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夢野久作とはどんな人?生涯・年表まとめ【経歴やおすすめ代表作品、意外なエピソードも紹介】

夢野久作は日本探偵小説三大奇書として数えられる「ドグラマグラ」を執筆した小説家です。この作品は「読破したものは、必ず一度は精神に異常を来たす」とまで言われ、当時の文学界をアッと言わせた小説でもあります。

夢野久作 20代の頃

このような奇書を書き上げる夢野久作という人物はどんな人物なのでしょうか。幼少期から学問を叩き込まれ、晴れて慶應大学に進学するも、中退して出家、農園経営や陸軍少尉など様々な肩書きを有しながら、最終的には小説家として活動するようになったという異色の人生を送った人物のようです。

ドグラマグラ 角川文庫

小説家となってからは「ドグラマグラ」をはじめとして、「瓶詰地獄」、「少女地獄」、「いなか、の、じけん」など数多くの作品を世に送り出しました。しかし、「ドグラマグラ」を発表して1年後には脳溢血で急死してしまうのです。

今回は「ドグラマグラ」のような奇書を書き上げた小説家・夢野久作がどのような人物なのか興味が湧いた筆者が数ある文献を読み漁って得た知識を元に、夢野久作の生涯・代表作品・意外なエピソードまでを幅広くご紹介していきたいと思います。

夢野久作とはどんな人物か

夢野久作 作家として駆け出しの頃
名前杉山直樹(杉山泰道・杉山萠圓・夢野久作・海若藍平・香具土三鳥)
誕生日1889年1月4日
没日1936年3月11日
生地福岡県福岡市小姓町(現在の福岡県福岡市中央区大名)
没地東京都渋谷区南平台町
配偶者鎌田クラ
埋葬場所福岡県福岡市 一行寺

夢野久作の生涯をハイライト

夢野久作の生まれた福岡市の現在の様子

夢野久作の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 福岡県福岡市小姓町に誕生
  • 両親が離婚したため、祖父母に引き取られ、熱心な教育を受ける
  • 1911年、22歳の時に慶應義塾大学へ
  • 家に戻ってきた父の反対を受け、慶應大学を中退
  • 農園経営、出家を経て新聞記者として就職
  • 1918年に鎌田クラと結婚
  • 1926年「あやかしの鼓」で小説家としてデビュー、この時から「ドグラマグラ」の元となる作品を執筆開始
  • 「押絵の奇蹟」を江戸川乱歩から褒められる
  • 1935年に大作「ドグラマグラ」完成
  • 1936年、突然脳溢血を引き起こし、帰らぬ人に

小説家の他に4つの肩書きをもつ男

小説家 イメージ

夢野久作は童話作家、小説家として生きていく道を選ぶまでに様々な経験しました。

その経験において得た肩書きとは以下の6つです。

  • 陸軍少尉
  • 農園経営者
  • 禅僧
  • 新聞記者
  • 歌謡喜多流教授
  • 郵便局長

慶應大学在学中には、同時に見習士官として将校教育を受け、最終的に陸軍少尉の肩書きを得ることになりました。また、父の反対を受けて慶應大学を中退した後は、農園経営、出家、再度農園経営と目まぐるしい環境の変化を経験していったのです。

禅僧 イメージ

その後は父からの斡旋により九州新聞の新聞記者として務めることになりましたが、1918年の29歳の時には喜多流という歌謡の教授としても職務を行うことになります。さらには1930年、小説家として精力的に活動している中で、故郷の福岡市にある郵便局の郵便局長の座を拝命することにもなるのでした。こうして夢野久作は生涯において多数の肩書きを所有することになったのです。

「夢野久作」というペンネームになった背景

キセルをふかす夢野久作

夢野久作の本名は杉山直樹と言いますが、なぜペンネームが「夢野久作」になったのでしょうか?このペンネームの背景には新聞社や出版社の社主を務めたこともある父親の影響があったのです。

夢野久作が小説を発表し始めた当初に彼の作品を読んだ父親がその内容について「夢の久作の書いたごたる小説じゃね」との感想を述べたことから、その言葉を気に入った夢野が「夢野久作」というペンネームを使うようになったということです。ちなみに「夢の久作」というのは福岡の方言で、「夢想家、夢をみてばかりいる人」という意味を表します。

夢野久作の代表作品や有名作品

日本探偵小説三大奇書

夢野久作の代表作といえばやはり「ドグラマグラ」でしょう。「ドグラマグラ」は構想から刊行に至るまで約10年の歳月をかけた大作で、小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」と中井英夫の「虚無への供物」と並んで日本探偵小説三大奇書として認識されています。「この本を読破したものは、必ず一度は精神に異常を来たす」と評され、当時も話題となりましたが、現在に至っても依然として多くの人々に読み継がれるような小説となりました。

少女地獄 角川文庫

また、そのほかにも「少女地獄」や「瓶詰地獄」、江戸川乱歩に賞賛された「押絵の奇蹟」などが代表作品として挙げられます。「押絵の奇蹟」を読んだ江戸川乱歩は「2、3ページ読むと、グッと惹きつけられてしまった。探偵小説壇においては珍しい名文ということが出来る」と評しました。

探偵小説?怪奇小説?一括りにできない夢野小説のジャンル

丸メガネに角帽をかぶる夢野久作

夢野久作は探偵小説の懸賞に応募して当選したことをきっかけに小説家としての道を進むことになりましたが、彼の小説のジャンルはひとくくりに探偵小説とまとめられるものではないようです。また、「ドグラマグラ」や「少女地獄」に代表されるように、怪奇小説家としても名を挙げているため、ある時には奇書のジャンルに分類されることもあります。

小説家は何かと「〇〇作家」などどひとくくりにされがちですが、内容が読みやすく、シンプルな構成となっている作家ほどジャンルを絞ることが容易となります。

その一方で、夢野久作の小説は深読みが必要なことから、読む人によって捉える印象が変わってくるので、ある特定のジャンルに当てはめることが難しく、「夢野久作はこのジャンルの作家だ!」と断定するのは容易ではなくなっているのです。

「ドグラマグラ」を発表した一年後に急死。死因は「脳溢血」

夢野久作 墓

夢野久作の死因は「脳溢血」でした。1935年に大作「ドグラマグラ」を発表してからわずか1年後に急死してしまうのです。1935年には多額の借金を抱えた父・茂丸が亡くなっており、その資金集めに奔走している矢先での訃報でした。

資金繰りに協力していたアサヒビールの重役が夢野の元を訪れている際に突然倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったのです。

夢野久作の功績

功績1「狂気と殺人を主題にした小説『ドグラマグラ』が日本探偵小説三大奇書に」

ドグラマグラ 映像作品

夢野久作の代表作としてもっとも話題に登るのが「ドグラマグラ」です。この作品は原稿用紙にして1200ページ以上にも渡る超大作ですが、夢野の文体はリズム感が良いので、比較的スムーズに読み進めることが出来るというのが一般的な見解です。

「ドグラマグラ」は日本探偵小説三大奇書として「黒死館殺人事件(小栗虫太郎)」と「虚無への供物(中井英夫)」に並べられています。刊行当初から「この本を読破したものは、必ず一度は精神に異常を来たす」と評され、当時、一世を風靡しました。現在でも多くの人に親しまれ、その文章のボリュームの多さと内容の深さは時たま話題となることがあるのです。

功績2「独白体、書簡体で執筆するスタイルを確立!読みやすい文章が完成」

夢野久作 「押絵の奇蹟」

夢野久作の作品は一般的な小説形式で執筆されているものもありますが、独自の形式で書かれているものも多数あります。「支那米の袋」や「悪魔祈祷書」に代表される独白体形式と呼ばれる手法や、「瓶詰地獄」、「押絵の奇蹟」に代表されるような書簡体形式と呼ばれる手法が夢野の編み出した独自の執筆方式で、この特徴から、リズム感よく文章を読み進めることが出来るようになっています。

「ドグラマグラ」も大部分に書簡体形式が用いられており、これが夢野のスタイルとして世間に浸透していったのです。

夢野の作品の他に書簡体形式を用いている有名作品として挙げられるのは「風の便り(太宰治)」、「錦繍(宮本輝)」、「カンガルー通信(村上春樹)」などです。海外作家でもゲーテの「若きウェルテルの悩み」やジーン・ウェブスターの「あしながおじさん」などが書簡体形式で執筆されています。

夢野久作の名言

「胎児よ。胎児よ。なぜ踊る。母親の心がわかっておそろしいのか。」

「ドグラマグラ」に登場する名言です。お母さんのお腹の中にいる胎児が時々動くことを表現した言葉になっています。母親の心臓に近いところにいるために、その心がわかっておそろしいから胎児が動くのではないかという夢野の想像力が発揮された名文です。

「五十、七十、百まで生きても。アッという間の一生涯だよ。何が何やらわからぬまんまに。会うて別れて生まれて死に行く。」

人生の短さ、儚さを説いた名言となっています。47歳でその生涯を閉じてしまった夢野久作ですが、もし100歳まで生きていたならどのような文章を残していったのでしょうか。

「異性の美しさを感ずる心と、恋と、愛と、情欲とはみんな別物です。」

こちらも「ドグラマグラ」に登場する言葉です。恋愛や情欲は全て切り離して考えるべきだと夢野は述べています。「異性の美しさを感ずる心と、恋と、愛と、情欲」が別々に自分に訴えかけるのか、それとも順番にやってくるのか、色々と考えさせられる表現となっています。

夢野久作にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「慶應ボーイからの出家」

慶應義塾大学

夢野久作は教育熱心な祖父母の影響を受けて、幼い頃から詩経や易経、四書五経などを叩き込まれるなど、学問の習得に関しては人よりも秀でていました。その習慣が功を奏し、福岡県立中学修猷館を卒業すると、慶應義塾大学予科文学科に入学することになるのです。

晴れて慶應ボーイとなった夢野久作ですが、新聞社や出版社の社主を務めたこともある父・茂丸が文学を嫌っていたために、その矛先が夢野にも向けられるようになり、結局慶應大学を中退してしまうことになるのでした。

出家 イメージ

慶應ボーイをやめてしまった夢野久作は一旦農園経営を経由してから、出家する道を選ぶことになるのです。杉山泰道として京都や奈良で修行を積み、吉野山や大台ケ原山にこもるなど、本格的に禅僧として活動したのでした。

最終的には禅僧の道も途中で投げ出し、父・茂丸に斡旋してもらった新聞記者の地位に落ち着くことになります。

都市伝説・武勇伝2「江戸川乱歩との懇意な関係」

江戸川乱歩

夢野久作は江戸川乱歩と親密な関係にあったことが知られています。江戸川乱歩は夢野の「押絵の奇蹟」を評して、「2、3ページ読むと、グッと惹きつけられてしまった。探偵小説壇においては珍しい名文ということが出来る」と絶賛しました。

2人はその後、それぞれに関しての感想文をお互いに執筆することになります。猟奇社という出版社から「江戸川乱歩氏に『久作論』を頼んだから、夢野氏には『乱歩論』をお願いします」という注文が来たという趣旨の説明が、夢野久作著「江戸川乱歩氏に対する私の感想(猟奇社に依頼された『乱歩論』)」という本の中に記されています。

博多人形 イメージ

また、現在も残っている旧・江戸川乱歩邸には夢野久作から贈られたとされる博多人形が展示してあることからも、2人の間には密な交流があったことが伺い知れます。

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