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今川義元とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や死因、愛刀も紹介】

この記事にたどり着いたあなたは今川義元にどんなイメージをお持ちでしょうか?

「織田信長に桶狭間の戦いで負けた人だよね?」
「公家かぶれだったって聞いたよ。」
「馬に乗れなくて御輿に乗っていたんでしょ?」

このようなイメージが先行するのではないでしょうか。今川義元は戦国時代の戦国武将ですが、どうしても織田信長の人気の影響で、あまり良い描写がされない事が多い武将です。

今川義元

そんなイメージが先行する今川義元ですが、実は領地の駿河を豊かにしたり、領土拡大にも成功している人物でした。実は「海道一の弓取り」と呼ばれた人物だったのです。

本当のところ今川義元とはどんな人物だったのか?そんな疑問を、趣味が人間観察の筆者が検証したいと思います。この記事では、イメージに惑わされずに客観的に記事を書くことを心がけて執筆していきたいと思います。

今川義元とはどんな人物か

名前今川義元
誕生日1519年
没日1560年6月12日
生地駿河国(静岡県)
没地尾張国知多郡桶狭間(愛知県)
配偶者定恵院(武田信虎の娘)・井伊直平の娘
埋葬場所愛知県豊明市の桶狭間古戦場伝説地・愛知県豊明市の高徳院・静岡県静岡市葵区大岩町の臨済寺・東京都杉並区の観泉寺など

今川義元の生涯をハイライト

置眉に烏帽子や束帯の姿で描かれることも多い、今川義元ですがどんな人生を送ったのか?まずは今川義元の人生をダイジェストしていきたいと思います。

今川義元は、1519年に今川氏親の三男として生まれました。母は父の正室である中御門宣胤の娘(寿桂尼)です。生まれた時に、長兄と次兄がいたので4歳で仏門に入りました。当初は駿河国の善得寺に入門しましたが、後に京の妙心寺に入り大休宗休の元で学問を学んだといいます。

妙心寺で修行を積んだといいます

その後兄、今川氏輝に呼ばれ駿河に帰りますが1536年に兄氏輝が亡くなります。その時点で次兄の今川彦五郎がいたのですが、なんと彦五郎も同日に亡くなります。そのことから二人の兄と同じ、正室所生の今川義元が当主となることとなったのです。僧侶から還俗した時に、主君である足利義晴から諱を賜り義元と名乗ることになりました。

戦のあった花倉城跡

しかしスムーズには当主になれず、家臣の福島氏が今川義元の異母兄を掲げて反旗を翻した「花倉の乱」が起きました。義元は北条氏の支援を得ることに成功し花倉の乱で勝利をおさめ、晴れて今川家の当主になったのでした。そして1537年に武田信虎の娘を正室に迎え、武田氏と甲駿同盟を結びます。しかし、甲駿同盟を面白く思わない北条氏や、領土拡大を狙う織田信秀軍に攻められて、なかなか落ち着かず戦いを繰り広げていました。そんな中、1549年に岡崎城に入り込み松平家の領地を領有することに成功しています。

織田信長の奇襲により打ち取られた

領土拡張の傍ら1549年に、「今川仮名目録」を追記し、今川氏と室町幕府に残っていた繋がりを完全に断ち、守護大名から戦国大名へと進化していったのです。この後に武田氏と北条氏と三家で「甲相駿三国同盟」を結ぶことにより、統治の基盤を揺ぎ無いものにしました。そして1560年に、2万余りの軍勢を集めて尾張に進軍していきました。その時に、桶狭間山で休憩を取っていたところを織田軍の奇襲にあい、首級を取られ生涯を閉じたのです。享年42歳でした。

今川義元は武術に疎かったのか?

4歳から今川義元は仏門に入っていた

今川義元は武術に疎かったのか?そういう疑問が出てきますが、結論から言うと確かに武術の腕が秀でて優れているという訳ではありませんでした。何故武術に疎かったかというと、幼少期を仏門に入っていた為武術とは縁遠い場所にいたということがあげられます。

しかし、武芸の素養が全く無いわけではありませんでした。桶狭間の戦いでは信長の家臣・服部春安が斬りつけようとした時、自ら抜刀して春安の膝を斬りつけて撃退し、さらに毛利良勝が斬りつけようとした時にも数合ほどやり合った末に首を掻こうとした良勝の指を食い千切って絶命したと伝えられています。剣術を駆使して戦っており、決して武術が出来ないわけではなかったのです。

今川義元は馬に乗っていた記述もあり決して乗れないわけではありませんでした。

また「馬に乗れなかったから御輿に乗っていた」「太っていたから馬に乗れなかった」というイメージが流布していますが、近年の研究では敢えて馬に乗らずに御輿に乗っていたのだろうと考えられています。今川義元は将軍家から御輿に乗って良いという許可をもらっていたといいます。中々許可をもらえるものではないため、権力を固辞するためのパフォーマンスだったという見方が有力です。

御輿で移動する様子

武術への取り掛かりが遅かっただけで、戦術においても北条氏や織田氏と互角に戦っているために、決して武道を疎かにしていたわけではありませんでした。後年の創作で公家風の趣味だけを強調したエピソードの印象が強く、あまり今川義元の武術の事は知られていませんが、失敗ばかり誇張されている印象が強く出ています。

今川義元の愛刀

義元左文字

今川義元は、戦の時に必ず「義元左文字」という名刀を携えていたといいます。「左文字」とは、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて筑前国博多で活躍した刀工であり、「左衛門三郎」の略と伝わる「左」の一文字にて銘に切ったことから左文字と称されるようになったといいます。

この刀は最初は阿波の「三好宗三」から甲斐の「武田信虎」に移り、そして駿河の「今川義元」に渡ったものでした。また桶狭間で討ち取られた今川義元の「左文字」は、その後、信長・秀吉・家康と「天下人の証し」として受け継がれて行ったといいます。このことから3人がどれだけ今川義元の「武勇」を認めていたかが分かるといわれています。3人とも桶狭間の戦いに参戦しており、天下人としての出発点として意識していたといわれているのです。

今川義元は「公家かぶれ」だったのか?

今川義元のイラストは大体置眉に蹴鞠のイメージが多い

今川義元は結論から言うと、公家に憧れていた感は否ません。しかし、誇張も多々あり後世に植え付けられたイメージがほとんどです。今川義元は非常に文化人であり、京都の公家や僧侶と交流し文化サロンを築いたといいます。そんな今川義元の「公家かぶれ」と言われる理由は以下であげられます。

公家風の化粧を施していた

典型的な公家風のメイク(置眉・薄化粧)

今川義元は公家のようにお歯黒をつけ、置眉、薄化粧をしていたと言われています。ただし、最近は公家のような化粧をしていた説は後世の創作であるともいわれています。また例え化粧をしていたとしても、武家では守護大名以上の家格の高さを示すものであり、実は戦の嗜みであったとも言われています。

和歌を好んでいた

今川義元は定期的に歌会を開いていたという

今川義元は和歌を好み、家領が駿河にあった公家の冷泉為和に和歌の指南を受けていたといいます。和歌を非常に好んで毎年のように和歌の会に参加しており、その上自身も歌会を開き、今川一族、今川重臣、そして今川領に駐在していた中央の文化人らによって構成され、華やかな会が行なわれていたそうです。

ただし戦国武将でいうと、武勇で名高い越後の「上杉謙信」も和歌と源氏物語を愛し、京に上洛した時に公家を驚かせる秀歌を詠んだと言われています。この当時和歌は嗜みであり、今川義元が特に珍しいわけではありませんでした。やはり後世での創作のイメージにより、誇張されている部分が多くあります。

和歌を好んでいたのが分かるエピソード

戦の規律を重んじた今川義元

今川義元が家臣に「先手の様子を見に行ってこい」と命令しました。しかし家臣は見に行くと戦が始まっていたので、部下と一緒に戦い首を一つ持って戻ってきたといいます。様子を見てこいと言っただけなのに、戦に加わったということで、軍令違反と今川義元は叱りました。

叱られた家臣は藤原家隆の、「苅萱かるかやに身にしむ色はなかれども見て捨て難き露の下折」というのがあったな、と呟きます。それを聞いた義元はしばし考えたのち「急なるに臨みて、奇特に家隆の歌を思い出せし事名誉なり」と言い、罪を帳消しにしたそうです。

藤原家隆は新古今集和歌集の選者でもある歌人です

先述の部下の思い出した歌をくみ取り、咄嗟に藤原家隆の歌を思い出した部下の学識を褒め、罪を帳消しにしたというエピソードが、戦国三大文化と言われた今川家ならではのエピソードと言えるでしょう。

蹴鞠も嗜んでいた

今川家では蹴鞠が盛んだった

今川義元が蹴鞠の名手だったという証拠はありません。しかし今川家が蹴鞠を盛んに行っていたので、嗜んでいたであろうことが推定されています。駿河では、戦乱の京都を逃れて駿河の寄食していた飛鳥井雅綱という公家がいました。飛鳥井家は蹴鞠の家元ですので、今川氏で保護したために京風文化の一つとして蹴鞠が栄えたといいます。

ただし蹴鞠も織田信長や豊臣秀吉も蹴鞠道に精進し、他の戦国武将も盛んに蹴鞠を行っていました。今川家だけが蹴鞠を嗜んでいたわけではなく、決して蹴鞠=軟弱というものではなく、あくまで嗜みの一つでした。今川義元の公家かぶれのエピソードに使われる蹴鞠ですが、後世の創作による誇張と考えられています。

幼少期からの公家との交流が多かった

公家出身の生母、寿桂尼は今川家で「尼御台」と呼ばれ権力を持ったといわれています。

今川義元は、生母の寿桂尼が公家出身の女性でした。また今川家は「源氏」の血を引く格式の高い家柄だったのです。足利将軍家に連なる家柄に生まれて、幼少期から青年期まで京で暮らしたため公家文化に触れることが多かったのです。

またその縁で戦乱から逃れてくるため、逃げてきた公家を駿河で匿ったりしていました。そういった公家と交流することにより公家文化を受け入れてきたため、自然と置眉やお歯黒をするようになっていったのだろうと推測されています。

桶狭間の戦いの経緯と敗戦理由

桶狭間古戦場跡地

桶狭間の戦いは1560年に行われた今川軍と織田軍の戦いです。桶狭間の戦いでの兵力は、諸説あるものの、今川義元軍が 20000人前後、一方、迎え撃った織田信長軍が 5000人前後と言われています。 そして、倍以上の敵を破った戦いとして桶狭間の戦いは現代でも語り継がれています。この時、何故今川義元は敗れたのかを掘り下げていきたいと思います。

桶狭間の戦いが起こった経緯

1560年の頃の今川氏と織田氏の勢力図

以前から今川氏と織田氏は小競り合いを行っていましたが、1551年に織田信秀が病死し、年若い織田信長が家督を継いでなお駿河と尾張の領地の奪い合いを行っていました。そんな中、今川義元が兵力を結集させ、20000余りの兵を率いて尾張国の進行を開始しました。

この進行の目的は、以前は京への上洛を意図したと言われていましたが、最近は領土紛争の一環として今川方の城を救出する目的だったのではということが定説となっています。

今川軍の敗戦の理由

今川義元最後の時

敗戦の理由については、長らく「織田信長の計算した奇襲」「兵力の差から来る今川義元の油断」と言われてきました。しかし新たな説も出てきており、以下の理由が大きかったと言われています。

  • 今川軍が兵力を分散しており本隊が手薄であったこと
  • 桶狭間の奇襲当日が大変な豪雨であったこと

桶狭間の戦いのおいて今川軍は、「本隊」「丸根砦攻城部隊」「鷲津砦攻城部隊」「守備隊」に分けて戦っています。その結果、今川義元を守る本隊は 5000人程度となって進軍していました。そして運が悪いことに当日は「石雨」と言われるほどの豪雨であったといい、見通しが悪く起伏の激しい地形も相まって織田軍に気付くのが遅れたといわれています。よって今川軍の敗因は、兵力の分散と天候・地形の悪運が理由と考えられています。

今川義元に油断はあったのか

今川義元が油断していたか、そういった疑問が出てきますが、やはり油断はあったのではないかといわれることが多いです。油断しているエピソードとして紹介されるのが、

謡を歌う様子
  • 桶狭間山で休憩し今川義元は、謡を三番歌ったということ
  • 今川義元は茶の湯を嗜んでおり、桶狭間の戦いで信長に強襲されたとき、義元陣営は茶会を催していたということ

確かに桶狭間の戦いの前に、今川義元は大いに喜び酒宴を開いていたといい、奇襲が行われたときにお茶会が開かれていたという説もあります。ただし歌もお茶も戦中の休憩で行われることがあります。今川義元が公家かぶれだから行われていたというわけではなく、特に珍しい事ではありませんでした。

茶道は戦国武将の心の安寧によく嗜まれたという

ただし恐らく今川義元は戦力の差から、織田軍が奇襲攻撃をかけてくるとは思わず、織田軍の拠点清州城に籠城するだろうと見ていたといわれています。戦力差がある戦では、籠城するのが常套手段でした。そういう意味で、織田信長の奇襲は思いがけず裏をかかれたといわれています。そうした油断から、完全に休息状態に入っていた今川軍は対応が遅れ、結果敗戦となってしまったといわれています。

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