな力を持っていた西園寺公望は、国際的な信用を得るためにも、首謀者はきちんと処罰して軍の綱紀を守るようにと田中に伝えました。

こうした様々な意見の板挟みになった田中は、熟慮を重ねた上、昭和天皇に陸軍には犯人はいないといった不明瞭な報告をします。

それを聞いた昭和天皇は、前と話が違うと怒りを露わにし、田中に辞表を書いてはどうかと言います。田中はそれを受けて職を辞することを決め、発案者とされている村岡長太郎関東軍司令官を予備役に編入させ、実行者とされている河本大作関東軍参謀を停職とする処分を決めた後で、総辞職したのです。

村岡長太郎

この件に関しては、昭和天皇が後に「独白録」で、田中に辞表を書いてはどうかといった発言をしたことは若気の至りであったと述べています。また河本大作が、もし軍法会議を開いて訊問するなら、日本の謀略を暴露すると言ったので、軍法会議は取りやめになったという裏事情も明らかになりました。

軍部暴走のきっかけ

田島道治の残した拝謁記

一般的に、張作霖爆殺事件は日中戦争・太平洋戦争へと続く発端になったものと認識されています。実際に昭和天皇も、この事件の対処を徹底的に行わなかったことが、敗戦に至る禍根の発端であったと繰り返し話し、悔やんでいたことが「拝謁記」にも記されています。

昭和天皇は、この時にもし厳罰を下す判断をしていたら、つまり天皇の持つ統帥大権を行使して首謀者を軍法会議にかけることができていたならば、といった話をしていたようです。そして「(自分が)命じれば軍は言うことを聞いたであろう」と昭和天皇自身が述懐しています。

つまり、張作霖爆殺事件の起きた当時なら、まだ軍部の暴走を止める可能性が残されていたということでしょう。昭和天皇だけではなく、昭和天皇の輔弼を務めていた元老の西園寺公望も健在でした。西園寺公望はアメリカやイギリスと協調していくべきという考えの持ち主であり、後には満州国建国にも反対しています。

西園寺公望

首相の田中義一も陸軍軍人出身であったものの、現役を退いていたこともあって陸軍内部を抑えることができませんでした。軍法会議にかけるべきという自らの主張を曲げる形で事件の幕引きを図り、総辞職したため、結果的に軍部の思い通りに事態が動いてしまったのです。

若槻礼次郎

これ以後、軍部はあらゆる形で暴走を始めます。張作霖爆殺事件と同じく、関東軍の謀略で引き起こされた柳条湖事件の際も、当時の日本を率いていた若槻礼次郎内閣は不拡大方針を打ち出していたものの、関東軍はそれを無視して軍事行動に拡大します。昭和天皇や西園寺公望も、イギリスやアメリカとの軍事衝突に発展しないとわかると、関東軍の行動を追認していくことになるのです。

近年挙げられている犯人説

張作霖と息子の写真

ソ連特務機関による犯行説

1991年にソビエト連邦が崩壊したことがきっかけで、今まで公開されていなかった旧ソ連の諜報機関による謀略が明らかになりました。そして張作霖爆殺事件にもソ連が関わっていたことが2005年に出版された「MAO」という本で触れられていて、大きなニュースとなります。日本では講談社から翻訳本が出版されました。

ここには、スターリンの命令によって計画実行され、日本軍の仕業に見せかけたと書かれています。ソ連の陰謀説の根拠として、張作霖が反共主義であり、ロシアが満洲に建設していた東清鉄道に横槍を入れようとしていたことが挙げられます。張作霖爆殺事件を調査していたイギリスも、ソ連が張作霖を殺害したい動機を持っていたことを指摘していました。

東清鉄道路線図

この真偽についてはまだ定かではありません。ソ連の謀略とした場合の状況証拠はいくつも挙げられますが、決定的なソ連側の資料がなく、日本史の教科書でも取り上げられていません。

張学良説

張作霖爆殺事件に関しては、息子の張学良が引き起こしたのではないかとする説もあります。この事件後、張学良は敵方であった中国国民党につくわけですが、事件より1年ほど前の蒋介石の日記に、張学良は中国国民党に入党したという記載があるのです。つまり、張学良は父である張作霖と意見を異にしていて殺害したのではないかというわけです。

蒋介石

張作霖爆殺事件当日は張学良の誕生日で、北京で誕生日パーティが開かれていました。そこに参加していた愛新覚羅溥傑(後に満州国皇帝に祭り上げられる愛新覚羅溥儀の弟)が、張学良の様子について、少しも動揺していなかったと述べています。単に張学良に情報が伏せられていたのか、予期した出来事であったのか、憶測を呼ぶ話です。

愛新覚羅溥傑は侯爵嵯峨家の長女・浩を妻に迎えた

張学良のバックにコミンテルン(共産主義インターナショナル)がいたのではないかという説もありますが、そもそも日本側には張作霖を殺害してもメリットがほとんどなく、その見地から立つと張学良が起こした事件という論理は成り立つかもしれません。

しかし、張学良が1990年にNHKの取材を受けたとき、父を殺した日本に対する憎しみをはっきりと言葉にしています。そうした状況もあってか、張学良が張作霖爆殺事件を起こしたという説は、それほど大きく取り上げられていません。なお、この時の取材内容は、「張学良の昭和史最後の証言」という本にまとめられています。

張作霖爆殺事件については、河本大作犯行説の証言が多すぎて、逆に奇妙な印象を受けます。ここまで出揃うと、逆に用意された話だったのではないか?と思ってしまうほどです。そのため、事件後100年近く経った今でも、様々な犯人説が浮上しているのでしょう。

張作霖爆殺事件に関するまとめ

「昭和天皇独白録」には、第一章「大東亜戦争の遠因」として冒頭に張作霖爆殺事件が挙げられています。「拝謁記」には全体的に昭和天皇の戦争への悔恨が綴られていますが、田島道治は昭和天皇がこの事件に対する処断を悔やんでいたとを強い信念で繰り返し話していたと記しています。

事件勃発から100年経った今でも、張作霖爆殺事件は、意味を問い直すべき価値のある事件です。なぜ軍部の暴走を止めることができなかったのか?情報が操作されていたとはいえ、背景には軍の行動を熱狂的に支持していた世論の力もありました。二度と同じ過ちを繰り返さないためにも、この事件をぜひ多くの人に見つめ直して欲しいと思います。

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