5万人の見送りに惜しまれたその最期
偏屈な頑固者でありながら、哲学という分野に重要な一石を投じる事となったサルトルは、1980年に肺水腫によって74年の生涯を閉じることになりました。
サルトルの葬儀には5万人もの観衆が詰めかけた事が記録されており、その葬儀は差ながら国葬のようだったとも言われています。現代に近い人物であることから、写真や動画も残っていますので、興味がある方は後のトピックをご覧ください。
サルトルの死後、主にボーヴォワールと、その養女であるアルレット・エル・カイムによって、サルトルの多数の著作が出版されたことも知られています。その死からほどなくして、サルトルの唱えた実存主義は構造主義からの批判を受けて衰退することになってしまうのですが、彼が哲学という分野に一石を投じる人物であったことは、疑いようのない事実だと言えるでしょう。
サルトルの功績
功績1「”実存は本質に先立つ”という実存主義の主張」
サルトルの功績としては、やはり「実存は本質に先立つ」という言葉に代表される実存主義――正確には”無神論的実存主義”の主張を行ったことが挙げられます。
”神”という絶対的な存在に終始する結論が多かった哲学という分野において、その存在を否定する哲学を生みだしたという点は、れっきとしたサルトルの功績であると言えるでしょう。
とはいえ、神という存在に基づく哲学を否定したサルトルの主張も、後に構造主義からの批判を受けて衰退していくこととなります。「神の不在」を説いたという意味で、現代人的な考え方の元祖とも言えるサルトルではありますが、その主張が現代に根差しているわけではない事にも注意は必要です。
功績2「ノーベル文学賞を拒否した男」
哲学者として無神論的実存主義を唱える傍ら、『嘔吐』に代表される彼自身の思想を濃く映した小説を描く作家としての顔も持っていたサルトル。彼の文才は非常に高く評価されるものであったようで、彼は1964年にノーベル文学賞に選出されています。
結果としてサルトルは、ノーベル文学賞の受賞が決定することになるのですが、なんと彼はこの賞の受賞を拒否し、式典を欠席。「作家は自分を生きた制度にすることを拒絶しなければならない」という自身の主張に基づいたこの行動は、ノーベル賞が始まって以来初めての行いだったと記録されています。
と、このように書くとサルトルはあたかも「何の連絡も無しに式を欠席した」ように見えますが、実はそれは誤り。彼は自身が文学賞の候補になっていることを知った際、先に辞退の書簡を送っていましたが、その到着が遅れたために受賞決定後に式典を欠席する形となっただけのようです。
とはいえ、サルトルはこの後も、全ての受賞や叙勲を固辞し続けています。「作家は自分を生きた制度にすることを拒絶しなければならない」という彼の主張に対するこだわりが、強くうかがえるエピソードでしょう。
功績3「光を失いながらも駆け抜けたその生涯」
幼い頃に右目をほとんど失明し、晩年には左目の視力すら失ったサルトル。また、彼は晩年には自力での執筆すら不可能な状態になり、もはや哲学者や文筆家としては活動不可能な状況となっていました。
しかしサルトルは、そのような晩年の状況下にも屈することなく、口述筆記や対談の形式で自身の主張を新聞や雑誌に発表。口述筆記形式の著作はどれも失敗に終わったようですが、ボーヴォワールやユダヤ人哲学者ベニ・レヴィとの対談は、新聞などの媒体に発表された記録が残っています。
元々が片目同然というハンデを背負いつつ、自らの主張を持ってフランス有数の哲学者の座にまで上り詰めたサルトル。その思想の情熱は、晩年に至ってもなお衰えることはなかったようです。
サルトルの名言
実存は本質に先立つ
もはや説明不要の、この記事でも何度も出てきたサルトルを代表する言葉です。彼の思想である”無神論的実存主義”をこれ以上なく端的に表した言葉だと言えるでしょう。
作家は自分を生きた制度にすることを拒絶しなければならない
ノーベル文学賞の拒否に際しての言葉です。サルトルという人物の偏屈ながら潔い心根がこれ以上なく表れた、サルトルの人物像を知るにあたってはこれ以上ない言葉だと思えます。
私たちのあいだの愛は必然的なもの。でも偶然の愛を知ってもいい
サルトルがボーヴォワールとの関係性を表現した際の言葉です。
なんともロマンチックなような、どうにも無責任なような。いずれにせよ、サルトルとボーヴォワールの関係性が、現在でも特異なものであることの証左であり、二人の関係性を端的に表す言葉だと言えるでしょう。
サルトルにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「幼い頃に残る”ワルガキ”としてのエピソード」
哲学者としての頑固さや、既成概念にとらわれないエキセントリックさを持つサルトルですが、彼の幼少期にもそのような部分を示す、いわゆる”ワルガキ”エピソードが残っています。
中でもとりわけ有名なのは、「母親の財布からお金を盗んだ」というシンプルながらかなりエゲツナイもの。この事件をきっかけに、サルトルは育ての親でもある祖父から見放されるという憂き目にあっています。
この頃のサルトルは、母の再婚によって転校した先に上手く馴染めなかったり、少女を口説こうとして失敗して自分の見目の醜さを突きつけられたりと、後に「挫折の年月」と回顧するような状況にありました。だからと言って窃盗を許すべきではありませんが、多感な少年期に多くの挫折を味わった結果、彼がそのような行為をはたらくまで追い詰められていたことがわかっていただけるでしょう。
都市伝説・武勇伝2「実は180度変わっているその主張」
ここまで読み進めてくださった方にはもうお馴染みだろう、『無神論的実存主義』の主張。サルトルの主張として有名なその考え方ですが、実は晩年のサルトルは著作の中で、そんな無神論的実存主義の主張を大きく転換していました。
この変化は、晩年のベニ・レヴィとの対談の中で見られ、ボーヴォワールはこの主張の変化に大きく戸惑い、「この主張はレヴィがサルトルを誘導して書かせたものだ!」と主張して取り消しを迫ったのだと記録されています。
しかしサルトルはボーヴォワールの言葉を、「これは間違いなく自分の思想である」と真っ向から退け、取り消しを拒否。晩年の彼に何があったのかはわかりませんが、少なくとも彼は生涯を通じて『無神論的実存主義』を唱えていたわけではないようです。
都市伝説・武勇伝3「実は日本を訪れていたサルトル」
1966年、ビートルズの来日が行われてから数か月後に、実はサルトルとボーヴォワールも日本の地に降り立っていたことはご存知でしょうか?
9月18日に来日したサルトルとボーヴォワールは、約1か月ほどの期間を日本に滞在。「知識人の在り方」という、なんともサルトルらしい講演を行い、日本の知識人層に新たな価値観や多くの学びをもたらして帰国していきました。
また、サルトルは中々の日本好きでもあったようで「若い頃に教員として日本を訪れたいと思っていた」と、この来日に際して明かしています。彼の公演は約6000人が聴講したという大盛況を記録しており、それだけでもその頃のサルトルの「知の巨人」ぶりをご理解いただけるかと思います。