1938年 – 33歳「『嘔吐』により作家として名声を得る」
『嘔吐』を発表
ベルリンから帰国したサルトルは、ル・アーヴルやパリで教師としての仕事をこなしつつ文筆活動も継続。ベルリン留学の中で並行して執筆を進めていた作品『嘔吐』を、この年に発表することになりました。
サルトルの代表的な作品として現在でも読み継がれるそれは、彼の思想を現した哲学的な小説作品としても有名です。
1943年 – 38歳「『存在と無』を発表」
『存在と無』
サルトル箱の年、彼の代表的な論文の一つである『存在と無』を発表します。
フッサール現象学とマルティン・ハイデッガーの存在論に強く影響されたと目されるこの論文は、「現象学的存在論の試み」という副題が付けられ、サルトルの提唱する無神論的実存主義の思想の根底を色濃く表した論文だと言えるでしょう。
1945年 – 40歳「ボーヴォワールと共に『レ・タン・モデルヌ』を刊行」
『レ・タン・モデルヌ』
第二次世界大戦に伴う兵役召集を受け、1940年には一度捕虜にまでなっていたサルトルは、その経験から政治関心を強めていくことになりました。
そしてこの年、サルトルはボーヴォワールやメルロー=ポンティらと共に、雑誌『レ・タン・モデルヌ』を刊行。哲学だけでなく政治をメインに扱うその雑誌において、彼は自身の左派としての立ち位置と、哲学者としての主張を発表していくことになりました。
また、サルトルの代表的な主張の一つである「アンガージュマン(engagement)」の思想が生まれたのも、この雑誌からだと言われています。
実存主義の大家となるが、友人との決別も目立ち始める
『レ・タン・モデルヌ』の刊行によって、自身の主張を発表する場を得たサルトルは、以降の著述活動のほとんどをこの雑誌によって行なうことになります。
また、この雑誌は戦争で疲弊した民衆から非常に受け入れられたらしく、サルトルの唱える実存主義は国境を越えて、様々な国で唱えられることとなりました。
この頃のサルトルは非常に精力的な活動を行っており、この頃が彼の絶頂期だったと言ってもよいかもしれません。
しかしその一方で徐々にマルクス主義に傾倒し、ソ連擁護などをおこなったサルトルの姿勢は、メルロー=ポンティや、1952年に起こった「カミュ・サルトル論争」によるアルベール・カミュとの決別のきっかけともなってしまったようです。
ただしサルトルは、ソ連を盲目的に持ち上げる思想ばかりを唱えていたわけではなく、共産党によるハンガリー侵攻や、プラハの春への介入には批判を行っていたことにも留意が必要です。
1964年 – 59歳「ノーベル文学賞の受賞辞退」
「作家は自分を生きた制度にすることを拒絶しなければならない」
この言葉を唱えて、サルトルは選出されたノーベル文学賞の受賞を拒否し、その式典を欠席しました。
以降も様々な賞や勲章に選出されたサルトルですが、彼はそれら全てを拒否し、自分の言葉に従う形で”無冠”の状態を生涯にわたって貫き通すことになったのです。
1966年 – 61歳「慶応義塾大学にて講演を行う」
慶応義塾大学の求めにより来日
ビートルズが来日したこの年、ビートルズから数か月遅れる形でサルトルとボーヴォワールが日本を訪れました。
慶応義塾大学からの講演の依頼を受けての来日であり、彼の講義は大講堂ですら立ち見が続出――というより、立ち見でごった返す有様となり、結局当時としては革新的だった、リモートの同時中継で部屋を分かれて講義をする状態になったことが記録されています。
また、サルトル自身は「若い頃から教師として日本に来たいと思っていた」と口にしていたらしく、約1か月ほどの滞在を忙しないながらも楽しんでいたようです。
1973年~ – 68歳~「発作による活動制限が目立ち始める」
発作と失明
精力的に活動を続けてきたサルトルですが、1973年には激しい発作に見舞われ、その活動を著しく制限することになってしまいました。
また、ほぼ失明していた右目のみならず、この頃には左目の眼底出血も起こしてしまい、結果としてサルトルは両目を失明。「光、ものの形、色までは視える」と語ってはいたようですが、著述活動はもう諦めざるを得ず、彼は『家の馬鹿息子』というギュスターヴ・フローベールの評伝の完成を諦めざるを得なくなってしまいました。
光を失えど続くサルトルの活動
視力を失ったことで文筆活動ができなくなってしまったサルトルでしたが、彼は「共同作業」によって著作を完成させようと試みました。
結果としてその試みのほとんどは失敗に終わってしまいますが、ユダヤ人哲学者のベニ・レヴィとの著作にはとりわけ高い意欲を燃やし、その対談の記録である『いま、希望とは』を新聞に発表しました。
この『いま、希望とは』は、従来のサルトルの無神論的実存主義から大きく主張が転換されており、ボーヴォワールは「これはサルトルの主張ではない」「老いた彼をレヴィが騙して書かせたものだ」と猛反発し、取り消しを要求。
しかしサルトルは「これは間違いなく自分の思想だ」と真っ向からその反論を退けたことが記録されています。
1980年 – 74歳「肺水腫によりこの世を去る」
5万人に見送られたその死
1980年4月15日、サルトルは肺水腫によって74年の生涯を閉じました。その葬儀に際しては著名人も含めたおよそ5万人の人々が詰めかけたらしく、国葬のような状況だったと言われています。
その死後はボーヴォワールと養女である アルレット・エル・カイムの手によって、サルトルの著作が編集されて数多く出版されることになります。
しかしほとんど時を同じくして台頭してきた構造主義により、サルトルの唱えた主張は急速に勢いを失っていくことになってしまいました。
しかし、現代ではサルトルの唱えた無神論的実存主義には再評価が進められており、その復権の可能性もまた高まってきているようです。
サルトルの関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
嘔吐
サルトルを代表する作品である「嘔吐」を日本語訳にした一冊です。
内容そのものがすばらしいのは言わずもがなですが、何より訳文の完成度が非常に高く、大変読みやすい一冊となっています。多くの訳者が和訳を行った「嘔吐」ですが、筆者はこちらの一冊を第一におすすめしたいと思います。
実存主義とは何か
サルトルを代表する思想である「無神論的実存主義」を説いた、講演と討論の記録である一冊です。
サルトルの思想を学ぶにあたっては、この「実存主義とは何か」は避けては通れない部分だと思います。ただ、注釈による訳の訂正が非常に読みづらいため、読みやすさとしてはイマイチな印象。様々な訳者が和訳を行っているため、書店などで照らし合わせて一番よかったものを読む方がいいかもしれません。
存在と無
サルトルが無神論的実存主義の他に提唱した、”無”の考え方を解説した一冊です。
内容そのものが非常に難しいため、初学者の方には絶対におすすめできませんが、サルトルの哲学における立ち位置を知ることができる、非常に有意義な一冊にもなっています。少し難し目の哲学者をお探しであれば、挑戦してみてもいいかもしれません。
おすすめの動画
SYND 21 4 80 FUNERAL OF JEAN PAUL SARTE IN PARIS
サルトルの葬儀の映像です。見ていただければわかりますが、彼が当時のフランスでどのような立ち位置にあったのかが、見るだけで理解できる貴重な映像になっています。
関連外部リンク
サルトルについてのまとめ
無神論的実存主義という哲学分野の功績だけでなく、ボーヴォワールとの関係性や「嘔吐」というショッキングなタイトルの作品など、様々な点から現在も語り継がれるサルトル。
その思想も、2020年現在では再評価が成されている部分も大きく、紆余曲折こそありましたが哲学分野に大きな功績を遺した人物の一人であることは、疑う余地もないことでしょう。
今回はサルトル自身についての記載が多く、彼の主張した無神論的実存主義や”無”の概念、”アンガージュマン”についてはさほど触れられませんでしたが、機会があればそれらに関する雉も執筆してみたいと思います。
それでは、この記事におつきあいいただきまして、誠にありがとうございました。この記事が皆さまにとって、何かの学びとなっていれば光栄に思います。