ジャン=ポール・サルトルとはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や功績も紹介】

サルトルの年表

1905年 – 0歳「フランスの首都に生を受けるが…」

フランスの首都であり名所としても有名なパリに、サルトルは生を受けた。

パリ16区で誕生を迎える

ジャン=ポール・サルトルは、1905年の6月にフランスの首都・パリ16区に生を受けました。サルトルの父は海軍将校、母はドイツ系フランス人学者の家の出身であり、生活水準はかなり上の家に生を受けたと言ってもいいでしょう。

しかしサルトルにとっての受難は、彼が生まれて1年と少しが経過した頃。1906年に始まることになってしまいます。

父の死により母方の祖父に引き取られる

博識な祖父に引き取られたことで、彼は学問への適性を開花することになった。

サルトルが生まれて15か月ほどが経った頃、海軍将校だった父が熱病によって死去。これによりサルトルは、母方の祖父である学者、シャルル・シュヴァイツァーに引き取られて養育されることになりました。

こうして父を失ってしまったサルトルですが、彼が後に哲学分野で功績を遺す下地を作ったのは、この祖父による教育の功績も大きいため、この父との死別が必ずしもマイナスにしかならなかったかと言えば、そうというわけでもありません。

しかし、幼いサルトルに降りかかる受難は、これだけでは終わりませんでした。

1908年 – 3歳「右目をほぼ失明」

写真で見ても斜視であることが目立つサルトルだが、その原因はよくわかっていない。

右目をほぼ失明

この年、原因は不明ですがサルトルは右目をほぼ失明。物の形や光の方向などは見えていたようですが、サルトルはこれにより強度の斜視として後の人生を送っていくこととなりました。

また、サルトルの斜視については多くの言説が混在し「右目をほぼ失明したから斜視になった」のか「元々斜視だった右目が、この時期にほぼ光を失ったのか」で意見が分かれていることが多いようです。

1915年 – 10歳「アンリ4世校に入学」

サルトルと友人関係を結んだ作家、ポール・ニザン。

ポール・ニザンとの出会い

知識人階級の中で育ったサルトルは、この年にアンリ4世校に入学。ここで出会った後の作家、ポール・ニザンと友情をはぐくむことになりました。

しかし、その2年後である1917年に、再びサルトルに受難が訪れることとなるのです。

1917年~1920年 – 12歳~15歳「「挫折の年月」の訪れ」

後に「挫折の年月」と回顧するほど、この頃のサルトルは挫折ばかりを味わわされた。

母の再婚による転校

この年、母が再婚したことでサルトルはアンリ4世校からラ・ロシェルの高等中学校に転校することを余儀なくされてしまい、友人のニザンと引き離されることになってしまいました。

そしてこのラ・ロシェルの高等中学校での暮らしは、サルトルの心に深い闇を落としていくことになったのです。

「挫折の年月」

この時期についてサルトルは後に「挫折の年月」と回顧しています。

ラ・ロシェルの高等中学校に溶け込むことができなかったサルトルは、次第に鬱屈としてしまい、結果として様々な挫折を味わうことになってしまいました。

失恋によってグレかけるという、ある意味でテンプレートな思春期を歩んだとも言える…?

この時期のサルトルは母の財布から金を盗んだことで、育ての親である祖父、シャルル・シュヴァイツァーに見放されたり、好意を抱いた少女にフラれ、自分の容姿が見にくいことを自覚するなど、立て続けに挫折に見舞われることとなります。

このような出来事はサルトルの人格に様々な悪影響を与えたらしく、その影響を重く見た家族によって、サルトルは1920年に再びアンリ4世校へ転入。ニザンとの再会を果たしたことで、その「挫折の年月」はようやく終わりを迎えるのでした。

1923年 – 18歳「同人誌に短編小説を発表」

『病める者の天使』がどのような作品で、どのような評価を受けていたのかは不明。

『病める者の天使』を発表

高等師範学校に入学する準備期間として、準備学究に在籍していたこの年、サルトルは同人誌『名前のない雑誌』に、初めて短編小説を発表しました。

『病める者の天使』というタイトルのそれは、サルトルの処女作でしたが、現在ではあまり評価が残っていないようです。

1928年 – 23歳「哲学の教員試験に落第する」

哲学者としての一歩を踏み出すが、その一歩を盛大に踏み外したサルトル。その理由は今も不明である。

アグレガシオン試験に落第

1級教員資格試験であるアグレガシオン試験を受けたサルトルでしたが、この年の試験ではサルトルは不合格となりました。

「サルトルが哲学の教員試験に落第した」という事実は、周囲の者達皆を驚かせたと記録されており、逆説的にサルトルがその当時から、非常に高い学力で周囲から尊敬を集めていたことが理解できるでしょう。

翌年、アグレガシオン試験を首席合格

試験に落第した翌年である1929年、再び哲学のアグレガシオン試験を受けたサルトルは、前年の不合格が嘘のように首席で試験に合格を果たしました。

また、この年には親友であるニザンも哲学のアグレガシオン試験に合格しているほか、彼の終生の伴侶となる人物も、事績としてこの試験の合格を果たしていたのでした。

1929年 – 24歳「ボーヴォワールとの出会いと契約」

サルトルはボーヴォワールとの関係を「必然の愛」と表現し、契約結婚のまま生涯を連れ添った。

ボーヴォワールとの契約結婚

哲学のアグレガシオン試験における主席と次席という関係性が、サルトルとボーヴォワールが出会うきっかけとなりました。

そしてそこからどのようなきっかけを経たのかは不明ですが、彼らは出会ったその年に2年間の契約による契約結婚の関係性を締結。互いの自由恋愛を認めつつも婚姻関係を結ぶという、現在の視点でも前衛的な関係性でしたが、その関係性は「必然の愛」として、サルトルがこの世を去るまでの50年近くにわたって続くこととなりました。

1931年頃 – 26歳頃「現象学に興味を持ち始める」

サルトルの思想に強い影響を与えた、エドムント・フッサール。

高等中学校の哲学教師として働く

1931年、ルアーブルの高等中学校で哲学教師として働き始めたサルトルは、同時に『真理伝説』という本の出版を計画します。

しかしこれは、20ページほどの薄い本であり、サルトルの知識のみで書かれた不確かで説得力の薄い本だったため、出版は拒否されてしまったようです。

レイモン・アロンとの会話

また、この時期にレイモン・アロンと交流を行ったサルトルは、フッサールの現象学に興味を抱くようになったようです。

その際エマニュエル・レヴィナスの博士論文『フッサール現象学の直観理論』に感銘を受けたサルトルは、ベルリンに1年の間留学。そこでフッサール現象学の研究を行いつつ、後に彼の名声を押し上げる作品の執筆を行いました。

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