今川義元とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や死因、愛刀も紹介】

今川義元の年表

1519年 – 0歳「今川氏親の三男として生まれる」

海道一の弓取りといわれた義元は3男として生まれました

駿河の守護大名今川氏親の三男として生まれました。母は正室の中御門宣胤の娘(寿桂尼)でしたが、同母兄に氏輝、彦五郎がいるため後継ぎとしては考えられてなかったといわれています。

1523年 – 4歳「仏門に入る」

太原雪斎が開いた臨済寺

4歳で仏門に出され、駿河国富士郡にある善得寺の琴渓承舜に最初に預けられました。しかし1529年に承舜が没したために、彼の弟子であった九英承菊(後の太原雪斎)がその役割を継承したといいます。

その後、太原雪斎と共に建仁寺に入り得度して栴岳承芳となりました。さらに太原雪斎と共に京の妙心寺で大休宗休の元で学識を深めたといいます。この期間に今川義元は、京の文化に触れたといわれています。

兄今川氏輝・彦五郎が死去する

1536年に今川義元は2人の兄を亡くしています。

1526年に父が死去し、兄の今川氏輝が当主となりました。今川義元が駿河に戻った期間は詳しくは分かっていませんが、1536年に兄の今川氏輝が死去する時には、京から駿河に戻ってきていたといいます。そして同年にもう一人の兄、彦五郎が死去します。同年の余りに不自然な2人の兄の死から、疫病説・毒殺説・暗殺説・自殺説などが疑われています。

1536年 – 17歳「花倉の乱が起きる」

戦の舞台になった方ノ上城跡

二人の兄が死去したため今川義元は、当主となるため還俗し義元と名乗ります。しかし家臣の福島氏が、自分の一族の血を引く今川義元の異母兄の玄広恵探を当主として掲げて反旗を翻しました。この戦が花倉の乱といわれています。戦は太原雪斎などが率いる義元軍が優勢であり、最後は花倉城陥落に伴い玄広恵探の自害をもって花倉の乱は終焉しました。これにより今川義元は正式な当主となったのです。

1549年 – 30歳「松平家を支配し領土拡大する」

徳川家康は幼少時は人質生活を余儀なくされた

今川義元は三河での織田勢の勢力を駆逐し、事実上三河地域を領土とすることに成功しました。この時に織田家との人質交換により、嫡男の竹千代(後の徳川家康)を奪回し配下にしています。そして1551年に織田信秀が死去したために、尾張への攻撃を強めていったといいます。

1553年 – 34歳「今川仮名目録を追加する」

幕府のもうけた守護不入の地を廃止した

1553年に亡父が定めた「今川仮名目録」に追加をしました。これによって現在の今川領国の秩序維持を行っているのは足利将軍家ではなく今川氏そのものであることを理由に、室町幕府が定めた守護使不入地の廃止を宣言したものでした。

これは守護大名としての今川氏と室町幕府間に残された関係を完全に断ち切った形となり、今川氏は既に室町幕府の領国を統治する守護大名ではなく、自らの実力によって領国を統治する戦国大名であることを明確に宣言したものでもあったといいます。

1554年 – 35歳「甲相駿三国同盟を結成する」

武田信玄と北条氏康と三者で同盟を結びました

1554年に甲相駿三国同盟を終結しました。この時それぞれを治めていた武田信玄・北条氏康・今川義元の三者の合意によるものでした。この同盟は三国とも目的は明白であり、今川氏の場合は新たに影響を及ぼした三河の経営の領内の支配体制を確立しつつ、戦略面においては争う相手を織田氏のみに絞ること出来るようにする目的であったといいます。

1560年 – 42歳「桶狭間の戦いで討ち死にする」

桶狭間にある今川義元と織田信長像

1560年に今川義元は、20000人余りの軍を率いて尾張に進行しました。織田方に占拠されていた大高城を攻め落としたため、本隊を大高城へ移動させている途中に桶狭間で休憩していたところを、織田信長の襲撃を受け、奮闘の末毛利良勝に義元左文字と首級を奪われ薨去しました。享年42歳でした。

今川義元の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

戦国人物伝 今川義元 (コミック版日本の歴史)

当時激戦地だった東海道で「海道一の弓取り」といわれた今川義元の人生を、分かりやすく漫画にしてあります。以前の「愚将」のイメージではなく近年の、有能な今川義元像で書かれた漫画です。読みやすく本が苦手な方でもすっと読めます。

今川義元 知られざる実像

従来の今川義元像を覆す内容が書かれた本です。「海道一の弓取り」の戦の功績が分かり、歴史ファンには必見です。知られざる今川義元像を知ることができる一冊です。

まんがでわかる! 今川義元ものがたり

子供に是非読ませたい漫画です。歴史に興味がなかったり、余り知らない子供にもまずは興味を持ってもらうことができる一冊です。もちろん大人でも面白く読むことができておすすめです。

おすすめの動画

今川義元討死

大河ドラマの今川義元が討ち死にをした場面を編集したものです。歴史ファンはやはり好きなシーンなのではないでしょうか。戦国時代の時代が変わる瞬間といわれています。

おすすめドラマ

NHK大河ドラマ 麒麟が来る

2020年放送のN大河ドラマ「麒麟が来る」は、従来の今川義元像ではなく、勇ましい「海道一の弓取り」を意識して作られています。近年見直されてきている今川義元像が採用された、今川義元のイメージが変わること必須です。

NHK大河ドラマ 武田信玄

1988年に放映されたNHK大河ドラマ「武田信玄」は、従来のイメージによる今川義元像が印象的です。置眉に白塗りの化粧を施した今川義元を見たい方はおすすめです。

関連外部リンク

今川義元についてのまとめ

いかがでしたでしょうか。実は筆者はこの記事を書くまで「公家かぶれ」の今川義元のイメージが強かったのですが、最近の学説で実は優れた武将だったということを知り、新鮮な気持ちです。なんとなく大河ドラマのイメージがあり桶狭間の戦いばかり知っていたので、今回今川義元の領地政策などを新たに知って、その先進性に驚かされました。

今川義元という人は、非常に優れた文化人でもあり武将でもあった非凡な人であったのだなと感じた次第です。日本の伝統文化を重んじることは大事なことであり、文武両道を心がけていたというところに、私たちも見習うところが多くあるのではないかと感じました。この記事を読んで、少しでも今川義元の視点からの戦国時代に興味を持っていただいたら嬉しく感じます。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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