織田信秀とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や死因、逸話まで紹介】

人脈の活用を欠かさなかった

織田信秀は公家とも繋がりをもっていた
出典:Wikipedia

1532年に同じ織田一族の清州織田氏と合戦を行っています。このときにわざわざ京都から公家を呼び出し和睦することで、自分が公家と人脈があることをアピールしています。この行為は、自分が相手が主君であっても交渉の主導権を握ることができるということを示す狙いがあったと考えられています。

自分の持つ力をうまく宣伝して、信秀は勢力を広げる事に成功しています。その他にも上記に述べた居城を転々としながら領地を拡大といい、頭が柔軟で切れる人物だったといえます。そうした手腕から、自身の織田家を一番力の強い、尾張一の勢力になったのです。

尾張の虎と呼ばれた戦上手

小豆坂古戦場跡

織田信秀は主君である斯波氏を上回る勢力で尾張を代表する勢力となったのには、やはり戦の腕前があったといえるでしょう。非常に野心家であり勇猛だった信秀は「尾張の虎」と恐れられたといいます。領土拡大に繋がった戦は以下の通りです。

  • 1540年 松平氏の安祥城を奪い、三河に勢力を拡大させる
  • 1542年 松平清康死後の土地を巡り、今川義元軍に勝利する
  • 1548年 美濃国の大垣城を斎藤道山から一時奪うことに成功する

織田信秀は常に隣国と戦闘を繰り返していました。東方の松平氏と今川氏、北方の斎藤氏と常に緊張状態にあったのです。特に有名なのが1542年の戦いは「第一次小豆坂の戦い」と呼ばれる戦いです。両軍が岡崎城近くの小豆坂で対戦し、奮戦の末勝利を収めたといわれています。今川氏は「海道一の弓取り」と呼ばれる東海道で一番強いと言われる武将でしたが、勝利を収めたのです。

信長へ受け継がれた愛刀

長船派の刀(国宝)
出典:Wikipedia

織田信秀の愛刀は「長船派3代目景光」の作品です。長船派の刀は「長船物」として高い評価を受けています。今も残っている景光の作品は国宝や重要文化財に指定してあるものがほとんどです。この名刀は信秀の死後、信長に引き継がれました。

死因は流行り病や脳卒中が有力…?

寒さで急激に血圧が上昇し脳出血を起こした可能性も指摘されている

織田信秀の死因は流行り病や脳卒中という説が有力です。居城である末広城で倒れ、間もなく死亡したといいます。酒好きであったとも伝わっているので、不摂生が祟ったという説もあります。信長の家臣がつけていた記録では「疫病」と記されています。

この記録から「流行り病」が一番有力な説なのですが、上杉謙信と亡くなった時の状況が似ていた為、脳卒中ではないかという説も根強くあります。上杉謙信と織田信秀はどちらも3月に倒れ意識不明になりそのままなくなったといいます。その当時は脳出血とがわからず、流行り病と記されたのではないかという考えです。

織田信秀は非常に漁色漢だったといわれている

また半ば都市伝説的な説に「腹上死」したという噂もあります。信秀の女性好きはかなりのもので、戦が起こるたびに側室が増えていったといいます。そういった派手な女性関係が原因だったと考えられています。ただし記録から想像することしか出来ないものであり、急死だったのは間違いないのですが、どちらかというと噂が一人歩きしていった感が強い説です。

織田信秀の功績

功績1「一代で織田家の力を強めたこと」

勇猛果敢なことから「尾張の虎」と呼ばれた

織田信秀は勇猛果敢な武将と知られていますが、実は決して恵まれた立場ではありませんでした。しかしその中で主君の「斯波氏」を上回る勢力を身につけたのです。その原動力は「尾張の虎」と異名を取った野心家であることに関係しています。

織田信秀は「弾正忠家」だった

織田信秀が活躍した時代、尾張国は守護が斯波氏、守護代に「清州織田氏」がついていました。その下に清州三奉行がおり、その一人が織田信秀のいる「弾正忠家」でした。要は領主の家臣の家臣です。この織田一族も絶えず一族間で領地争いをしているような家でした。その弱小織田家をまとめ上げ戦国織田家の基盤を作ったのが、織田信秀だったのです。

功績2「経済力で地位を築いたこと」

尾張内の織田信秀の勢力図

織田信秀は尾張国の経済対策に力をいれました。経済基盤となりうる木曽川舟運で栄える津島湊と、伊勢湾海運で栄える熱田湊を抑え、商人と結びついて莫大な財を築いたのです。その財力は清州織田家を凌ぐほどの額だったといわれています。その経済基盤を利用して、

  • 朝廷に献金し、足利義輝と謁見する
  • 伊勢神宮遷宮に献金
  • 内裏修理のために献金

を行うことによって、朝廷の信用を得ることに成功しています。朝廷から従五位下に叙位し、備前守という役職を手に入れています。経済的基盤が勢力拡大に重要だと見抜き、行動した結果といえるでしょう。

功績3「息子、信長の才能を見出したこと 」

奇抜な恰好で素行も悪かった織田信長

織田信秀は「大うつけ」と呼ばれていた織田信長の才能を見抜いていました。信長は三男ですが、正妻の息子なので順当に家督を継ぐ理由はありました。しかし今でいう不良少年のようなものだったのです。多くの人は信長の行動を見て落胆し、品性素行な弟の織田信行の方を高く評価していました。

しかし織田信秀は、小さいころより那古野城を与えて、後継ぎであることを周囲に示していたといいます。わざわざ京都から先生に相応しい人を集め、武術の先生、学問の先生というように一流の教育を受けさせています。息子への教育にお金を惜しまずかけていることから、信長への期待が伺えます。

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