今川義元とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や死因、愛刀も紹介】

今川義元の功績

功績1「海道一の弓取りの異名を持っていたこと」

海道一の弓取りと恐れられた今川義元

今川義元は「海道一の弓取り」と呼ばれ、東海道一の強い武士と恐れられていました。「弓取り」とは弓矢で戦うものから転じて「武士」、転じて「国持大名」を表す言葉となったといいます。なぜその異名を得たかは東海道で幅を効かせ、甲斐の武田信玄・相良の北条氏康と並ぶ東日本を代表する武将として活躍していたからでした。

その三強が、1554年に「甲駿相三国同盟」を結びます。今までの後顧の憂いを断って、それぞれの間近な敵に集中することが目的でした。そのことも相まって、当時もっとも天下に近い大名といわれるぐらいの実力があったといわれています。

今川義元は外交能力に優れていた

甲駿相三国同盟の時の勢力図

今川義元の強さの秘訣に外交能力が優れていたことがありました。当時今川家と武田家、北条家は領地が接していた為、何度も戦が起こっていました。そこで義元は互いの利害が一致する事を伝え、3つの家で同盟を結ぶことにしたのです。戦わずして勝つことを徹底していた事も、強さの秘訣だったといえます。武芸よりも戦略で勝つタイプだったといえるでしょう。

功績2「領国経営に非常に優れていたこと」

検地の様子

今川義元は政治家として領地を治め、それによって軍事力を高める能力に優れていたといわれています。主だって行ったことが、

  • 検地を行うこと
  • 法律を整備すること

でした。これにより領民や家臣の実態を把握することができ、税収の安定化や治安維持に務めたといわれています。越前の朝倉宗滴は、「国持ち、人つかいの上手。よき手本と申すべく人」と評しています。

また大量の兵士を集めて運用するために、寄親・寄子制度というものを導入しました。これは、今川家の家臣である武士を寄親、普段は農業に励む有力な農民を寄子とし、寄親が寄子を指揮して戦う制度です。これにより戦になると、寄子は自分の使用人と共に寄親の命令に従って戦います。この制度と戦に参加した農民は年貢を軽くする、といった特例と合わせる事で、多くの兵士を確保できるようになったといいます。

功績3「文化的な事への関心が大きく”今川文化”を残した 」

和歌を趣味とし、多くの作品が残されている

先述しましたが、今川氏は荒廃した京の都から逃げてきた公家や文化人を受け入れていた為、駿河は「東国の京」「東国の都」といわれていました。今川氏は京の都を模して、街づくりを行い今でも地名や町名に京を模した地名が残っているといいます。

後に駿河で育まれた京風公家文化を「戦国三大文化」の一つと評され、「今川文化」といわれています。今川家も定期的に歌会を開き、和歌を愛でたといいます。ただし今川義元の和歌の腕前は趣味の域を出ず、公家の冷泉為和に酷評された記録が残っています。

今川義元の名言

今川義元の人生観が分かる歌です。

昨日なし 明日また知らず 人はただ 今日のうちこそ 命なりけれ

訳は「昨日は終わってしまったこと。明日のことはまだわからない。人は今日一日が全てである。」という心かと思われます。一瞬一瞬の今は二度と帰ってこないから、今をいかに生きるかで未来が変わってくるということでしょうか。現在を生きる私たちにも当てはまる深い名言といわれています。

今川氏真は文武をおろそかにし、遊びに夢中になっていたという

汝既に成長しけれども、童心未だ失せず

息子の今川氏真に送った言葉です。「内容はお前はすでに成長したというのに未だに童心を失わず、鶏を闘わせたり狗を走らせるばかりで、第一になすべき文武を疎かにしている。今これを改めなければ、必ずや国は覆り、家を滅ぼすことになるぞ」と諭したといいます。実際に息子の氏真の代で今川氏は滅亡しました。

紅葉と川という題材の王道な歌

きてみれば 嵐のおとの 高尾川 水にも色の ちる紅葉かな

今川義元の作品です。訳は「高尾川に来て眺めてみると、嵐が吹き川に紅葉が散って紅葉色に染まっていることだ」といった心でしょうか。素直な作風で、和歌を好んでいたことが偲ばれる歌です。今川義元の教養の深さが分かります。

今川義元の人物相関図

今川義元とその周りの人々

今川義元にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「今川義元の首塚の祟り」

今川義元の首塚
出典:日本伝承大鑑

義元の首塚は明治時代になって今川の菩提寺臨済寺に移されましたが、それまでは静岡市の天澤寺跡にあったといいます。この天澤寺跡で未だに今川義元の祟りがあるといわれています。天澤寺跡地を購入した人をはじめ、その家を買った人は次々と不幸が起こったといわれています。大雨により裏山ががけ崩れを起き、その家は崩れてしまったこともあったそうです。

都市伝説・武勇伝2「桶狭間の戦いの時に兄の亡霊が現れた!?」

桶狭間に向う途中で兄の霊を見かけたという

桶狭間の戦いの直前に、今川義元の夢に花倉の乱で家督を争った異母兄の玄広恵探が現われ「此度の出陣をやめよ」と言ったといわれています。今川義元は「そなたは我が敵。そのようなことを聞くことなどできぬ」と言い返すと「敵味方の感情で言っているのではない。我は当家の滅亡を案じているのだ」と述べたところで夢が覚めたといいます。

今川義元は駿府から出陣し藤沢で、亡くなったはずの玄広恵探の姿を見つけ、刀の柄に手をかけたという伝説があります。

都市伝説・武勇伝3「今川義元は沢山のお墓が存在する?」

愛知県に今川義元の墓は、供養塔を含めると6個存在します。

桶狭間古戦場伝説地にある今川義元の墓
  • 駿公墓穴(愛知県名古屋市)
  • 桶狭間古戦場伝説地(愛知県東明市)
  • 今川義元首塚(愛知県西市)
  • 今川義元胴塚(愛知県豊川市)
  • 今川義基墳(愛知県東海市)
  • 今川塚(愛知県清州市)

なぜこんなに墓が存在するかというと、古戦場から見つかった墓石を祀ったものや、打ち取られた今川義元の胴を運んだが損傷が激しいために途中で埋葬した胴塚や、後に首を返還されたけれども損傷が酷くすぐ埋葬した、そういった理由です。

また桶狭間の戦い後に、東海市に逃げ延びた今川家の家臣が土着し「義基」と字を変えて供養塔を建てたという逸話の物や、首が晒された場所に供養塔が建てられたりしています。色々な経緯で墓が建てられ、存在しているのです。

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