事件の最大受益者は?
実は張作霖が殺害されて一番得した人物は誰か?というと、実は息子の張学良と中国共産党だといわれています。張学良は中国共産党と繋がっており、1935年に共産党へ入党申請していたのです。
1936年に蒋介石は中国共産党を壊滅危機まで追い詰めるものの、張学良が蒋介石に共産党との協力を約束させています。結局張学良が指導者となって得をしたのはソ連と中国共産党でした。
近年挙げられている犯人説
ソ連特務機関による犯行説
1991年にソビエト連邦が崩壊したことがきっかけで、今まで公開されていなかった旧ソ連の諜報機関による謀略が明らかになりました。そして張作霖爆殺事件にもソ連が関わっていたことが2005年に出版された「MAO」という本で触れられていて、大きなニュースとなります。日本では講談社から翻訳本が出版されました。
ここには、スターリンの命令によって計画実行され、日本軍の仕業に見せかけたと書かれています。ソ連の陰謀説の根拠として、張作霖が反共主義であり、ロシアが満洲に建設していた東清鉄道に横槍を入れようとしていたことが挙げられます。張作霖爆殺事件を調査していたイギリスも、ソ連が張作霖を殺害したい動機を持っていたことを指摘していました。
この真偽についてはまだ定かではありません。ソ連の謀略とした場合の状況証拠はいくつも挙げられますが、決定的なソ連側の資料がなく、日本史の教科書でも取り上げられていません。
張学良説
張作霖爆殺事件に関しては、息子の張学良が引き起こしたのではないかとする説もあります。この事件後、張学良は敵方であった中国国民党につくわけですが、事件より1年ほど前の蒋介石の日記に、張学良は中国国民党に入党したという記載があるのです。つまり、張学良は父である張作霖と意見を異にしていて殺害したのではないかというわけです。
張作霖爆殺事件当日は張学良の誕生日で、北京で誕生日パーティが開かれていました。そこに参加していた愛新覚羅溥傑(後に満州国皇帝に祭り上げられる愛新覚羅溥儀の弟)が、張学良の様子について、少しも動揺していなかったと述べています。単に張学良に情報が伏せられていたのか、予期した出来事であったのか、憶測を呼ぶ話です。
張学良のバックにコミンテルン(共産主義インターナショナル)がいたのではないかという説もありますが、そもそも日本側には張作霖を殺害してもメリットがほとんどなく、その見地から立つと張学良が起こした事件という論理は成り立つかもしれません。
しかし、張学良が1990年にNHKの取材を受けたとき、父を殺した日本に対する憎しみをはっきりと言葉にしています。そうした状況もあってか、張学良が張作霖爆殺事件を起こしたという説は、それほど大きく取り上げられていません。なお、この時の取材内容は、「張学良の昭和史最後の証言」という本にまとめられています。
張作霖爆殺事件については、河本大作犯行説の証言が多すぎて、逆に奇妙な印象を受けます。ここまで出揃うと、逆に用意された話だったのではないか?と思ってしまうほどです。そのため、事件後100年近く経った今でも、様々な犯人説が浮上しているのでしょう。
張作霖爆殺事件と柳条湖事件の違い
歴史の授業でも、張作霖爆殺事件と柳条湖事件を混合してしまう人も多いのではないでしょうか?同じ爆発事件であるため混合してしまいがちですので、柳条湖事件を簡単に紹介します。
柳条湖事件は1931年に満州の奉天で、日本が所有する南満州鉄道の線路が爆発された事件です。日本軍はこれを中国軍の犯行と発表。これを口実に日本軍は中国軍への攻撃を開始しています。この事件がきっかけで満州事変が起こりました。
張作霖爆殺事件後、張学良が抗日路線を取り南満州鉄道への対抗策として満鉄と並行した路線を作ります。そのため満鉄は経営不振となり赤字に陥っています。その上1929年の世界恐慌の影響を受け、日本も「昭和恐慌」と呼ばれる深刻な経済不況に陥りました。そのため日本が中国を支配するための口実として実行したといわれています。
張作霖爆殺事件に関するまとめ
「昭和天皇独白録」には、第一章「大東亜戦争の遠因」として冒頭に張作霖爆殺事件が挙げられています。「拝謁記」には全体的に昭和天皇の戦争への悔恨が綴られていますが、田島道治は昭和天皇がこの事件に対する処断を悔やんでいたとを強い信念で繰り返し話していたと記しています。
事件勃発から100年経った今でも、張作霖爆殺事件は、意味を問い直すべき価値のある事件です。なぜ軍部の暴走を止めることができなかったのか?情報が操作されていたとはいえ、背景には軍の行動を熱狂的に支持していた世論の力もありました。二度と同じ過ちを繰り返さないためにも、この事件をぜひ多くの人に見つめ直して欲しいと思います。