張作霖爆殺事件は、今から100年ほど前に中国で起きた事件です。日本近現代史には数多くの事件が起こりましたが、この事件はその中でも特筆すべきものでした。なぜなら、この事件が日中戦争、そして太平洋戦争へと続くきっかけになってしまった事件だからです。
死者数で事件の重さを決めるべきではありませんが、この事件は張作霖を含めて数名の死者が出ただけであり、甚大な死傷者が出た事件は他にもたくさんありました。では、なぜこの事件がそれほど日本の近現代史に大きな影響をもたらす事件になったのでしょうか?
この記事では、事件についての概要を解説するとともに、歴史的な背景やこの事件によるその後の影響、そして最新の首謀者説についても紹介していきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
謎を呼ぶ張作霖爆殺事件とは
張作霖爆殺事件の概要
張作霖爆殺事件とは、1928年6月4日、汽車で移動中の張作霖が奉天郊外で爆殺された事件のことです。張作霖たち軍閥を中心とした北京政府を倒そうと、蒋介石が各地にいた軍閥と戦い、統合しようとする「北伐」軍が北に進軍してきたため、張作霖は奉天(現在の瀋陽)に引き揚げる最中に事件は起こりました。
張作霖は瀕死の状態で助け出されましたが、二時間後に息を引き取ります。張作霖の事件直後の状況を伝える当時の中国の新聞には、「口と鼻を全部爆発で失い、顔から血肉が垂れ下がって」いたとあります。これでは救命処置も難しかったことでしょう。享年56歳でした。
首謀者とされる関東軍参謀河本大作大佐らへの処分は甘いものでした。真相は隠され、太平洋戦争終結までは満洲某重大事件と呼ばれていました。日本の国民に真相が明らかになったのは、太平洋戦争後の東京裁判においてでした。
事件が起こった背景
協調外交から強硬外交へ
1924年以降の日本の外交政策は、外務大臣を務めた幣原喜重郎の名前からとった「幣原外交」と呼ばれる協調外交でした。ワシントン会議以降、イギリス・アメリカとの武力対立を避け、中国の内政には不干渉とする方針を掲げた外交政策です。しかしこの方針は「軟弱外交」であるとして不満の声が強く、世論も軍事行動を支持するようになります。
そして成立した田中義一内閣では、田中首相が外務大臣を兼任し、中国への武力行使へと舵を切る強硬外交へと方針を転換しました。具体的には、蒋介石率いる国民革命軍の北伐に対し、中国にいる日本人を守るという目的に加えて張作霖を支援するという意図もあり、山東省へ軍隊を派遣する山東出兵を行います。
邪魔者扱いされ始めた張作霖
押さえておきたいのは、日本政府の方針はあくまで張作霖の勢力を守ることであった、ということです。そこで張作霖が率いる軍の敗色が濃くなると、田中内閣は張作霖に奉天に戻るように指示を出し、張作霖もそれに従うために列車に乗って奉天へと向かったのです。
しかし関東州と南満州鉄道の警備を任務としていた関東軍と、北京政界に進出した頃から権力を持ち始めた張作霖との間では、満洲権益をめぐって関係が悪化していました。張作霖によって満洲の権益が脅かされるなら、張作霖を排除して満洲を関東軍の支配下に置いた方が良いと、関東軍は考えるようになったのです。