【真相に迫る】グリコ・森永事件とは?事件の経緯や影響、犯人像も解説

1984年11月7日―ハウス食品脅迫事件

ハウス食品グループ大阪本社ビル

ハウス食品工業に脅迫状が届いたのは警察が情報公開してから1か月後の1984年11月7日でした。脅迫状には11月14日に1億円を用意し、指定されたレストランに車で待機せよと記されていました。犯人グループを逮捕するため警察はマスコミに対し人質事件以外では異例の報道協定を申し入れています。

指定された11月14日は捜査が犯人グループに最も近づいた日でした。犯人の指示により京都から高速道路に乗り滋賀県の大津PAまで向かった捜査員は「キツネ目の男」を3度にわたって目撃します。上からの指示により職務質問を禁じられていたため、この時も見失い逃げられています。

グリコ森永事件を報道する新聞

白い布を探すよう犯人に指示され大津PAから名古屋方面に車を走らせましたが、そこで犯人からの指示が途絶えてしまいやむなく捜査を打ち切りました。

大阪府警の刑事たちが白い布に到着する少し前、高速道路の下を通る一般道に止まる不審な車を滋賀県警の巡回中のパトカーが発見します。職務質問をするため警察官が近づくと不審な車は急発進して逃走し取り逃がしてしまいました。

1984年12月7日―不二家脅迫事件

不二家店舗

1984年の12月7日、犯人グループは不二家の労務部長の自宅に脅迫状を送り付け一億円を要求します。脅迫状にはテープと青酸ソーダが同封されていました。12月10日をもって報道協定は解除され、マスコミは滋賀県で犯人を取り逃がした警察を糾弾しました。

12月15日と26日に再び脅迫状が届き、指定のビルの屋上から2000万円をバラまくよう要求してきましたが不二家は従いませんでした。年の明けた1985年の1月10日に警察は「キツネ目の男」の似顔絵を公開し情報を求めました。

バレンタイン間近の2月12日と13日に東京と愛知で相次いで青酸ソーダ入りのチョコレートが見つかります。この事件では不二家だけに留まらず、グリコ、森永、明治、ロッテの製品も含まれていました。

1985年3月6日―駿河屋脅迫事件

駿河屋本店

バレンタインも終わった2月24日、犯人グループからマスコミあてに「森永ゆるしたろ」という手紙が届き森永製菓に対する脅迫が終結を迎えます。

しかし3月6日には、室町時代から続く和歌山県の和菓子店である駿河屋に5000万円を要求する脅迫状が届きます。しかし2日後の3月8日に受け渡しを延期する連絡が届き、それを最後に犯人グループからの連絡は途絶えました。

1985年8月7日、ハウス食品の事件時にあと一歩のところで犯人を取り逃がした滋賀県警の本部長が、退職するその日に公舎の庭で自身に火を放ち自殺をはかりました。遺書は見つかりませんでしたが動機は犯人を取り逃がしたことへの自責の念とも、全責任を負わされたことへの抗議とも言われています。

焼身自殺した滋賀県警本部長の葬儀

これを受けて犯人グループから「くいもんの会社いびるのもおやめや」と手紙が届き、グリコ森永事件は終結を迎えました。

2000年2月13日―事件の時効成立

時効が成立

1994年に江崎グリコ社長誘拐事件の公訴時効が成立します。これによって刑事責任を問うことが出来なくなるため捜査本部は縮小を余儀なくされました。

そして2000年2月13日0時をもって東京・愛知に青酸入りのお菓子をバラまいた事件の時効が成立。グリコ森永事件に関わるすべての事件の公訴時効が成立し、未解決事件となりました。

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