織田信秀の名言
織田信秀の言動は、息子の信長のように余り残っていません。ただし将軍足利義晴宛ての書状が残っており、そこから人となりを考察することが可能です。
上様(室町幕府第十二代将軍・足利義晴)からの御依頼の通り、進士修理進殿が東国へ下向される際、尾張領内における道中の安全は、しかと承りました。これくらいの事ならば、いつ何時でも御命じくださいませ。決して粗略にはいたしません。
幕府の依頼を快諾して、この程度のことならいつでも申してくださいと言っています。この文章は、織田信秀が朝廷だけでなく幕府に対しても目配りを欠かさなかった貴重な資料といわれています。また幕府が織田信秀宛てに書状を送っているということに、実質的な尾張の支配者であると認識していることが分かったのです。
織田信秀の人物相関図
織田信秀にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「歌仲間を装って城を落としたこと」
那古野城は元々駿河と遠江の2ヶ国の守護だった今川氏親が、尾張へ進出するための足掛かりとして築城した城でした。城主の今川氏豊は連歌好きで、頻繁に連歌会が開催していました。織田信秀はそこに目を付け足繁く連歌会に通い、今川氏豊と親しくなり何日も城内に滞在するようになったといいます。
ある日、織田信秀は城内で仮病を使って倒れ、遺言を残したいからと家臣を城内に呼び寄せたいといいました。今川氏豊はこの頼みを受け入れます。そうしてやって来た家臣たちは城内で蜂起し、さらに城外からも織田軍が攻め寄せ、あっという間に那古野城を乗っ取ることに成功しています。相手を油断させて城を落とす、かなりの策略家であることが垣間見えます。
都市伝説・武勇伝2「自身の葬儀の時に信長に抹香をかけられたこと」
織田信秀は1552年に薨去した際に、織田信秀の位牌に息子信長に抹香を投げつけられています。何故信長が父信秀の位牌に抹香をかけたのかは今となっては知る由もありません。一般的な説では、「周囲を油断させるために抹香を投げた」といわれています。
参列した武将たちは「やはり織田信長はうつけだったのだ」と噂したといいます。これにより暗殺の危険を減らしたというのです。死んだ後に息子に抹香を投げつけられて、もし霊魂というものが存在するのならば、信秀は息子に驚きつつ良くやったと笑っているかもしれません。
織田信秀の生涯年表
1511年 – 0歳「織田信定の長男として誕生」
尾張国の勝幡城で、清州三奉行の一人である織田信定の長男として生まれました。父織田信定は、津島神社が有名な津島を支配し勢力を広げていました。信秀の幼少時期を知る資料は少ないですが、後に連歌の会に参加したり蹴鞠会を開催したりして、文化人としても活動しているため、文武両道な人物であったと考えられています。
1526年 – 15歳「織田家の家督を相続する」
父織田信定から、家督を譲り受け織田家の当主となります。この時は、父の織田信定は存命であり、織田信秀の才能を見抜き家督を譲ったのではないかと考えられています。また1533年には、公家の飛鳥井雅綱や山科時継を招いて勝幡城で蹴鞠会を行っています。
織田信長が生まれる
1534年織田信秀が24歳の時に、正室の土田御前の間に嫡男織田信長が生まれています。信秀は後に「那古野城」を信長に譲り、 末広城に移っています。信秀は信長の為に京から武術や学問を教える先生を呼び寄せ一流の教育を施し、後継ぎであることを示していたといいます。
1538年 – 27歳「今川氏から那古野城を奪う」
今川氏親の連歌仲間として近づき、仮病を使って臣下を呼び寄せ、「那古野城」を落としたといいます。1533年頃から行っている蹴鞠会に今川氏親も参加しており、その縁で那古野城での連歌の集まりにも呼ばれるようになりその場で倒れたふりをし、家臣を呼びます。
すると武装している軍団が押し寄せてきて、那古野城は瞬く間に陥落しました。今川氏親は丸腰のまま、信秀の前に引き立てられたといいます。信秀は命までは取らずに城外追放にし那古野城を手中に収めました。