和歌を好んでいた
今川義元は和歌を好み、家領が駿河にあった公家の冷泉為和に和歌の指南を受けていたといいます。和歌を非常に好んで毎年のように和歌の会に参加しており、その上自身も歌会を開き、今川一族、今川重臣、そして今川領に駐在していた中央の文化人らによって構成され、華やかな会が行なわれていたそうです。
ただし戦国武将でいうと、武勇で名高い越後の「上杉謙信」も和歌と源氏物語を愛し、京に上洛した時に公家を驚かせる秀歌を詠んだと言われています。この当時和歌は嗜みであり、今川義元が特に珍しいわけではありませんでした。やはり後世での創作のイメージにより、誇張されている部分が多くあります。
和歌を好んでいたのが分かるエピソード
今川義元が家臣に「先手の様子を見に行ってこい」と命令しました。しかし家臣は見に行くと戦が始まっていたので、部下と一緒に戦い首を一つ持って戻ってきたといいます。様子を見てこいと言っただけなのに、戦に加わったということで、軍令違反と今川義元は叱りました。
叱られた家臣は藤原家隆の、「苅萱かるかやに身にしむ色はなかれども見て捨て難き露の下折」というのがあったな、と呟きます。それを聞いた義元はしばし考えたのち「急なるに臨みて、奇特に家隆の歌を思い出せし事名誉なり」と言い、罪を帳消しにしたそうです。
先述の部下の思い出した歌をくみ取り、咄嗟に藤原家隆の歌を思い出した部下の学識を褒め、罪を帳消しにしたというエピソードが、戦国三大文化と言われた今川家ならではのエピソードと言えるでしょう。
蹴鞠も嗜んでいた
今川義元が蹴鞠の名手だったという証拠はありません。しかし今川家が蹴鞠を盛んに行っていたので、嗜んでいたであろうことが推定されています。駿河では、戦乱の京都を逃れて駿河の寄食していた飛鳥井雅綱という公家がいました。飛鳥井家は蹴鞠の家元ですので、今川氏で保護したために京風文化の一つとして蹴鞠が栄えたといいます。
ただし蹴鞠も織田信長や豊臣秀吉も蹴鞠道に精進し、他の戦国武将も盛んに蹴鞠を行っていました。今川家だけが蹴鞠を嗜んでいたわけではなく、決して蹴鞠=軟弱というものではなく、あくまで嗜みの一つでした。今川義元の公家かぶれのエピソードに使われる蹴鞠ですが、後世の創作による誇張と考えられています。
幼少期からの公家との交流が多かった
今川義元は、生母の寿桂尼が公家出身の女性でした。また今川家は「源氏」の血を引く格式の高い家柄だったのです。足利将軍家に連なる家柄に生まれて、幼少期から青年期まで京で暮らしたため公家文化に触れることが多かったのです。
またその縁で戦乱から逃れてくるため、逃げてきた公家を駿河で匿ったりしていました。そういった公家と交流することにより公家文化を受け入れてきたため、自然と置眉やお歯黒をするようになっていったのだろうと推測されています。
桶狭間の戦いの経緯と敗戦理由
桶狭間の戦いは1560年に行われた今川軍と織田軍の戦いです。桶狭間の戦いでの兵力は、諸説あるものの、今川義元軍が 20000人前後、一方、迎え撃った織田信長軍が 5000人前後と言われています。 そして、倍以上の敵を破った戦いとして桶狭間の戦いは現代でも語り継がれています。この時、何故今川義元は敗れたのかを掘り下げていきたいと思います。
桶狭間の戦いが起こった経緯
以前から今川氏と織田氏は小競り合いを行っていましたが、1551年に織田信秀が病死し、年若い織田信長が家督を継いでなお駿河と尾張の領地の奪い合いを行っていました。そんな中、今川義元が兵力を結集させ、20000余りの兵を率いて尾張国の進行を開始しました。
この進行の目的は、以前は京への上洛を意図したと言われていましたが、最近は領土紛争の一環として今川方の城を救出する目的だったのではということが定説となっています。
今川軍の敗戦の理由
敗戦の理由については、長らく「織田信長の計算した奇襲」「兵力の差から来る今川義元の油断」と言われてきました。しかし新たな説も出てきており、以下の理由が大きかったと言われています。
- 今川軍が兵力を分散しており本隊が手薄であったこと
- 桶狭間の奇襲当日が大変な豪雨であったこと
桶狭間の戦いのおいて今川軍は、「本隊」「丸根砦攻城部隊」「鷲津砦攻城部隊」「守備隊」に分けて戦っています。その結果、今川義元を守る本隊は 5000人程度となって進軍していました。そして運が悪いことに当日は「石雨」と言われるほどの豪雨であったといい、見通しが悪く起伏の激しい地形も相まって織田軍に気付くのが遅れたといわれています。よって今川軍の敗因は、兵力の分散と天候・地形の悪運が理由と考えられています。
今川義元に油断はあったのか
今川義元が油断していたか、そういった疑問が出てきますが、やはり油断はあったのではないかといわれることが多いです。油断しているエピソードとして紹介されるのが、
- 桶狭間山で休憩し今川義元は、謡を三番歌ったということ
- 今川義元は茶の湯を嗜んでおり、桶狭間の戦いで信長に強襲されたとき、義元陣営は茶会を催していたということ
確かに桶狭間の戦いの前に、今川義元は大いに喜び酒宴を開いていたといい、奇襲が行われたときにお茶会が開かれていたという説もあります。ただし歌もお茶も戦中の休憩で行われることがあります。今川義元が公家かぶれだから行われていたというわけではなく、特に珍しい事ではありませんでした。
ただし恐らく今川義元は戦力の差から、織田軍が奇襲攻撃をかけてくるとは思わず、織田軍の拠点清州城に籠城するだろうと見ていたといわれています。戦力差がある戦では、籠城するのが常套手段でした。そういう意味で、織田信長の奇襲は思いがけず裏をかかれたといわれています。そうした油断から、完全に休息状態に入っていた今川軍は対応が遅れ、結果敗戦となってしまったといわれています。