一般的な「河本大作首謀説」
張作霖爆殺事件については、今日では一般的に、関東軍高級参謀であった河本大作が首謀者であったと考えられています。事件が起きた当初も、日本政府では河本による犯行ではないかと考えられていましたが、決定的な証拠がありませんでした。
戦後になって河本の犯人説が大きく取り沙汰されるようになったきっかけの一つが、1954年に発表された「河本大佐の手記」です。これは河本大作の義弟にあたる作家・平野零児が河本の口述を元に記したものと考えられ、現在は青空文庫で自由に読むことができます。
もう一つが、極東国際軍事裁判(東京裁判)における田中隆吉陸軍少将の証言です。田中隆吉は東京裁判で天皇の戦争責任回避のためとして、数々の重要な証言をした人でした。彼の張作霖爆殺事件に関する証言は、爆発の方法や関係した人物名などが具体的で信憑性があると言われています。そしてこの事件に関しては、河本大作が首謀者であるという一貫した証言でした。
そして1990年に公表された「昭和天皇独白録」と、2019年に一部が公開された、初代宮内庁長官田島道治が昭和天皇との対話を書き残した「拝謁記」では、昭和天皇が太平洋戦争敗戦のきっかけとして張作霖爆殺事件を挙げていました。そしてそこには、「首謀者である河本を処罰」するべきだという昭和天皇の考えがはっきり書かれていました。
また、河本大作の子孫の方々も、首謀者が河本大作であることを疑っていません。家に伝わっている話として、事件の頃、河本が盲腸の手術をする際に、麻酔をするとうわ言で何か話してしまうと怖いので、麻酔をせずに手術を受けたというエピソードがあるそうです。ひどく生々しく、張作霖爆殺事件が河本の手によるものだったことを想起させられます。
張作霖爆殺事件の影響
張学良は日本から離れて国民政府軍に合流
関東軍は張作霖を殺害することで満洲を占領できると考えていましたが、奉天軍閥を継いだ張作霖の息子・張学良は、中国は統一されるべきという考えを持っており、対立していた蒋介石との提携を決めたため、事態は思わぬ方向へ進みました。結局満洲は国民政府の一部となります。
さらに張学良は、満洲の支配を強めるため、南満州鉄道などの権益を中国へ取り戻そうと活動を始めます。いわゆる国権回復運動です。「満蒙は日本の生命線」と主張する関東軍はこれに強く反発し、1931年9月18日に南満州鉄道線路を奉天郊外で爆破する柳条湖事件を引き起こします。そして奉天における張学良の拠点を攻撃するのです。
そして1932年3月、関東軍参謀石原莞爾らの計画によって、事実上の日本の傀儡国家として満州国が建国されるに至りました。
中国国内での抗日運動の激化
関東軍が意を決して実施した張作霖爆殺事件でしたが、結果的に日本にメリットのないものとなりました。そればかりか、張学良が日本の意思と反して国民政府側についたため、抗日運動が激化していきます。父・張作霖の爆殺事件は関東軍の仕業と知っていた張学良が、日本憎しの思いからこのような行動にでたと考えられます。
張学良が、これまで使っていた軍閥の旗の代わりに、中華民国の国旗「青天白日旗」を掲げたことで(これを「易幟」といいます)抗日運動はさらに熱を帯びたようです。この状況が、さらに関東軍を焦らせ、暴走させてしまうきっかけになったと言えるでしょう。